- 浮遊大陸でもういちど
- 序章 空から落ちた日
- 第一章 蝕の始まり
- 第二章 フレア・カレル(1)
- 第三章 フレア・カレル(2)
- 第四章 フレア・カレル(3)
- 第五章 フレア・カレル(4)
- 第六章 浮遊大陸レポート(1)
- 第七章 浮遊大陸レポート(2)
- 第八章 浮遊大陸レポート(3)
- 第九章 浮遊大陸レポート(4)
- 第十章 コンタクト
- 第十一章 失望
- 第十二章 キャンプ・フォーマルハウト
- 第十三章 下降気流
- 第十四章 ロング・インタビュー
- 第十五章 蝕の終わり
- 第十六章 光射すところ
- あとがき
浮遊大陸でもういちど
彼女たちの髪は、羽根だった。
朱鷺羽色、あるいは薄山吹の、肩にとどく長い髪。
全身の羽根は肌に沿って重なり、その肢体を鱗光で煌めかせた。
序章 空から落ちた日
病室の窓の切り取られた空は、とても小さかった。
夏の高い太陽は壁に沿って落ちて、夕陽ばかりが部屋に忍び込む。
オレンジ色のドアに、ノックの音。顔を上げると、ほんのりと夕焼けに染まった高山さんの姿があった。
白髪混じりの髪。刺繍の入ったシャツ。「空は退職してから始めたんだよ」って言ってたから、そろそろ七十だと思う。DJ、コラムニスト、レコード会社の取締役を務めた、僕からしたら雲の上のひと。そのひとが、「照井くんほどのひとでも事故を起こすんですから、空は怖いですね」と、僕を持ち上げる。
「いえ、僕なんかまだ……」
パラグライダーを始めたのは大学に入ってすぐの頃。まだ三年とちょっと。それと、彼女の死からまだ一ヶ月。少し自暴自棄になってたのかもしれない。消えてしまいたかった。この世界から。
そんなことをうまく言葉にまとめられず、
「なんか、みんなに迷惑かけちゃって、僕、生きていてよかったのかなぁ、って……」
この一ヶ月、ずっと自問してきたことを、つい口にしていた。
「よかったもなにも、本当にほっとしましたよ、照井くんが無事で」
高山さんは少し大げさに言うと、「こんな話があるんですよ、照井くん」と、指を鳴らしてみせた。
語ってくれたのは、大怪我から復帰したロックミュージシャンの話。事故で左腕を失ったドラマー、ステージから落ちて複雑骨折を負ったギタリスト、それから、自転車事故で骨移植の大怪我を負ったヴォーカル――三番目に出てきた『U2』という名前には、僕も聞き覚えがあった。
「最初のふたりは、照井くんの若さだと知らないかもしれないけど、どちらもロック史に名を残す偉大なミュージシャンですよ」
僕はなんとか、笑顔だけは返して、
「でも、僕はもう、空はやめようかと思います」
考えもなく口にしていたけど、高山さんの笑みが絶えることはなかった。
「そうですか。残念です。でも相談だったら、なんでも乗りますよ」
僕はまだその言葉にも、愛想笑いを返すのがせいぜい。
事故は一昨日――だったと思う。とくにフライトの予定はなかったけど、胸の虚ろを埋め合わせたくて、富士の裾野にかすかに駆ける風に乗った。だけど風は、ほんの一片の高揚を与えることもなく、静かに吹き去った。
静かに高度を下げながら、それでもどこかに風が見つかる気がして、あと百メートル……いや、あと十メートルでも先へ飛べたら、また上昇気流をつかめるのに――遠い雲に手を伸ばしているうちに、気がつくとラインが木の枝に触れて――そこからのことは覚えていない。
「いまは怪我を治すことが先ですよ。焦りは禁物です」
「そうですね。でも――」
僕の怪我が治ったところで――
「もう、いないんですよ。いちばん大切なひとが」
このさき僕は、なんのため生きていけばいいのか。
鼻先で涙をこらえる僕に、高山さんはゆっくりとうなずいて、口を開いた。
「人生に目的なんかありませんよ。ただ、結果があるだけです。ただ、生きていればいいんです」
柔らかく紡がれたその言葉を、僕は両手に受け取って――
「亡くなった彼女のためにも、照井くんは生きてください」
高山さんはそう言ってくれたけど、でもそれだけのことが、今の僕には辛すぎて。
彼女とはもう、三年会ってなかった。
正直にいうと、その間、二回失恋して、彼女のことも忘れかけていた。
「あの日、アパートの部屋に戻ると、鍵が開いていたんです」
一ヶ月前のこと、いまなら話せる気がして――
「そこに並んだ小さなスニーカーを見ても、だれかの悪戯だとしか思わなくって、シャワールームの方で水音が聞こえたんで、いったいだれが忍び込んだんだ、だったらこっちから脅かしてやろうって、ドアを開けて、そしたら、血まみれの床に彼女は倒れていて、そのとき、僕、どんな表情だったと思います?」
そこまで語るとポロポロと涙がこぼれ始める。
僕の顔を見て、高山さんは静かに首を振る。
「笑っていたんですよ」
僕の胸からあふれ出す慚愧を、高山さんは丁寧に拾い集めた。
そしてその悲しみと、やりきれなさとを飲み込んで、改めて口を開いた。
「だけど照井くん、いつか天国で、そのひととまた会うんでしょう?」
天国で……?
「天国で、いつかまた会って、話をするんですよね、そのひとと。そのときに、どんな話ができるか、考えてみませんか?」
高山さんの、静かな優しい声が、窓からの風に揺れた。
「それまでに、どんな生き方をして、どんな事があったか。それを彼女に伝えるとき、――もういちど生まれよう、この世界に――って、そう言えたら、ステキだと思いませんか?」
僕は……
「――やっぱり人生はつまらなかったよ、君の選択が正しかったよ――でもかまいませんよ。それは照井くん次第ですから」
心なんか、殺したはずだったのに……
「そのひとにかける言葉を探すための人生ですよ。これからは」
その日の夜は、泣きながら眠りに落ちた。
第一章 蝕の始まり
酔が回った田中先輩は、うちの部署のプリンターのよう。
時折不意に止まっては、また不意に動き出す。
「だからあ」
僕は肉をつまみながら、その言葉の続きを待つ。
「急に俺が正義に目覚めたりしたらさあ、どう思うよ?」
何度目だろう、この話も。
だれかが取り忘れた書類のように、つい先日も目にした気がする。
「可愛い奥さんも可愛い娘ちゃんも放り出してシリアとかスーダンとか飛んで、これが世界だーみたいなこと言い出したらさあ、アタマ大丈夫かって思うじゃん」
カウンターひとつの小さい焼肉屋で、客はもうふたりだけ。愛想のいいマスターがたまに話しかけてくる。共通の話題といえばプロレスの話。先輩の知人にプロレス誌の編集のひとがいて、そのひとに紹介された店。
「いや、そこまでは言いませんよ」
と、これも何度も言ってるなと思いながら、僕も、肉を。
酔も回り始めた柔らかい焦点のなかに先輩の左手、第二関節のあたりに毛が生えて、ほっそりとした薬指には結婚指輪が見える。
「俺はさあ、ジャーナリストじゃないんだよ」
肉をたいらげ、そしてビール。
「ニュース週刊誌に記事書いてますってだけの、めんこいお父さんだよ」
うん。めんこいかどうかはともかく、まあ、わかりますよ。
先輩は口を曲げて笑って、空になった僕のコップにビールを差し出す。
この赤ら顔のおっさんにも、去年、娘が生まれた。奥さんには本当に申しわけないと、何度か腕時計を指差してみるけど、いやいやいや、あと五分、次の特快に合わせるから、まだ肉が残ってるから、と。
「テルイちゃーん。そうやってタンポポ生やしてるけどさあ」
ビール瓶を傾け、僕の一房だけ黄色く染めた髪を先輩は揶揄する。
「うっかりした時間に帰ると、いま寝かしつけたとこなのに起きたらどうするのとか言われちゃうでしょう? だからこうやってちょっと時間をずらしてんじゃない」
ちょっとずらすって、どうせずらすんだったら前にずらせばいいのに。
「またそういうことを言うー。定時にお疲れ様ーって、そんな空気じゃないのいい加減わかってるでしょ? 今年何年目よ、ほうどうぶー、照井健はー」
上のひとはすぐに何年目なんてことを言い出す。僕はまだ入社して三年、田中先輩の五年後輩だったと思う。レジャー誌に希望は出してるけど、だれに気に入られてるんだかずっとゴシップ誌。ちなみに先輩が自虐的にそう呼んでいるだけで、報道部なんて部署はない。名実ともにジャーナリストじゃないんだ、本当は。
SNSでジャーナリストを名乗ってる連中は多いけど、僕は気後れする。それを名乗ってしまったら本当にジャーナリストとして記事を書かなきゃいけない気がして。学生時代からやってたブログだって、いまは就職した時のエントリーも消して、ただ休日に出かけた山のことだけ。表紙はパラグライダー。いまもたまに飛ぶことがあって、先輩もよくコメントをつけてくれる。
「ジャーナリストってのは生き様としてそれを選んでるひとのことよ。俺ら違うじゃん」
できるだけ僕が見ないようにしていることを、酔った先輩はあっさりと口にする。
「世間はちゃんと報道しろとか、不正を暴けとか言うけどさあ、お前がやれよ。そう思うんだったら。こっちにはねえ、残念ながらそーゆー社会正義みたいなものはないの。おぜぜを稼ぐためにやってんの、おぜぜを」
右手で作ったおぜぜの印。
「おぜぜ!」
復唱して僕も作って見せるおぜぜの印。
「だいたい何がジャーナリズムだよ。自社の膿も報道できんと。俺の周りなんか特ダネしかねえよ」
先輩は空になったコップを置いて、「テルイちゃーん」と、ビール臭を吐き出す。
「いいんだぞ、お前。俺のこと、軽蔑して」と、笑顔を見せて、「べつにいいんだよ、俺は。軽蔑されても。幸せだから。だけどー」ここで少し間を置いて、「お前はー」また止まって、「ちがーう」
完璧な酔っ払いっすね、先輩。
「お前は彼女もいないしー、なんならこないだ失恋したばっかりだしー」
いや、それは。
「幸せでもない、野心もない、どー、すん、のっ、って、話でしょう」
先輩は虚ろな目でコップを眺める。
「どっちか選ぶんだよ、さっさと。幸せになりたいのか、社会のために身を捧げんのか」
いや、選ばなきゃいけないのかな、それって。
「先輩の仕事は凄いと思ってるんですよ、いつも。上げてくる記事なんか惚れ惚れしてますし」
ずっとその背中を見てきた。照れを隠した笑いの下の素顔も、すべて。
「そりゃそうだ。ちゃんと見習えよ、おまえも」
先輩は決していまの仕事には満足していない。心の奥底では、いまもジャーナリストになろうともがいている。
「ええ、わかってますよ、先輩」
それに応える先輩の言葉はもう、ろれつも怪しく聞き取れなかった。
「とりあえず明日の代休は奥さんに楽させてあげてください、先輩」
マスターに目配せすると、「田中先輩! そろそろ暖簾を」と時計を指してくれる。
三鷹の北口、肉焼きじゅんちゃんを出て、駅へと歩きながらタクシーをつかまえる。
「なんかでけえニュースねえかなあ。俺のジャーナリスト魂が目覚めるようなヤツ」
「ですよね」考えずに相槌を打ったあと、ふと思い出して、「あ、そういえば明日、日蝕らしいですよ。インドネシアあたりから太平洋にかけて。日本からもほんの少し欠けて見えるらしいです」
「そっかあ、じゃあ、一緒に見に行くかあ」
「行きますかあ」
しなだれかかってくる先輩を国分寺のアパートまで届けたその翌日。
第一報は国際線の運行停止のニュースだった。
速報もされずSNS情報が先行し、テレビのニュースはしっかりと朝のドラマが終わるのを待って、その後のバラエティ番組のなかでようやく「羽田、成田、ともに全便運行を見合わせています」と速報で伝える。「原因はいまのところ発表されていません。いやあ、早く復旧するといいですね」と女性キャスターは深刻な顔を繕い、「続報が入りましたらお知らせします」と男性キャスターが締めた後は、ミラクル洗濯術のコーナーに移っていく。
テレビだけは必死に日常にとどまろうとしている。
現実で起きているのは世界規模でのネットワーク障害。携帯電話も不通の地域が増え、テレビの向こうにも混乱が見えるようになる。ミラクル洗濯術から一時間後、急遽ニュース速報が流れ、特別放送に切り替わった。その伝えるところでは、全世界規模での通信障害の発生、同じく世界規模での航空機の運行停止。それ以上の情報は入っていない、とのこと。
何か良くないことが起きている――
雑誌記者でなくてもそう直感した者は多かっただろう。
SNSは輻輳からトラブルが増え、テレビのチャンネルを回しているうちに朝九時半を回る。代休を返上してオフィスに行けばここよりは情報が入る。だが、電車の運休の速報も次々と入ってきている。そしてこの緊急事態に、なぜか胸は高鳴る。そこに先輩からの電話。
「津波が来る。もう沿岸地域は浸水してる。いまはそこを動くな」
津波?
「待ってください先輩、いったい何が起きているんですか?」
津波だったら報道を控える情報でもない。発生が予測できた時点で速報が出る。
「わからんが、神保町の連中がみんな言ってる。実際に足元の水位が上がり始めてんだと。大地震のニュースもないし、水位はどんどん上がってるが津波なのかなんなのか、どの程度の規模かもわからん。それと、ハワイのラジオ局が全滅。たぶん、原因は同じだ」
「世界規模ってことっすか?」
「ああ、津波が本当だったら、すぐに電気が止まる。それまでにモバイルバッテリーぜんぶ充電しておけ」
電話を切ると同時にテレビで津波警報が流れ始める。河口など遡行可能なところでは波高は十メートル以上、範囲は日本全域。
――川に沿って内陸まで波が押し寄せる可能性があります、海から離れている場合でも決して警戒を怠らないでください――
二度、三度と繰り返す。
一〇時よりテレビは一斉に津波の報道に切り替わり、全国各地の被害が伝えられる。
午後になるとネットには津波や地下鉄水没の映像も上がる。無関係なフェイクも多い。それでも、沿岸地域がどんどん海に呑まれているのは間違いない。また、今回の津波は通常の津波とは違って水が引かない。一部のテレビ局は玄関が水没し、その様子を伝えている。
夕方、気象衛星からの映像が流出。一切の先入観をなくして見れば『太平洋に巨大な大陸が生まれた映像』だが、普通に考えれば偽造、あるいは画像処理のミス。そしてお決まりの、コラ画像の反乱。巨大な大陸がゲームの地図に置き換えられたものや、昔のカルト教団の教祖がコラージュされたもの。ただ今回に限っていえば、報道管制に危機感を覚えたジャーナリストからの発信も多い。信頼できる複数のアカウントが、皇族が自衛隊のヘリで東京を脱出したことを伝える。
二十時過ぎ、先輩からの電話。
「深夜二時から会見がある。全世界同時らしい。国連での発表があって、そのあと日本の総理大臣が会見する。場所は入間だ」
「入間って、埼玉の?」
「報道はされてないけど、都心はもうかなり浸水している。しかも水が引かないどころか、海面はまだ上昇してるらしい。それで記者会見は入間の自衛隊基地でやるんだって」
「先輩も行くんですか?」
「デスクに頼んでるけど、もっとちゃんとした記者が選ばれるみたいだ」
「僕は行けませんか?」
「そりゃ無理だろ。頭にタンポポ生やしてちゃ」
コンビニへ行くと、飲み水と食料品はほとんど姿を消していた。カップ麺もスナック菓子もない。食玩付きのグミがあったので、とりあえずそれを買った。
「間もなく、国連発表の中継の後、政府による記者会見が開かれます」
テレビは全国の被害を伝えながら、五分おきにアナウンスする。
そして深夜二時、国連本部のあるニューヨーク現地時間で十三時、国連事務総長の会見が始まる。会見は世界同時中継、同時通訳で、日本のテレビ局も全局これを中継、その他、ラジオ、ネット配信、ほぼすべてのメディアがリアルタイムでこれを伝える。
会見の内容は次の通り。
グリニッジ標準時 四月十九日 二一時十五分、ハワイ諸島を含む太平洋上空に大陸が出現。その大きさは東西に五八〇〇キロ、南北二七〇〇キロ、面積は北アメリカ大陸に匹敵する。
大陸外縁部は海面から約五〇〇メートル浮き上がっており、浮遊しているかにも見えるが詳細は不明。
大陸出現によると思われる重力変動で、世界規模の水害が発生している。ハワイ島とはあらゆる手段を使ったが連絡は取れず、消滅した可能性も考えられる。
大陸の内部に関しては航空機を用いた調査を試みたが、平野部に侵入したところで全機消息を絶ち、情報は得られていない。衛星からの写真に関しては現在専門家による検証が行われている。
大陸にひとが住んでいるか、あるいはひと以外の知的生命体、あるいはそもそも生物が生息しているかどうかについては、現時点では確認できていない。
このあと記者との質疑応答。米国はこの大陸の領有権を主張するか、航空機は撃墜されたのか、国連軍はこれに対してどんな動きを取るか、などの質問が上がる。
続いて、日本政府による会見も内容は同じ、事務総長の言葉を日本語に置き換えたもの。浮遊大陸が発生したのは日本時間で四月二十日の六時十五分、大陸の西端は東京より東南東約二四〇〇キロの地点であることが加えられた。
思考の糸が絡まり、理解が追いつかない。本当だったら浮遊大陸出現と喜んでもいいはずだが、出現しただけでこの被害が出ている。どうして浮いているのかは不明、いや、浮いているのかどうかも不明だが、世界規模の影響が出ている。これから起きるだろうことは想像を絶する。平野部の浸水で物流は停滞し、経済は未曾有の打撃を受ける。気流も海流も変わり、天候は世界規模での変動に見舞われる。
大陸上空で消息を断った航空機は撃墜された可能性が高く、それなりの文明が存在することは想像に難くない。まずは戦争ではなかった。それだけが安心材料ではあったが、たぶん、それ以上の絶望が待ち受けている。
ふと、そういえば今日は日蝕だったことを思い出すが、そんなことはもう一行のニュースにすらならなかった。
翌日、震度三、四規模の地震が各地で連続し、政府が外出の自粛を要請するなか、僕はバイクで中野坂上のサテライトオフィスを目指した。オフィスまでの道のりはところどころで規制され、普段とは走る車も違っていた。自衛隊を含む緊急車両や工事関係の車両が目立つ。サイレンの音。スーパーに並ぶ車の列。東八道路から人見街道、五日市街道へ。
ウェブ系の編集チームが入るオフィスのミーティングスペース。見知った顔がたむろしている。安定しない回線に苛立ちながらネットを見たり、電話で連絡を取り合ったり。通常の業務は完全に停止し、現状の把握だけに忙殺される。
「テルイちゃん、これ」
先輩が動画を見せてくる。
白い双胴の飛行船のようなものが一機、飛行船とは思えない速度で飛び回っている。
「ロスで撮影された映像。大きさは観光バスと同じくらい。飛行原理は不明、武装も不明、目的も不明。浮遊大陸と関係するんじゃないかって」
いつの間にか『浮遊大陸』という呼称が定着している。航空機はまるでUFOのように空中で静止し、次の瞬間には一気に加速する。双眼鏡のような双胴の飛行船。水筒を二本合わせたような。一応前らしい方向はあるが、後ろにも進むし、九〇度傾いても普通に浮いていられる。
「空軍は出なかったんですか?」
「高度一〇メートルあたりを飛んでるし、レーダーに写ってない可能性が高いな。そもそも高度一〇メートルを領空侵犯と呼べんのかどうか」
話をしていたら、軍事オタクの別の先輩がコーヒーを飲みながら口を挟んでくる。
「この高度で迎撃できるのはヘリかせいぜいサンダーボルトくらいだろう。あるいは地上部隊。機動性からいうとそれも難しい。そもそもこのエンジンが熱を発してなかったら、こいつを追尾できるミサイルはない。機銃を闇雲に撃ちまくるくらいしか対処のしようはないよ」
浮遊大陸に文明があると確定したわけじゃない。戦争になるか、ならないか、みたいなことを聞くのはまだ早いんだろうか。それから……と考えていると、先輩が訊ねる。
「もしこいつらと戦争になったら、勝ち目はあんの?」
そう、まさにそれ。
「ないね」
あっさりと。
「世界最強の軍隊は米軍だ。米軍の作戦で軸になるのは、空母打撃群と遠征打撃群――つまり揚陸艦部隊な。海がつながってりゃ入れることはできるが、つながってなきゃどうしようもない。航空機はことごとく撃墜されてる。地上部隊に至っては手も足も出ない。可能性があるとしたら上空から大陸間弾道弾をブチ込むくらいだろうが、これだって敵の中枢を一気に叩けなかったら反撃されてお終いだよ。一瞬でアメリカが消える」
一息でまくしたてられる。
「戦争って道はないよ。何としてでも話し合いへこぎつけないと、人類は終了するよ」
先輩は動画を何度も再生させ、眺めながらそう零した。
被害を受けた都市の多くは復旧の目処すら立たなかった。太平洋沿岸の都市は壊滅。東京も例外ではなく、地下鉄は赤坂見附駅など、山手線より東京湾寄りの駅は排水が追いつかずことごとく水没、これによって日比谷線や銀座線を始めとするほとんどの地下鉄、並びに羽田空港が機能を停止した。
テレビは国名を冠した放送協会だけがなんとか持ちこたえ、悲惨なニュースを流す一方で、「浮遊大陸を開拓して移民すれば、失ったものよりも大きな利益をもたらす」といった可能性も示唆した。しかし現実を見てみれば報道されていないだけで各国の軍用機がすでに数十機といった規模で撃墜されている。攻撃はミサイルではなく、荷電粒子砲ではないかとの噂もある。ニュースは混沌を伝え、編集部でもよく怒号が飛び交った。
――でも、そういう報道はもうほかのひとにまかせてしまおう。
僕は連日の報道でどこか吹っ切れてしまって、どうせ軍のことも政治や経済のこともわからないんだし、たとえば浮遊大陸に何が住んでるか、みたいなことを追いかけたほうがいいんじゃないかと思って、先輩にそう話すと、
「まあ、当然住んでるのは人類じゃないよな」
と、すぐに返ってきた。
「家畜も俺たちが知ってる牛とか豚とかじゃなくて、爬虫類から進化した、牛に似たモーモーとか、豚に似たブーブーとかだよ」
茶化したような口調ではあるけども、そう、そういうことなんです、と、少し食い気味に受け答えする僕を、制するように、先輩、
「テルイちゃんさあ、俺たち公安にマークされてんの知ってる?」
……って、僕たちが?
「浮遊大陸に渡りそうな人間リストに含まれてる。俺が行くわけねーしよう、全部お前のせいだからな。まあ、行くんだったら力貸すけどさあ」
そういうと先輩はフフッと笑う。先輩との付き合いも長い。こんな口調だけど真剣に考えているだろうことはわかる。多くのジャーナリストは浮遊大陸の情報を欲しがっているだけで、行きたいなんて思っていない。
――行かなきゃ始まんねえのにな。何やってんだろうな俺たち。
いつか肉焼きじゅんちゃんで交わした言葉を思い出した。
「でも、どうやって行くんですか?」
先輩は視線を落としたまま、手持ち無沙汰に青い保湿剤のチューブを弄んでいる。
「俺が聞いた話だとミクロネシアから飛行機だな」
田中先輩はたぶん、何もかもちゃんと調べあげている。公安にマークされてるのは『僕たち』じゃなくて、おそらく先輩だ。
「大陸近くまで来たらパラシュートで降りるんだってよ。上空を飛ぶと撃墜されるから、斜め上の方から、こうやって、こうな」
先輩は左手と保湿剤とを飛行機とひとに見立てて、ひゅーと言って滑空させる。
「出発地点はグアムからでもいいけど、米軍の監視が厳しいから、まずは船でミクロネシアの孤島に渡るんだと。帰りは予備のパラシュートでぴゅーんだ」
漫画みたいに言う。僕が笑い飛ばせばきっと、先輩はまた娘ちゃんの話をはじめる。
でも。
「ちなみにミクロネシアからどのくらいの距離なんですか?」
先輩は保湿剤を机に置いて、手に薄く伸びたクリームをまた丁寧に伸ばし始める。
「ミクロネシアからは三〇〇キロっていったかな? グアムからだと距離は忘れたけど、米軍の監視が厳しくて難しいんだと」
詳細な地図をもらって調べてみると、浮遊大陸の端から三〇キロほどのところにピンゲラップ島というのがあるのがわかった。赤道直下でもあるし、そこまでだったら耐寒装備なしでも飛べる。
先輩が言うように、大陸の端からパラシュートでというのは、現実的とは思えなかった。でも行きはスカイダイビングで、帰りはパラグライダーでなら、みたいなことを考えて先輩にメッセを送っていたら五日後、「ジャーナリストにならないか?」との返信。直後、着信音。
「スポンサーにお前のこと話したら、すごい興味持ってさあ。『葉っぱ一枚採ってくるだけになるかも』って話したんだけど、それでもいいって。ギャラはおまえ、聞いて驚くなよ? 葉っぱ一枚のリターンで八〇〇万。もちろん旅費はぜんぶスポンサー持ちだ。やるしかないだろ、これ」
スポンサーの件は初耳だった。物好きなひともいるもんだと、他人事のように受け流しながら、ふと気がつくと先輩も僕もなんとなくはっきりとした合意も取らないまま上陸計画を進めていた。契約書はないけど先輩の知人が間に入ってくれるとかで、「私が入るからには、有耶無耶なことにはしない」と、物真似しながら教えてくれた。
出発の期日は妙に差し迫っていて、チケットは当日受け渡し、旅行日程も当日知らされるという怪しい計画だったが、いつの間にか後戻りもできなくなっていた。
持って行くのは、水筒と携帯浄水器、携帯食、通じないけどカメラ代わりにスマホ、サバイバルナイフ――
「蚊に刺されないようにしろよ。まあ、蚊じゃないかもしれんけどさ」
と、窓辺で缶コーヒーを飲みながら、先輩。アパートの近くのマイナーな銘柄しか入ってない自販機のコーヒー。利用するひといるんだ、あれ。
虫に刺されたときの薬と、気休めで虫除け――
「予防接種とか受けといたほうがいいですか?」
「どんな細菌やウイルスがいるかもわかんないんで無駄でしょ。抗生物質持っていくといいよ、気休めに」
あとはタオル類、ビニールシート、ライター、懐中電灯、耐水性のマッチ、発電機付きラジオと、発信機、ゴーグル、マスク、防寒着。
「だから、何やってんだよお前さっきから。葉っぱ一枚でいいんだぞ? 大陸の端っこに着陸して葉っぱむしって、五分で飛び降りたらいいから」
「わかってます、そのつもりです」
と、口には出すけど本心じゃない。
「テルイちゃーん」と、少し真剣な目で、「いや、わかってないでしょ。五分にしては準備大げさだろそれ」と問われて、僕も少し正直に。
「もし安全なようだったら、少し奥まで行ってみようと思って」
「いや、それやられると、いつ回収に行っていいかわかんなくなるから」
「一日だけ待ってもらっていいですか?」
「俺に聞かれても困るよ。そういうのはお前が自分で交渉してくれよ。俺もう怖くて何も助言できないわ」
言おうかどうしようか迷ったけど、
「葉っぱを採るまでの五分はサラリーマンとしての五分ですよ。そこからの僕は、ジャーナリストなんです」
それに先方だって、それを望んでますよ。
先輩は少し黙って僕の目を見て。
「カッコつけんじゃねえぞ、タンポポ」
それから何か、言おうとした言葉を誤魔化すように「フフッ」って。
できるかぎり軽いものをと思ってピックアップした荷物は、それでも三〇キロになった。リュックはパラグライダーのハーネス、いわゆる座席部分とのリバーシブルになっていて、その中身はパラグライダーの本体。
こんなものを背負ってスカイダイビングができるかどうか、本当は慣れたひとに確認した方がいいんだけど、計画は極秘、機材も新たに購入したらマークされるから、という理由で手持ちのものしか使えず。計画の杜撰さに少し不安になるけど、
「そのリスクまで含めた値段が八〇〇万」
と、先輩。
それ、実質的に僕の命の値段ですよね。
*
「うまく大陸に飛び移れなかったら、そのまま海上まで降りて着水して下さい。目視で確認できますので、海上に待機してるチームがすぐに回収に行きます」
事前に受けていた説明をオペレーターから再度伝えられるけれど、その声の半分も風が持ち去る。足元には漁船の航跡もない、ただ広いだけの海。その上をいくつかの雲が流れている。
「テイクオフ5秒前です」
サムズアップ。
オペレーターの持つ旗が下がる。
浮遊大陸上空、正確には少し斜め上の海上、高度三八〇〇メートルから飛行機を飛び出す。機体のなかにまでほんのりと引きずってきた日々の生活、その最後の足枷が風のなかに消える。
眼下遠くに浮遊大陸が広がる。外縁部の高度は一六〇〇。高度二二〇〇でパラシュートを開くため、フリーフォールの時間は三〇秒から三五秒。この間に浮遊大陸上空まで滑空する。風に乗るともう、飛び出した時の落下の感覚はない。僕はただ風に乗っているだけ。身体を大陸に向けると、風が僕を運ぶ。
外縁部には森が広がり、その奥は草原。草原には小川や小道がある。その奥には湖も、小さな集落らしきものも見て取れる。事前に写真では見ていたけど、実際に目にする感覚は違う。アドレナリンが脈打って首筋を上る。この感覚。大声で叫んでも風がすべてを巻き取っていく。高度はどんどん下がっていく。携帯食料は三日分、浄水器は米軍仕様のものをミリオタの先輩に用意してもらった。考えている間にも高度は下がっていく。パラシュートが開く。電子機器の電源はぜんぶ落としてるけど、万が一ここで発見されたら謎の攻撃で撃墜される。でもそんな恐怖は走り出す興奮が掻き消す。地上の仔細な様子が見えてくると胸のなかの鳥たちが騒ぎ出す。普通の草原。普通の木。普通にひとが歩いていてもだれも驚かない普通の景色。その異様さ。不慣れなパラシュートを操って、外縁部からあまり離れない草地に降りる。
見渡すと、風が心地よい。地上と代わり映えしないといえば代わり映えしない世界。恐る恐るスマホの電源を入れて、風景と、足元の草と、石と、地面、何枚か写真を撮って、アルバムを開いて眺めてみるが、何もかも普通だ。圏外で電波はつながらないけど、心のなかの先輩がすぐにコメントをつけてくる。
とても八〇〇万のギャラが出る写真じゃねえな――
はい、僕もそう思います――
顔文字付きでレス。苦笑。汗。
バックパックを台にしてスマホを置いて、撮影しながらパラシュートを畳んだ。空気も薄いし、息が上がる。五分で降りるはずだったけど、もう三十分。
足元の草にはほのかな懐かしさがある。いつだったか、草の茎を折ったときに指についた白い汁の匂い。シャツで拭いて、指の匂いを嗅いだ。あれがいつ、どこでの記憶だったか。地面に沿うように低く方々に這いずった茎の節から、目を閉じると春の匂いがする。
虫は多い。コバエのような大きさで、飛び方もコバエ。田中先輩が言ってたように爬虫類のハエ、ハエに似たハエハエかもしれないけども、見た感じはコバエ。このコバエによるものかどうかはわからないけど、すでに数カ所虫刺されがあり、腫れてきている。
時計を見ると十三時過ぎ。単に八〇〇万手に入れるだけだったら、この足元にある葉っぱをむしって、どこか離陸できそうな斜面でもみつけてパラグライダーを広げたらいい。だけど、内陸の方を見ると草原。その向こうには湖だってあるし、集落だってある。もしかしたらそこに住んでるのは爬虫類のひと、あるいは魚類のひとかもしれない。「どうして確かめてこなかったんだよ」って言うでしょ、先輩。先輩でも行くでしょ、ここまで来たら。
高い山の薄めた霧のような空気を胸に流し込み、肺で湿らせて吐き出して、道もない荒れ地をよろめきながら歩く。まずは海を見ておこうと思ったけど、もう少し見通しの良いところを探さないと、肝心のピンゲラップ島は見えそうにない。空気も薄くて、喉のあたりを押さえられるような息苦しさがある。
電車で旅をしたとき、とぎれとぎれに目の前に描かれる海岸線。トンネルとトンネルの間、息継ぎをするように開かれる空。駆け抜ける木々。電線は低く、高く、また低くと流れ、そしてまたトンネルが風の音色を変える。車しか走らない街道のトンネルを、バックパック背負ってとぼとぼと歩いた時の、壁面の水のしたたりと。
周縁部に沿って歩いてみると、少し先に不自然に白い球状のものが目に入る。
ああ、雪が残ってるんだ。
そんなことを思いながら少し近づくと、すぐに胸のなかに大きな違和が広がる。それは均質な球形で濁りもない明らかな人工物。乳白色のプラスチックのようなドーム、直径は三メートルほどだろうか。テニスコートほど離れた距離から見るとそれは硬質なものではなく、柔らかく、濡れているようにも見える。球体の白い薄皮の下には、孵化直前の何かの卵のように生体的な姿態が透けて見えて、それが蠢き、ところどころ光を放っている。思考は立ち止まり、恐怖以外の感情がひとつずつ消えていく。目の前にあるものはいままでに見た何にも似ていない。考えがまとまる前に足がすくんで、全身の神経が恐怖に毛羽立つ。色は先輩に見せてもらったロスで撮影された飛行体と同じ。もしこれが人工物だとするなら、米軍機を撃ち落としたのはこいつだ。
だけど胸のなかの恐れさえ黙らせてしまえば、これは良い手土産になる。目の前にあるこれが、僕が命を賭けて求めたものじゃないか。意識の粟立ちを丁寧に均して落ち着かせる。手に、足に、恐怖にも勝る何かを見つけたことを、なだめるように言って聞かせながら、ゆっくりと近づく。
先輩、八〇〇万の獲物、見つけましたよ。
懐から携帯を取り出してカメラを起動すると、白いドームは唸りをあげる。球体の内部の目がこちらに向く。いままでの漫然とした動きではなく、軽い喘鳴を漏らして瞬時にこちらの姿を捕らえ、同時にドーム自体も一メートルほどせり上がり、赤いレーザーサイトを照射する。
空気が帯電したのがわかった。
思わず携帯を手から放すと、球体はそれを見ながら高周波のノイズを唸らせる。
僕の携帯が米軍機が食らったのと同じ攻撃を受けようとしている――いや僕だ、攻撃を避けなきゃいけないのは僕自身だ。両手両足を使ってバタバタとその場から離れると、背後で爆発音が轟き、熱風が僕を押し倒し、草の上を舐めて駆け抜ける。
振り返ると、ガラス質に変色した地表から煤が上がっている。僕の胸を否応なく恐怖が満たす。震える足を抑え、地面に立ててみても、足音もない。耳鳴りだけが、遠くまでこの景色に張り付いている。「次の攻撃が来る」体のあちこちが声を上げるが、僕の意志がまとまらない。
それでも、と走り出すと自分の足音が遠くに聞こえる。さっきの爆音で耳が聞こえない。高地の薄い空気に息が切れる。走るほどに視界は狭まっていく。葉っぱ一枚持って帰ればいい。葉っぱ一枚むしってポケットに入れたら、それで終わりのはずだったのに。息が上がり、走ろうとしても足が上がらず、爪先が石に掛かり、次の一歩がもつれて倒れる。
唇の周りに痺れのような寒気がまとわりついて、ひゅうひゅうという呼吸音が唾液を撒き散らす。いくら息を吸っても呼吸が楽にならない。足の感覚は僕を見捨てた。目に映る景色と身体の感覚がどんどんずれていく。震えが止まらない。手足には麻痺感が広がっていく。
「あああ、もう!」
大声を出して、体を振って、手足にまとわりつく麻痺感を振り払う。拳で二の腕を、脚を叩き、感覚を呼び戻す。死の恐怖がガタガタと僕の全身を震わせている。体はもっと遠くへ逃げようと、焦り、震えているのに、目に入る景色の意味がどんどん壊れていく。
しかも、雨まで降り出す。
濡れて体温を奪われたら死ぬ。
何から何まで僕を殺すという意志で一致している。
かといってどこへ行けばよいかもわからず、ほんの二メートル先へ。戸惑い。あと二メートル先へ。バックパックからごそごそと防寒用にと持ってきた金色のエマージェンシーシートを引っ張り出して、くるまって、震えながら、鼻水を袖で拭って、こんなもので寒さを凌ごうと思ってたんだな、数日前の僕は。なんで迷彩を選ばなかったんだ。血の気の多い異星人でもいたら、これを見てどう反応するか。だけどそれで死んでもしょうがない。バカなんだから。バカな死に方するよ、それは。
本当はテントか寝袋も持ってこようかと思ったんだ。本当は。でもそうすると荷物の総重量がとんでもないことになる。それにこっちで滞在するつもりだってのが先輩にバレる。いま思えばバレても良かったし、その前提で準備を進めておけば良かったんだ。
シートにくるまって、斜面に背中を預けて、ゆっくりと沈んでいくようにして眠りについていると、夜、寒くて目が覚める。
雨はやんでいる。
火を煽せるような草や木はないかと月明かりのなかで目を凝らすと、地面はうっすらと黄色い明かりに覆われている。昼間見た草から、細い茎のようなものが伸びて、その先端に丸い胞子がある。それは植物ではなく、菌類にも似ている。いや、植物でも菌類でもない、別の何かなのかもしれない。空には満月が浮かび、見慣れたはずの月なのに、まるで地球じゃない別の星にいるよう。
虫刺され痕は腫れ上がってじんじんしている。中心から直径一〇センチほどが赤黒く固くなっている。あともう少しだけ寝て、明日の朝ちゃんと目が覚めたら、飲み水を探そう。もう少しだけこちらの世界を見てから帰りのことを考えよう。もし目が覚めなかったら、そのときはもう終わりでいい。
息が白くて寝付けない夜の星空は、一三〇億光年の天蓋。
だけど僕の視線がそこに届くのに、ほんの一瞬もかかりはしない。
そしていつ眠りに落ちたのかもわからないまま、ふと気がつくと朝が来ている。
虫刺され痕は七箇所に増え、すべて手と顔に集中している。とりあえず地上に戻ったら八〇〇万もらえる。その金で道具を揃えて、飛行機を借りて、もう一度ここに来ればいい。虫刺されへの対策もちゃんと練ってこよう。
軋みを上げる身体をほぐしながら高台を探す。
帰ろうと決めた途端、寂寞が胸を襲う。諦めという大きな穴。それを両手で塞ぐように抑えて、その底から次々に吐き出される淡い何かを握り潰しながら、重い足を運ぶ。昨日からずっと足元の悪いなか歩き通して、靴も濡れて、滑り、虫に刺された手も首も腫れ上がり熱を放っている。
それでも、バックパックには翼がある。その翼には神経が通い、僕の背中はその動かし方を知っている。それは僕の一部。身にまとえばすぐに、本当の僕に戻れる。
高台、その斜面でパラグライダーを広げる。
ラジオや懐中電灯、太陽光発電シート、防水ケース――軽量化、軽量化、と、一週間あれこれ悩んだのに、一度も使うことのなかったものばかりだ。推定で五キロほどのものをバックパックから出して、エマージェンシーシートにくるんだ。いつか戻って来たときのために、周りの景色を覚えようとあたりを見回したけど、特に目標物はない。まあ、しょうがないか。次に来る機会なんて、ここを諦めるための口実でしか無いんだし。
緩やかな丘の斜面に、虹を描くように広げられたパラグライダー。ラインで結ばれたハーネスと僕。心のなかに、踏ん切りをつけるためのチェックシートがあって、もうほとんどチェックを終えた。
ジャンプ、ジャンプ。
両手を振って、体をほぐして、風はやわらかく、いつでも舞い上がれる。
目の前には大陸の縁の崖があり、その先には海がある。
ひとつ深呼吸をして、その場で駆け足を踏んで走り出す。
空気を抱えたキャノピーの重さが肩にかかり、大腿筋まですべての筋肉に司令が伝わる。
翼が返ってきた。
各々方、準備よろしいか。
放射状のラインが風を切り分ける。
心臓の鼓動の一つ一つが蒸気を上げて僕のなかに力を伝える。
重い地面を、蹴って、蹴って、数歩目でそのつま先は空を切る。
そのまま上昇気流が僕を捕まえる。
浮遊大陸の縁が視界の下方に下がり、その向こうの海がせり上がってくる。
その先にはミクロネシアの小さな島があるはずの海。
僕はそこだけを見て、飛び続ければいい。
振り返らずに、ただ真っ直ぐに。
チェックシートの最後の項目、『振り返らない』。
ここで振り返ったら僕は塩の柱になる。
オルフェウスの妻のように冥界に囚われる。
だけど――
気流はサーマル。吹き上げる上昇気流。
いままで僕にいろんな景色を見せてくれた風が、必ず新しい世界を見せると約束する。
そこには見たこともない町の、見たこともない家の、見たこともない屋根があるだろう。町を縫う水路と、畑の斜面にはとぎれとぎれの階段と、手入れされた石垣、通りを歩くひとの姿も見えるだろう。
このまま大陸内部へと飛んでしまっても、一時間で引き返せばいい。迎えにきてくれる船は一日くらいは待ってくれるだろうし、たとえ少し遅れたとしても去り行く船に追いつくくらいはできるだろう。
チェックシートの最後のひとつ、僕はチェックを保留する。
右手はブレークコードをゆっくりと引き始める。
上昇気流旋回。機体はゆっくりと旋回し、吹き上げる気流を捕まえて高度を上げる。
先輩、僕は振り返ってしまいました。
どんどん、どんどんと高度を上げると、大陸の奥には集落があり、湖の周りに何件か家が並び、桟橋があり、小舟も見える。そこにはひと、あるいはそれに近い何かが確実に住んでいる。そこには牛に似たモーモーがいて、家鴨に似たガァガァがいて、豚に似たブーブーがいる。
遠くに馬に乗った人影が見える。
先輩、帰りは遅くなります。
でも、必ず帰ります。
第二章 フレア・カレル(1)
大陸移動が完了し部屋の外に出てみると、日蝕が始まった。
「ベリチェ、日蝕だよ」
リビングにいたベリチェに声を掛けて、サンルームのドアから少し気圧の低いこの星の大気のなかに出て、瞬膜を閉じた。
「あんなに大きな衛星が主星と重なるの?」
遅れて来たベリチェが、眩しそうに目を細める。
「見かけの大きさがほぼ同じだから、このままだときっと、ぴったり重なる。珍しいよ。衛星と主星の大きさがここまで近い星なんて」
大陸にはまだダル星の大気がまとわりついて、いまはまだ湖を越えてくる森の匂いも、畑に積まれた草の匂いも変わりはしない。だけどそれも、ゆっくりとこの星、地球の大気と混じりあう。これからは水の質も、植生も変わっていく。風や鳥が運んでくる塵や微生物の影響で、一旦滅びて、長い時間をかけて。
「ダル星より少し直径が小さくて大陸の端が浮いてるから、このあたりは海面からはかなり高くなってるみたい」
「そうかー。大陸移動したら海の傍だって思ってたのに、海は見えないのかー」
「見えるよ、雲の下だけど。あとで見に行こうか」
ベリチェは大きく頷いて、「フレアならそう言うと思った」と、唇を甘く緩めた。
ここに越してきてまだ日は経っていない。
母、ツィディ・カレルは声楽家。ベリチェはその三番弟子。私とは姉妹同然。兄弟子のアデルとニックのふたりも一緒に住み込んで、いまはそれぞれ楽器のチューニングに当たっている。引っ越しのずいぶん前から大陸を移す計画のことは聞いていたけど、星を移れば気圧も大気成分も変わるし音のイメージも変わるからと、曲作りを中断して引っ越しを優先させた。
ベリチェはあたりの景色を胸に吸い込むようにして、
「古い橋はいくつか掛け直すらしいね」
と、ため息をつく。
このあたりには古くからドルイドたちが住んでいた。彼らは、私たちハイアノールのなかでも、文明を否定して自然のなかで暮らすひとたち。ある程度街が発展するとドルイドたちは消え、そこに私たちのような田舎暮らしに憧れるハイアノールが入植する。近くには彼らの長年の勘で掛けられた橋が多い。重力が弱くなり気圧も低いと構造物の固有振動は変わるし、アーチは軽くなって安定性を失う。それらは少しずつ、また一から作り直すしかない。
「せっかく何代にも渡って築いてきた町なのに」
この土地の景色が失われるのは残念だけど、きっとまたドルイドたちはどこかに集落を作って、また一から文化を築き直すよ。天候も変わるだろうし、文化も変わる。でも、そういうものだよ。ここで落ち着いて暮らせるようになるのは、千年後か二千年後。不老不死という枷を背負う私たちには、そんなに遠い未来でもない。
ベリチェは愛用のギタールのチューニングを少し弄ってリマテリアライズ――再物質化する。前とほぼ同じ形の、微妙なサイズ違いのギタールを爪弾いて、
「フレットについてた傷が少し間延びして見える。音が同じでも、これじゃ意味がない」
と、不満を漏らす。
やっぱりベリチェでも音楽に関してはそうなんだ。
「音を合わせれば済むんだったら一瞬だよ。でもインスピレーションってのはそう単純なものじゃない」
うん、そういうとこにこだわるのは自分だけだって思ってた。
あたりはだいぶ暗くなってきた。
「もう瞬膜を開けても大丈夫だよ」
「ほんとだ」
地球の惑星サイクルは、元いたダル星と大きくは違わなかった。かなりの候補のなかから絞り込んだので当然といえば当然なのだけど、特に一日の長さは数%の差しかない。日の長さが変わると不調を訴えるひとが増えるから、そこだけは外せない条件となる。
ベリチェはかかりっきりになっていた調整を終えて、
「明日のコンサートはギタールは使わない」
と、少し伸びをする。
「調整が終わった楽器でやるか、アカペラ。アカペラもいいな」
話をしていると日蝕はピークに達する。太陽が消えた闇の下には、逃げそこねた光がまだどこかに蠢いている。
「本当にぴったりと重なったね」
「うん。奇跡の星かもしれない」
その消えていた光がまた声を上げ始める頃、闇の余韻を胸に残したまま、部屋へと戻った。屋敷の重い木の扉の古いニス色と、その把手の艷やかに擦れた木肌。そこには、過去ここに住んだだれかの手のぬくもりが残る。階段の手摺の丸み、踏み板の軋みと、煤けた天井の梁、絨毯にはひとの足に擦り切れた毛足、その褪せた色。
リビングでお茶を飲んで、ベリチェと話して、その後コンサート会場の野外ホールの視察を兼ねて市街地へ。
市街地の目貫、綱手町通りには大陸移動を祝う飾り付けが施され、「ねえ、フレア、あれ」と、ベリチェが指差した先には『地球人』を模したひとたちが練り歩いていた。
「地球人カフェもやってるって」
彼らが扮装した地球人はこの大陸の奥の方に住む未開人、バグベアに似ている。赤茶色い髪に、不気味な表情、少し猫背で、羽毛でも鱗でもない細い体毛。
もし地球にひとが住んでいたとしてらバグベアと似たような姿をしてる。そう考えられるのも無理はない。この三〇〇年ほど地球のことは調べ尽くして、交流すべき水準の文明は存在しないと結論付けられていた。本当のことはまだ上層しか知らない。だけどもうすぐ地上への上陸許可は出る。答え合わせはそのとき。
仮面をつけて練り歩く地球人はすれ違うひとを怖がらせたり、おどけてみせたり。老夫婦の連れたワンコに吠え掛けられたり。そうして明日のマーケットで使える銀貨を配っている。ドルイドが使っていたコーディアル貨を模したもので、これがあれば明日のマーケットで『買い物』ができる。
ベリチェのぶんまで、ふたりぶんの銀貨を受け取って、恐ろしげな『地球人』の背中を見送りながら、
「地球人って、脊椎動物だと思う?」
不意にベリチェが聞いてくるので、どのくらい真面目に答えるのが正解なのかな、と思いながら、「恒星照度と大気から考えると、ほぼ一〇〇%そう」と、答える。
「あれ、恒星照度が関係あるの?」
「そうだよ。移動する先にいた支配種もぜんぶ脊椎動物だったでしょう?」
「ああ、そうだね。バグベアもそうだし。じゃあ地球にもいるいんだ。バグベアみたいなのが」
まあ、バグベアと同じかどうかはわからないけど。
「大脳って眼球の情報を処理するための外部機関みたいなものだから、大脳が発達するにはどうしても眼球の獲得が必要になる。だからここより暗い惑星では脊椎動物は発達しにくいし主流になりにくい。文明を持つのは二軸神経系になりがち」
「二軸神経系っていうと、甲殻類とか昆虫?」
「そう。あっちのほうが主流だよ。特に第四水準ともなると」
脊椎動物は大脳に思考が偏りがちで、離散的な思考ができないから、第三水準より高い文明は獲得し難い。私たちの母星は放射線量が高かったから、脊椎動物の多くが分散神経節を持っていた。放射線があると全身感覚でそれを処理しないといけないけど、大脳の思考速度はあまりにも遅い。
「この安穏とした星に文明なんか生まれないよ」
この星に文明があるとしても第二水準。それはとてものどかな、私たちにとっては原風景みたいなものでしょ。
「そうだね。文明ってもっと殺伐としてるよね」
そう。その殺伐とした環境に浮かぶのが私たちであって、文明なんか無くて済むんだったら無いほうがいい。私たちは最終的には、風や光でありたい。
通りを少し歩くと、高台の広場に野外ステージはあった。
わずか一〇〇席ばかりの小さな会場に、『世界的アーティスト来る』の煽り文句で母『ツィディ・カレル』のポスターが貼られている。わが町主催の『こんにちは地球まつり&マーケット』の目玉。兄弟子のふたりと、『ベリチェ・リサ・マイユ』の小さな切り抜き写真もある。ベリチェとふたり笑って指差して、明日の会場となるステージへと向かった。
ベリチェは半円形の反響板の前でアカペラで声を出して、音の響きを確かめると、「客席の方で聞いてみたい」と、私をステージへ促した。
うそ。
「できるよ。あなた、ツィディの娘でしょう?」
いや、そうは言っても。
ベリチェは客席へと走り、振り返り、「なんでもいいよー!」と。
しょうがなく、「聞こえますかー」と言ってみる。
「うんばっちり」
良かった。
「このくらいの声は出る?」に続けて、「ああー」と透き通った硝子の声を向ける。
しょうがないなあ。
「ああー」と、少し緊張した声で応えてみると、「ばっちりだよ」と、ベリチェ。
場所を変えて、少し音程も変えて、乗せられるがまま母のレパートリーのうちの一曲を、私のつたない喉で披露することになる。歌い終わる頃にはもうベリチェは静かに聴いているだけ。柔らかい微笑みと、拍手をくれる。
「動画、あとで見せるねー」
えっ、うそ。
翌日、同じ曲を同じ場所で、ベリチェたちのコーラス、母の歌声で聴く。
近くに住む祖父母も駆けつけて、静かに拍手を送っていた。
客席は立ち見が出るほどの盛況で、歌声はおそらく市街地の綱手町通りにも届いている。
何曲か披露して客を送り出す時、挨拶に立っていると、客の多くがコーディアル銀貨を祝儀にと手渡してきた。私は付き人のように母の傍らに立ち、その祝儀を受取って、
「これどうする?」
母に聞くと、「マーケットで好きに使いなさい」との返事。
だったら――と、アベルとニックにも確認をとって、ベリチェと街へ繰り出した。
綿菓子を買って、どうでもいいような笛のおもちゃを買って、「使い切れないくらいあるよ!」と目を輝かせて、「ワンコを買おうか?」と言うと、ベリチェも「それいい!」と乗ってくる。
「でも、売ってないね、ワンコ」
売ってるのはヒヨコとカメくらい。露店を眺めながら、通り過ぎるひとの連れたワンコの顔を覗き込みながら歩いていると、二頭立ての馬車が目に入る。
「これ」
と、ベリチェの足が止まると、「こいつかい?」と、馬車の傍にいる男が話し始める。
「ドルイド時代の領主が実際に使ってた馬車で、つい三〇年前は現役で走ってたもんだ。ちょっと修理してあるんで、そのところはハイアノールの部材だが、他はぜんぶレプリカじゃない本物だ」
四輪でキャビンも広く、席は向かい合わせの四人掛け。作りはしっかりしていて、四重の板バネのクッションが入っている。
「これもコーディアル銀貨で買えるんですか?」
「ああ、四〇〇〇枚な」
馬車なんか買わなくても、モデルデータを入手してマテリアライズすればいいし、普通は買うひとなんていない。レプリカじゃない、本物だって言われても、それとまったく同じものはいくらでも複製できるんだから、その言葉には何の意味もない。ただこのひとはきっと、祭りのたびにここでこうやって馬車を出して、売れもしないのに、客とのやりとりを楽しんでいるだけ。それは綿菓子屋さんだって、古着屋さんだって同じ。
「いくら持ってるんだ?」
「七〇〇くらい」
「ほう! そいつはすごい! どうやって手に入れた?」
「母のコンサートで祝儀にもらったぶんです」と、母、ツィディ・カレルのことを話すと、「それじゃあこれを売ったら、あの方も乗ってくださるってことか?」と、驚いた様子で訊ねてくる。
遠慮気味に「そうですね」と答えて、「でも、値引きはしないでくださいね、そんな理由で」と加えるけど、先方は逆に「いや、でも、そういう事情だったらタダでも買っていってもらいたいよ」と応じてくる。
「いや、でも、そういうわけには」
押し問答しているとそこに、
「それじゃあ、私の歌を一曲、買ってもらえますか?」と、ベリチェ。
売り手のおじさんは少し怪訝な顔になるけど、ポスターにあった弟子のひとり、ベリチェ・リサ・マイユだと説明すると、それならと身を乗り出す。
ベリチェは一呼吸おいて、静かに歌い出した。
喉と左右の副肺を使った見事な三和音の歌声が響き始めると、通りを往くひとも足を止める。クロマの四番から五番、八番へと曲調を変えて、ラストを母の得意とする副声ビブラートで締めると、そこに出来た人垣からどよめきと拍手とが巻き起こる。
銀貨七〇〇枚で買った馬車は、おじさんが屋敷まで手綱を取ってくれた。
「若い頃は俺も舞台に立ったもんだよ」と、歌声も披露してくれながら。
馬小屋を整備したり、蹄鉄を打ち直したりするうちに、この町のことがずいぶんわかってきた。ここでは何をするにしても時間がかかる。おかげで大陸外縁部を目指したのは随分と後になった。
その日は初めての遠出がうれしくて、ふたりで御者台に乗った。地球人に会えるかもしれないなんて馬鹿なことを話しながら、一緒に手綱を握って。
「私の研究室に来たデータだと、地球人ってあと四〇〇年くらいで滅びるらしい」
そう話すと、ベリチェは少し寂しげな顔を見せた。
「そうなんだ。そんなことわかるんだ」
「うん。遺伝子の損傷が激しくて、あと数世代で劣勢因子が顕在化して、そこからはすぐ。そのあと地球に支配種はいなくなる」
「そうか。少し寂しいね」
湖畔の屋敷から大陸の端まで、大陸を横断してきた街道の末端が伸びてはいたけど、外縁部近くになると長年ひとが通ることもなく、ときに伸びた梢が屋根を打ち、ときに転がる枝に乗り上げた。
「ちょっと、先の方を見てくる」と、私は馬を外して、鞍をかけた。
「乗れるの?」
ベリチェは気遣うけど、大丈夫。
「田舎暮らししたいって提案した時点で諸々想定済み」
ちょっと得意になって、スカートを翻して馬の背にまたがった。
街道の少し先の小径から旧街道に降りる。新街道は森を貫いているぶん、放っておくと木々に侵食される。この小径さえ抜ければ、この先は旧街道。少し雨が降っただけで川になると聞いていたけど、今日の天気なら大丈夫。
外縁部に近いこのあたりにもいくつか農家があり、畑で作物を育てていて、近くへ行けば豚の声、匂いも漂う。海はまだ見えないのかと振り仰ぐと、真っ青な広い空に一点、ゆうゆうと舞い上がるオレンジ色のカイトが見えた。それが何なのか、俄にはわからなかった。遠くの空で旋回し、少しずつ高度を上げているようにも見える。そしてそのカイトは、ひとが操作している。
外縁部は管理地、軍の飛行物かもしれない。
と、思ったけど、違う。
地球から来た乗り物だ。
思わず手綱を握りしめるが、このあたりは道をはずれると沼がある。
すぐにベリチェの待つ馬車へと引き返した。
「地球人みつけた!」
ベリチェが吹き出す。
「この先の小径から旧街道に抜けられる。見に行こう!」
そう誘うと、ベリチェは乗ってきた。
「可聴範囲に四機のドローンが飛んでる。アクセスしたら映像を見れるよ」
でも、それじゃあせっかくの興が台無し。
急いで馬を軛につないで御者台に乗る。手綱を取って目の前の瓦礫を避けて新街道を進み旧街道へと抜ける小径へと入る。道幅はせまく草も高いけど、夢中で駆け抜けて旧街道へ、丘の向こう、青い空に輝くオレンジの翼を見つけた。小川の流れに沿って蛇行する旧街道。
「丘陵の先みたい」
「あっちは馬車じゃ無理。もういちど馬で行ってみる」
ベリチェを残して、軛から馬をはずして、鞍も掛けずに丘陵を駆け上がると、遠く丘の上に、少し波打つオレンジの布が見えた。
あれだ!
すぐに気がついたけど、近くに背黒狼の群れがある。
「しょうがない」
私は左手の甲をタップ、ライトパネルを開いて電磁波砲をマテリアライズ、右手甲に装着、野良のドローンに護衛コマンドを送った。これで危険がゼロになるわけじゃないけど、なんとかなる。ベリチェが言った通り近くには四機のドローンが巡回していた。
彼女はこれを耳だけで聴き分けてたんだ。
途中、小さな川の流れを越えて丘まで走ると、地面の上に石で雑に押さえられたカイトがあった。近くで見ると赤から山吹色へのグラデーションと白とのツートンカラー。推進機らしきものは見当たらないけど、上昇気流を利用すればここまで上がって来るのも不可能じゃない。カイトを用いているとはいえ、海の上で対流性の気流に乗れるとしたら、きっと地球人は私たちと同じ《鳥のひと》だ。近くにはハーネスらしきものも落ちている。それらを拾ってクオンタム・コード化、馬車のベリチェに転送した。
「テクノロジーは使わないって言ってたのに、よっぽどの事だね」
手の甲に開いたライトパネルごしにベリチェが語りかけてくる。
「うん、半分くらいは無意識にそうしてた」
でも、肝心の乗り手の姿が見当たらない。
背黒狼に追われて森へ入ったのかもしれない。
「こっちでも探してみる。ドローンを二機回してもらっていい?」
「わかった。すぐ開放する」
ドローンの映像は、リアルタイムでなら確認できるけど、ログは防衛システムに格納される。ログさえ見れたらトレースできるのに。とりあえず、探すしか無い。
歩き出すとすぐに、ベリチェから連絡が来る。
「沼にはまってるワンコ見つけた」
「なんでワンコが?」
「このへんにも民家あるし、そこの子じゃない?」
「ああ、そうかも。余裕があったら助けに行くね」
「わかった」
旧街道から新街道へ。ひとの痕跡を探すが見当たらず。森に沿って新街道をつぶさに見て回るも収穫はなし。ドローンの探索範囲を森のなかにまで広げても、特に何も見つからない。ベリチェに報告すると、
「こっちも収穫なし。ワンコがもう胸まで沈んでるよー」
しょうがない。
ドローンのうち一機をステルス解除して案内させると、底なし沼に首まで沈んでるワンコを発見。間一髪ワンコを助けて、馬の背に乗せて、ベリチェの待つ馬車へと向かった。
「こちらでも探してみたんだけど見つかんなかったよ。農家のひとが出歩いてるの見えたから、彼らが何かしてたんじゃない?」
そうか……。まあ、大騒ぎした顛末というのは案外そういうものかもしれない。
私たちが地球人らしい彼、アズールに出会うのは、それから七日ほど後のことになる。
第三章 フレア・カレル(2)
綱手町通りから欅通りへ出て西へ、長門石庄を抜けて、沼川にかかる小さな石の橋を渡ると、木々の向こうにカレル家の屋敷が見えて来る。いくつかの瓦屋根の家を通り過ぎて、湖畔まで続く石敷きの道。形ばかりの門をくぐり、左手に見える馬小屋へと馬車を回した。
いまは小綺麗に修理された馬小屋。引っ越してくる前、屋敷の見学に来た時、「バグベア小屋だね」って、ベリチェが言った。私はそれを聞いて、粗野で薄汚いことを揶揄しているのかと思ったけど、そういえば。実際にバグベアが飼われていた小屋だ。昔はこの町にも多くのバグベアがいたと聞いたけど、そうか、こんな場所で飼われていたんだ。
農地だったはずの草原を歩きながら話したのを覚えている。
「スキップベリーだよ。ベリー畑だったんだ、ここ」
ベリチェは自生したベリーの実を摘んで、私に見せた。
摘みたてのスキップベリーには棘があった。
「何体くらいあそこで飼われてたんだろうね」
五頭から十頭、あるいはもっとかもしれない。バグベアたちは、あの小さな小屋で飼われ、使役されていた。いまはその小屋に二頭の馬が住み、はしごが掛けられた中二階には、飼葉の袋や藁束が積まれている。馬小屋の裏手には馬車用の車庫が新築されて、ベリチェは譲り受けた馬にソルティ、シュガリィという名をつけた。
ひとりのときはよくシュガリィと出かけた。オレンジ色のカイトで上がってきた地球人はまだ森を彷徨っているような気がして、もしかしたらコムギ――このまえ助けたワンコみたいに、底なし沼にはまってしまったのかもしれないし、万が一森に入って灰色熊に襲われて死んでしまっていたとしても、せめて葬ってあげたいと思って。
馬車を屋敷の裏手に回し、母に頼まれていた花をサンルームに降ろして、その日の午後はベリチェの乗馬練習を眺めていた。馬小屋の裏の広場を何周かするうちに、すっかりその姿も板について、私は雨晒しの古いテーブルにクロスを敷いて、お茶を淹れた。
「フレアはシュガリィが好きなの?」
ベリチェはテーブルのそばまで乗り付けて、ベンチを使って馬の背から降りた。
「好きっていうか、最初に乗ったのがたまたまそっちだったから」
ソルティの背中からは、汗の蒸気が上がっている。
「これで明日からベリチェにも、地球人探索を手伝ってもらえる」
「うん。でも、本当に地球人ってこの大陸に上がってきてるかなあ」
それはわからない。でも、空を舞うカイトを見たのは事実。
「まあ、フレアが見たって言うんだったら」
ベリチェがカップを置くと、不意に頭上に鳥の声が駆けて、梢にばらばらと雨の音が聞こえる。雨雲が見えるよりも早く雨が降り出して、それに遅れて日差しが逃げ惑う。
「雨だ」
ベリチェが空を見上げる。目の前にぱっと現れた、きれいな首筋に息を呑んだ。
空は雨。いつもの、夕方に降る雨。
ソルティシュガリィは、体中の羽根を開いて体を震わせる。私も雨は好きだけど、この子たちはもっと好きらしい。羽根と羽根の間に、流れる雫を含ませる。
「私も!」
ベリチェもシャツを脱いで草の上を駆ける。
かみなり、かみなり、あめ、あめ、あめ。
私もシャツを脱いで、体中の羽毛を開いてベリチェを追いかけた。
翌日は午前中から大粒の雨が屋根を叩いた。雨の雫は、白い靄を浅く梳く陽をくぐり、乾いた地面をばらばらと濡らす。雲が踊りながら青空に広がると、風には匂いがあった。午後の豪雨にはない、草を駆けた霧の匂い。
「でも残念。すぐに止むよ。ほら」
風上の空を指差して、シュガリィの背を撫でると、サンルームで音合わせしているベリチェも空を見上げて、私の姿を見つけて、窓をあけた。
「今日も探しに行くの?」
ばらばら、ばらばらと、雨の音をくぐった、ベリチェの声。
「うん。でも今日は旧街道には行かない。新街道だけ」
大声で答えたけど、たぶんあの子だったら、どんな音でも聞き分ける。
梢からは鳥の声が聞こえる。私たちと同じように、狂ってしまった予定の修正に追われているんだ。その声の向こうではもう雨雲は走り去り、散り散りに乱れていた光が歩調を揃えている。
本当は大陸を抜け出して、地球人に会いに行きたい。こんなに高度差がなかったら、こんな広い海の上じゃなかったら、シュガリィに翼があったら、あるいは私に、翼があったら。
ダル星に植民したとき、七万年前の私もこうだったんだろうか。その前……その前は何万年前だろう。大陸移動するごとに私は、こうやってその星の生き物に会いにいったんだろうか。更に前、もっとずっと昔、ハイアノールがまだ永遠の命を得る前、私は一生の記憶のすべてをちゃんと胸に湛えていたんだろうか。それともそのときにはもう、日々失われていく記憶の寂しさに沈んでいたんだろうか。唯一『これが私だ』と思えるものが、記憶しかない。なのに、十万年前、二十万年前、どんな仕事をしていたか、どんな家族と暮らしていたかさえ覚えていない。
その日、雨上がりの濡れた森の新街道で、行き倒れている『彼』をみつけた。
ずっと森を彷徨っていたのか、被服は泥に汚れ、大きく引き裂かれていた。おそらく灰色熊のものだろう大きな傷。赤黒い血糊が固まり、手足にも無数の裂傷がある。
――地球人かもしれない。
ほんの一瞬だけ鼓動は高鳴り、だけどその抜けたあとには戸惑いばかりが流れ込んだ。羽毛のない体。細い体毛。手足は皮膚が露出している。彼はバグベアに似ている。地球人だなんて、微塵の確信も得られないほどに。
それでも――止血して、馬の背に乗せて、屋敷の前まではワープホールでつないだ。屋敷の前に出ると、その庭に母の姿。手を降って、馬の背を指差してみせると、少し背を伸ばして覗き込んで、駆け寄り、声を上げた。
「あなたそれ、いったいどうしたの?」
「森で倒れてたの。灰色熊に襲われてて――そんなことより、早く手当を!」
母の口から『バグベア』という声が聞こえないように、慌ただしさに耳をふさいだ。母はすぐにひとを呼んで、青年を屋敷へと運び込み、私もその後に続く。
リビングのカウチに横たえられ、アデルとニックが治療に当たる。暴れたりしないかと不安ではあったけど、失血量が多くて気を失った。パタパタと走り回る私の姿を、コムギは不安げに眺めている。
「ベリチェ、ワンコをお願い」
あわただしいリビング。ベリチェは赤いリードをコムギの首につないだ。
青年の外見は奇しくもあのお祭りのときの『地球人』そのものだった。確かに地球はいままでいたダル星に似てるけど、地球人とバグベアが同じ姿だというのも、俄には納得がいかなかった。それにもし地球人だとしたら、本当は軍への連絡が必要なのだろうけど、それも戸惑う。
青年の様子が少し落ち着いた頃、「この衣装……この国のひとじゃないみたいだけど、大丈夫なの?」と、母が問いかけてくる。
「うん。そうかもしれないけど、放っておいたら動物に食べられてたし、助けざるをえなかったの」
そう言うと、母はひとつ溜息を挟んで、「こないだのワンコと同じ調子で拾ったのかもしれないけど」と呆れ顔をして見せた。
うん、わかってる。
混乱が収まると母は、まとめていた髪を下ろしながら、「ちょっと大げさに騒ぎすぎよね」と、ため息交じりに笑うけど、手際が良いんですよ、あなたのご自慢のスタッフの。血糊の付いた床の掃除も終える頃、玄関のドアが開いて、散歩に連れ出されていたコムギが飛び込んできた。
「大丈夫よ、騒ぎはもう収まったから」
コムギを抱きしめていると、後ろからベリチェ。
「ちょっと遠くまでお散歩してきたけど、やっぱりあなたがいないと駄目ね」
うん。私もそう。
額をこすり付けると、湿った吐息を弾ませる。
ベリチェはため息を吐いて、「ワンコはいいんだけどね、ワンコは」と腕組み、私がその声を聞き流して、両手でコムギの顔をくしゅくしゅにしていると、「でも」と、続けて、私の目を覗いた。
「バグベアは拾ったら駄目でしょう」
親友って残酷。母があえて言わなかったことを、あっさりと口にする。
「バグベアじゃないよ。おそらく地球の住人だよ」
もちろん、本気ではないのだけども、ベリチェなら乗ってくれるかな、と、コムギの首筋の匂いを嗅いでいると、
「尚更だよ。ちゃんと返したほうがいいよ、住んでいたところに」
と、ベリチェもコムギの傍に座る。
うん。わかるけど。でもまずは歓迎しようよ。
昔話だとそうだよね。湖畔の一軒家を訪ねてきたのが妖精の子でも、小鬼の子でも、客人として招いて、食事をともにして、音楽を奏で、ともに歌ってもてなすよね。ずっと憧れてきたんだ、そういう生活に。
ほどなくして、馬車の音が聞こえる。玄関のベルが揺れて、その玄関で、父が帽子を取った。外套を掛けるのを待って事情を話すと、やれやれと呆れ顔を見せて、「ワンコを拾うのとはわけが違うんだぞ」と。これで三人目だ。
母もベリチェも同じことを言っているのだけど、受けとめる音の響きは、少しずつ違った。母は母だし、親友は親友、父親は父親。言葉の意味以上の、何か違うものを受けとめて、それぞれ別のものとして胸に留める。
父は元軍人。いまは外郭団体にいて、軍のアドバイザーみたいな仕事をしている。だからかもしれない。父の言葉の差出人が、父なのか、軍なのか戸惑い、片付ける先が定まらない。
「草原の民か……あるいは西方の山岳部の者だろう」と、そっけなく返す。
私の言葉の続きを待ちながら、バーカウンターでグラスを満たす父。あるいは逆。バーカウンターでグラスを満たしながら、私の言葉の続きを待つ父。
「万が一、彼が地球人だった場合は、どう処理される?」
ボトルに栓を差すほんの少しの間、返事は保留、父は立ったままひとくちだけグラスを傾けて、
「もし、その個体が地球人だと確定したら地上に送り返すことになるだろうな」
ソファに腰を下ろすと、目線だけを私に向けた。
――確定したら。
小さく聞き返しても、返事はない。
この大陸には、だれがどの星から持ち込んだかわからないような生物がたくさんいるし、確定させるのは案外難しい。考えあぐねていると、遅れて父が応える。
「確定させるには他の地球人サンプル、もしくはデータとの照合が必要で、いまの段階では国のトップまで行かなければ判断はできん。特に生体の場合、うっかり送り返すわけにはいかん」
身元の確定できてない生体を意図して送り込むのは下手したら侵略になると、父は続けるけど、地球には文明なんか存在しないと言っておいてそれは納得がいかない。
「あのバグベアは飼うつもりなのか?」
「しばらく一緒に暮らすと思う」
飼うんじゃなくて、ともに暮らすんだと念を押した。
「だったら識別用のチップは入れておいたほうがいい。第三神経節近くに入れておけば、遠隔で停止させられる。もちろん、万が一の時のためだ。使わないで済むなら使わなければいいんだ」
ため息。視線が膝に落ちた。
ドルイドのように暮らしたいというのは、ドルイドの未成熟な側面までそのまま擬えたいわけじゃない。その数十万年前の暮らしから、いまの私たちまで引かれた直線があって、その線を引き直さなければ、私たちにはもう未来なんてない。
「地球人って、どうなると思う?」
答えを求めたわけじゃない。ただ気がつくと、言葉が漏れていた。
「文化は保護されるが、地球人そのものは他の動物と同じ。調査用の一部が保護された後は、美味ければ食われるし、卵を生むなり、乳が絞れるなりすれば家畜に、声や外見が良ければ愛玩用になる。いまは上層でそのルールを決めているところだろう」
やっぱりそうなるよね。バグベアのときもそうだった。それにしても、いま頃ルールって。もう大陸の移動も終わっているのに。
「もし地球人が、私たちに似てたら?」
「労働力、あるいは愛玩だろうな。バグベアのように」
バグベアが愛玩か……。
「良き隣人にはなれないんだ」
「良き隣人か、知性なき野獣か、それは向こうの価値観次第だ」
父は少し躊躇しながら、言葉を続ける。
「九日前、地上から数機の航空機が接近したと聞いている。すべて落とされたとは見られているが、地球の軍が『デコイが上陸した』と通信しているのが傍受された」
デコイ、すなわち囮が九日前に?
「もしそれがブラフでないとすると、近日中に地上軍は大規模な作戦を行う。地上が何をしようと、大した影響はないが、地上から囮が上がってきているかもしれないことだけ、気をつけておくんだな」
ちょっと待って。囮……?
戸惑う私を尻目に、父はバーカウンターからボトルを一本見繕って、自分の部屋へと消えていった。
その父の部屋の隣、二階の空いた四部屋のうち、バルコニーもない一番狭い部屋が新参者にあてがわれた。倉庫代わりに使っていた部屋だけど、バグベア小屋よりはずっといい。
新しく来た彼の呼び方に困ってベリチェに相談すると、「アズールでいいよ」と言う。
「首筋に青い痣があるから。コムギだって、小麦色だからコムギなんだし」
所詮ワンコと同じ扱い。ドルイド風の見たままの命名にも少し抵抗はあった。だけど
――
「地球の空の色だね。アズール」
そう言うと、少し呆れながらだけどベリチェが笑ってくれて、私もそれで自分を納得させることができた。
ベリチェはたぶん、バグベアが嫌いなんだと思う。ベリチェだけでなく、私の家族はきっとみんな。もっといえば、ハイアノールはみんな。私たちはこの数百年、バグベアとは接触のない生活を送ってきた。ドルイドの町へ引っ越す時も最初はみんな反対した。バグベアがいるから。ドルイドたちの古式ゆかしい生活はバグベアの労働抜きには成り立たないけど、そんなもの、だれも直視したくない。
バグベアは私たちに似ているけど、そもそも私たちとは生まれた星が違う。解剖学的にも分類学的にも。私たちがダル星に大陸を移した当初は、彼らの外見はここまで私たちには似ていなかった。それを愛玩用として飼っているうちに、少しずつ私たちのRNAが侵襲していまの形に近づいていった。私たちはそういう種。私たちがいろんな星を渡り歩くのも、その性質からもたらされているのだと、とある論文が指摘していた。
ダル星の前はもう十万年以上も昔のことだし、覚えていない。でもそこでも同じだったんだと思う。原住民がいて、そこに私たちが移り住んで、未開のひとの住む星を蹂躙して、そこでの生活を楽しんだのだと思う。
生まれ育った星を出て、宇宙文明へと羽ばたく時に、私たちはどんな覚悟をしたんだろう。永遠に宇宙を彷徨って、住める星を増やして、そこに住む種や文化を滅ぼす。おそらく最初はそれを『保護』のつもりでやっていたんだろうけど。
ベリチェに聞いたことがある。
命の価値ってなんだと思う? 私たちの命と、ワンコや牛豚の命の間に、価値の違いはあると思う? って。
ベリチェの答えは「総じて無価値」だった。
だったらこのバグベアの命にも価値なんかない。同様に、私にも。
「そうやって共存してきたんだよ」
って、ベリチェは言うと思う。
じゃあ、地球人ともそうやって共存するんだ。凶暴化しないように、コントロール用のチップを全個体に打ち込んで、去勢して。
「うん、そうすればちゃんと共存できる」
完全にこちらで命を掌握することで?
もちろん。それが私たちの責任。だって、私たちはもう、侵略してしまったんだ。
その夜、アズールの部屋に入った。
部屋にはバグベア特有の匂いがあった。
アームチェアを置いて、アズールの寝顔を見ながら、彼の肩にコントロール用のチップを入れようかどうしようかと迷う。チップを入れればいつでも安全に命を奪える。家族だって安心して接することができるようになる。小森野あたりに飼われているバグベアはみんなそうしている。どうしたら良いものか気持ちも定まらず、いつの間にか落ちていた眠りから、朝、鳥の声で目を覚ます。
天井近くにあいた小さな窓から差し込む光が、ゆっくりと対流する埃を映す。私には毛布が掛けられていて、アズールは棚にある小物を珍しそうに眺めていた。起き上がるとこちらを見て、少し怯えた表情を見せる。
私は、通じないとはわかっていながら、「おはよう」と、言ってみた。
ちゃんと言葉として受け取ってもらえたかどうかはわからない。それでも向こうからも何か言ってきたので、きっとその音が彼にとっての「おはよう」なんだ。
ドアを開いて外を示すと、彼はちゃんと私のあとについてきた。彼に会ってまだ丸一日も経っていない。いまはこれだけでいい。
タペストリー、天井の模様、チェストの脚に逐一気を取られる彼を待ちながら、ゆっくりと廊下を歩いた。コムギは先へ行っては戻り、私の手を引いては、また先に行く。階下から漂ってくる異臭は、おそらくアズール用の食事の匂い。
食事の準備が進んでいた。アズール用の食事はコムギの餌とならべて床に置かれている。骨の髄を煮込み、豆殻を混ぜて脂で固めた、塩気の強い飼料。綱手町通りの店では瓶詰めで売られ、使い終えた瓶は回収され、また中身を詰めて店頭に並ぶ。それをボウルに出しただけの、食事とも呼べない粗末な食料。だけどそれが、バグベアにとってはご馳走。彼らは私たちと違い大量の汗をかくし、ベリリウム化合物にアレルギーがある。バグベアをペットのように扱いたくはなかったけど、同じものを食べさせるわけにもいかない。だけどこの異臭。私たちと同じ食卓に並べるのは躊躇われた。
戸惑っていると、「外で食べない?」と、ベリチェのほうから声をかけてきた。
「うん、それがいいね」
鼻を抓みながらこたえた。
庭に出ると、日差しはまだ浅く、風は大地が放つ蒸気から雲を紡ごうとしていた。
馬小屋の裏、古びたテーブルに私とベリチェの食事をならべて、コムギ用のボウルを椅子に置くと、ベリチェは躊躇うことなく、アズールのボウルをその隣に並べた。少し警戒していたアズールも、コムギが餌を頬張るのをみて、そのとなり、自分の『餌』に手を伸ばす。ひとくち頬張るごとに息遣いが聞こえ、異臭の交じる息を吐き出す。そのガツガツとした様子を見て、ベリチェはクスクスと小さな笑いを浮かべる。
目を細め、口もとに手を置いたまま「ずっとあの部屋を使わせるの?」と、小首をかしげるから、うん。昨日まではそのつもりだったと、眉を寄せて答えた。
もし彼が地球人だとしても、これじゃコミュニケーションが取れる気がしない。コムギにはもう、『お手』も『おすわり』も教えたのに。彼とはどう接していいかわからない。
「嫌だよね。こういう食事を見るの。もう少し、別の食事は用意できないかな」
「ハイアノールのショップで良ければ、いろいろあると思うよ。匂いのないのもあるし、私たちの食事に似せたものもある。でも、ドルイドの町で手に入るのは、こういうのしかないよ」
せっかくこの星の色を名前につけたのに、これじゃあバグベアと一緒だ。いや、きっとバグベアなんだ。
「あと、反対するだろうけど、チップは入れたほうがいいし、去勢もしたほうがいい」
「去勢はしなくても、ツガイにするわけじゃないし」
「でも、気性は荒くなるよ。それで暴れて怪我したりするんだったら、去勢してあげたほうが、彼のためだよ」
「そうかなぁ」
アズールは怖いほど汗をかいた。日差しのある日は、この汗が滴るという。私たちと比べると10倍は下らない汗腺があり、これによって大量のミネラルが奪われ、そのぶんのミネラルを摂取する必要がある。肉や魚を食べさせるにしても、しっかりとした塩味をつけなければ食が進まないとも聞いた。
「でもそれは、バグベアの特徴でしょう? もし、地球人だったら?」
「わかんない。でもバグベア用のごはんを美味しそうに食べてるよ?」
ベリチェは言うけど、私には美味しそうに食べてるようには見えなかった。彼はただ飢えを満たし、傷ついた体を癒やすために、餌を掻き込んでるだけ。それは食事じゃない。彼という肉塊が、栄養を求めて、反射行動を繰り返すだけ。コムギもその姿を見かねて、私の影に隠れる。
食事のあと私の部屋で、カイトを見せた。
ベッドの上に広げると、その手触りをゆっくりと確かめて、何か声を発したようにも思えたけど、すぐにコムギが間に入ってきた。
「じゃましないの! コムギ! おすわり!」
頭を押さえつけるようにしてその場に座らせて、カイトを仕舞った。
「コムギは妬いてるんだよ」
ベリチェがまた、悪戯に笑う。
私とベリチェとアズールと、大陸の端を目指したのは、午後の太陽がそれとわかるくらいに西に傾いた頃だった。アズールに大陸の外を見せるのが目的だったけど、うまくいけば海に沈む夕陽が見れるねって、急いで馬車を用意した。
ベリチェが手綱をとって走り出すと、すぐに馬車の中には異臭が立ち込めた。ドルイドたちの古式ゆかしい馬車には空気清浄機もなく、窓を開けていてもバグベアの饐えた匂いが鼻を突いた。隣に座らせたコムギが喘いで、窓の外に顔を出す。しばらくすれば慣れるかと思ったけど、慣れる前に馬車酔い。街道沿いに留めて、外の空気を吸った。
「エア・コンディショナーをマテリアライズしようか?」
いや、でも。
躊躇う私にかまうことなく、ベリチェは消毒器をマテリアライズして、馬車内を消毒する。そのあとにアズール。首筋にスタンガンを当てて、動けなくなったところに消毒剤を噴霧する。怪我の処置を施した日から、そんなに時間が経ったわけでもない。そのときに体表の雑菌は洗い流したはずなのに、わずか二日。
「最初にやっておけばよかったね」
私は吐き気が辛くて、うまく答えられなかった。
スタンガンの拘束を解くと、彼の額には汗が浮いていた。この汗が馬車の座面に染みたのかと思うと、おぞましかった。
「バグベアと暮らすってのは、こういうことだよ」
「自分では気にならないのかな、この匂い」
「彼らの嗅覚は、私たちの五百分の一だよ。それに自分の匂いって、案外わかんないよ」
ベリチェはトランクを開けて、そこにアズールを押し込めて行くこともできると言うけど、その踏ん切りはつかなかった。バグベアたちは、もっと小さな竹籠に入れられて売買されていたんだ。それを思えば、トランクはまだいい。バグベアは荒い息遣いで鼻を鳴らし、ベリチェへの畏怖を顕にしながら、距離をとって威嚇している。
「どうする?」
ベリチェに訊ねられて、私は夕陽を諦めて、帰ることに決めた。
アズールの首にロープをかけて、馬車の一端に結び、ゆっくりと馬車を走らせると、その背後で太陽が少しずつ色を変えた。アズールは小走りに馬車を追う。家に帰り着くまでの半ばほどで、馬が脚を止めた。何事かと思って見ると、アズールが転んで引きずられていた。馬のほうが私たちよりも気が利いた。自分の麻痺した感覚に辟易したけど、それ以上にもう、何もしたくなかった。
夕陽の頃、西の庄を過ぎると、野焼きの煙が見えた。煙は四つたなびいている。ここからは見えないけど、その煙の下にはおそらく、四つの遺体がある。
「バグベアだと思う」
煙を見ながら、ベリチェが漏らす。
おそらく、アズールと同じように森で灰色熊に襲われて、命を落としたんだろう。
「放置してたら病気を撒き散らすからね」
「でも、野良のバグベアがそんなに何体もいるなんて、おかしいよね」
「いまどき、野良のバグベアなんていないよ」
「じゃあ、地球人だ」
「そうだね。地球人が何頭も乗り込んできて、灰色熊に襲われて死んでるんだね」
野焼きを監視している男がこちらに合図を送る。
――疲れてるなら休んでいってもいいぞ。お茶でもどうだい。
確かに疲れていた。『はい』か『いいえ』の返事さえ躊躇うほどに。
「アズールはクタクタだろうけど、どうする?」
御者台のベリチェが訊いてくるけど、意識の焦点はぼやけたまま。
「いや、いい。仲間たちの遺体を見せたくない」
夕焼けってのはそういうもの。すべてをロマンチックで、アンニュイにする。
私たちの馬車にくくりつけられて、アズールは野焼きを気にしながら小走りについてくる。野焼きの火は、濡れた枯葉で燻されて、バグベアの焦げた肉塊の匂いを風に編み込んだ。この大陸の風は、ずっとそうやって彩られて来たんだと、夕焼けの空を見て思った。
「焼いたあとはどうするんだろうね」
煙に咽て、眉をしかめながらベリチェが尋ねる。
「ドルイドだったら、骨になるまで焼いて土に埋められるけど、バグベアはたぶん、ある程度焼けたら獣の餌だよ」
「そうか。哀れだね、バグベア」
でも、そうやってあとかたもなくなって消えていくのは幸せなんだと思う。ドルイドの墓なんかみんな暴かれて、遺体はすべて都会の研究室にある。死なないハイアノールにとって、彼らの死は格好の研究材料なんだ。
沼川庄へ帰り着く頃には日が落ちていた。
ぽつりぽつりと街灯には火が入り、遠い家の軒先の篝火が、薄く垂れ込めた霧をオレンジ色に光らせる。馬車にランタンを吊るすとき、後ろを走るアズールの姿が見えた。体中から汗が滴っている。噂には聞いていたけど、本当にそれが水滴となって流れる様を見るのははじめてだった。足元はもうおぼつかない。馬車のテールに手をかけて、少し引きずられて倒れると、ソルティ、シュガリィは気遣って足を止め、停止した馬車の上には、しんしんと星の光が降った。
アズールを部屋に戻す前に、馬小屋の裏手で食事を与えた。
アズールは疲れ果て、食事を見ても何の反応も示さなかった。
その日の夜、大きな物音に起こされた。
アズールの部屋からだった。
すぐに遠隔で脳波誘導して眠らせて、部屋に入ってみると、扉を壊そうとして暴れたようだった。この屋敷の扉はみな、強固に施錠されてる。見掛けは単純なカギに擬態させてるけど、そんなことがわかるはずもなく、火掻き棒で殴れば壊れると信じたんだろう。
両手両足を拘束して、脳波誘導を解いたが、アズールは覚醒すると同時にまた、気を失うように眠りに沈んだ。疲れているし、混乱もしているのだと思う。ドルイドの時代だったら、鞭打って、屈服させて、わずか七日ほどで『家族』になる。その教育期間を経たら、私たちは普通に暮らせる。だけどいまは、そんなやり方も躊躇される。
「これからどうするんだろう、私たち」
私たちは、想定した以上の荷物を背負い込んでしまった。
第四章 フレア・カレル(3)
祖父母の住む家は、森のなかにあった。
切り株を模した苔に覆われた小さな家で、老夫婦ふたり、祖母ヴェルダ、祖父マデリー、それからまだ若いワンコのジュディといっしょに暮らしている。
森は大陸の西の端にあり、部屋の壁には海に沈む太陽の写真があった。ダル星で、まだ目の前に海岸線があった頃の写真。巨大なボーガル水亀に擬態した戦闘機。その苔むした甲羅に生えた色とりどりのキノコと、パイロットスーツの祖父、その向こうには高い波と、真っ赤な夕焼けがあった。
家族を始めたのは、私が仲間三人と「兄妹になろう」と言い出したのがきっかけだった。三○○年ほどの昔、まずは私とピーターとポールとマリィ、四人が兄妹になって、そこに父母が加わり、そのあとで祖父母が声をかけてきた。都市部から離れてることもあって、祖父母と会うことは滅多になかったけれど、長年顔を合わせてないことが、ずっと胸の中にくすぶっていた。いままで、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶこともなく、さん付けでしか呼んだことがない。
「ピーターはここで暮らしてたことがあるのよ」
ふたりの家を訪ねたとき、祖母はクッキーを皿に乗せて、そう教えてくれた。
家族を始めて最初の五○年ほどは、兄姉もともに暮らしていたけど、そのうちそれぞれ家庭を作って家を出ていった。その頃には、母の弟子は三人になり、家もにぎやかになっていたけど、家族が巣立っていくのは寂しかった。
でもそれも昔のこと。そういえば兄のこと、姉のことを思い出すこともなくなっていた。久しぶりに懐かしい顔を思い返しながら、いただきますとクッキーを手にとると、森で採れた木の実を砕いたクッキーは、香ばしい温もりをまとっていた。
「まだしばらくは植生も変わらないと思うけど、来年はもうこの味には出会えないかもしれないわね」
祖母によるともう、森の木々は弱り始めているという。この後、地球に順応できるものが残り、地球の植物に侵食され、変化し、また新しい自然が生まれ、そのときはまた違った味のクッキーを焼く。ピーター兄さんが好きだったというクッキーを食べながら、私の知らない昔話に耳を傾けた。
兄は軍人で、私たちとの暮らしを終えたあとは宇宙軍に所属、軌道上のベースに常駐し、ダル星に戻ることはなかった。その兄が宇宙に出る前、三年ほどここで暮らしていた。祖父も祖母も軍人だったから、おそらくはこのふたりに憧れて。
「ポールとマリィはどうしてるの?」
「ポール兄さんは星めぐりの旅に出て帰ってこない。マリィ姉は別の家族を築いて、そっちでお母さんをやってる」
そう言うと祖母は、「みんなそれぞれの道を歩いてるのね」、と微笑んでみせた。だけど私には、「あなたはどうするの?」と訊いているようにも聞こえた。この三○○年、私はデザイナーのつもりでいたのに、どうしても言語学者だったころの生活が抜けなくて、よく大学の研究室に戻って入り浸っていた。
「三○○年も前のことだから、覚えてるわけじゃないんだけど、やっぱりそっちのほうが落ち着くっていうか」
「みんなそうなのよね。新しい生活を始めても、すぐには次の生活には移れない。人によっては何千年、何万年と同じ生活を繰り返したりもするわ」
「そんな覚えてもいない過去に縛られるなんて、不思議ですね」
祖母と話をしながら、そうか、と思った。私が必死になって地球人を探してるのも、なにか過去に原因があるのかもしれない、と。
「私は、どんなひとだったんだと思います?」
そう訊ねてみても、祖母は困惑まじりの笑顔を浮かべるだけだった。
玄関が開いて、「ただいま」の声が聞こると、その声にワンコが反応して駆け出す。離れの棟で炭焼きをしている祖父が帰ってきた。
「ただいま、ジュディ」
抱き上げられると、ジュディはすぐに首筋を舐める。
最近では、コムギもそう。どこのワンコも飼い主の顔をペロペロ舐める。
「フレアが来てるのよ、あなた。お仕事の荷物ははやく片付けて」
祖母に促され、ようやく挨拶を交わす。
炭焼は趣味で、本職は夫婦で軍の仕事を請け負っている。昔は軍人で、いまは外郭団体職員。それは私の父も同じ。私のまわりはなぜか軍人ばかり。私にもいつの時代のものかもしれない、軍のIDがある。
「今日はコムギちゃんは連れてきてないのね」
祖父にまとわりつくワンコを引き剥がし、その手に抱えて祖母が言う。
「うん。森に入るから、ワンコは足手まといになる」
祖父母の住む家の外観は、巨大な切り株に似せられている。部屋の中には、原子固定技術によって擬態した木製家具が、豊かな自然の一部のように溶け込んでいる。部屋にはリスが駆け回り、小さな鳥の巣もある。だけどそれらも、よくできた擬態。
「この擬態に惹かれて、たまに本当のリスが迷い込むのよ」
白い陶器のカップを手のひらに包んで、祖母は目を細める。
昼は木の洞そのもののような内装が、夜は擬態を開放して、空いっぱいの星空を映した。
「ダル星にいたころは、遠くに波の音が聞こえたもんだよ」
星空をながめて、祖父もまた、お茶を口に運んだ。ピーター――私の兄はよく、サーフィンにでかけた。そのボードがまだ、納屋に残っていると、ジュディの毛並みをなでながら静かに語った。
――そう交わしたのは、まだ上陸した地球人を探している頃だった。
その目的をまだふたりには話せなくて、私はただワンコを飼うコツを聞いたり、祖母とふたり、木の実を採りに出かけたり。
深い森は、濃密な空気をいっぱいに湛えていた。
綱手町通りにはいろんな店が軒を連ねていた。
テラコッタ製の、飾りなのか実用物なのかもわからないレリーフ付きのプレートや、木の持ち手がついた不思議な器具、穴が穿たれた陶製の容器。ひとつひとつ店の人に訊ねていると、時間はいくらあっても足りない。とある園芸用品店で、バグベア用の拘束具をみつけて、それがきっかけで、私とベリチェは馬小屋の一角にアズールの部屋を作ることにした。
用途を絞って調べ始めるとはじめて、そこにあるものがバグベア用の口枷であったり、焼鏝であったり、抜歯の道具であることがわかった。頭のなかにそのイメージが固まると、初めて見る道具の使い方も見当がつくようになる。こうやって少しずつ、ドルイドの生活に慣れていくんだ、私たちは。
店の壁には、鎖につながれたバグベアと、それを引く男の写真。競技会か何かの写真だと思われ、そのバグベアの名前とともに、彼の記録が記されていた。低いテーブルには、その競技で彼が持ち上げたバーベルが飾られている。私とベリチェとで顔を見合わせて、持ち上げようとしてみたけど、動かなかった。
「アズールだったら持てるかな?」
「無理だよ。あいつ、へっぽこだと思う」
たしかにあのへっぽこは、雄のバグベアにしては犬歯もなく、少し小柄にも見えた。
だけどそんな評価の低いアズールも、馬小屋に入れるとなると不安があった。無謀にも馬を襲って怪我をするかもしれない。なぜなら――
「あいつたぶん、バカだと思う」
ベリチェと話して、とりあえず馬とは隔離して、鉄格子を作ることにした。要は檻。ここまでくると、ドルイドの時代と変わらない。自分のなかで、どこまでが仕方がないことなのか、その線引がどんどんあやふやになっていった。それでも、野に放てばほかのだれかに飼われるか、灰色熊に襲われるかするのだと思えば、まだこれも善意だと信じることが出来た。言葉さえ通じれば、その壁も低くなるのに。だけどあるいはそれが、決定的な違いを知るきっかけにもなりかねないのだけど。
園芸店で大工を紹介され、地図を見ながら瀬の下庄へ。石造りの水門から別れた用水路に、小さな石のアーチがかかる。背の高いシダの林の間を抜けると、小さな木工場があった。粗末な小屋の側面に、きれいに揃えられた角材が立てかけられ、あたりは木屑の匂いで覆われている。馬車は敷き詰められたウッドチップを踏んで、柔らかく止まる。
横たわった原木の採寸をしていた男が、ふと手を止めた。
「これはこれは。ご領主様のおいでだ」
私は事情を話して、バグベア小屋の作成を依頼した。この時代はもう、堂々とバグベアを飼う家は少なかった。少し気まずさを覚えたが、大工の男は仕事のこと以外、問うことはなかった。
大工を連れて沼川庄の屋敷へと戻り、馬小屋へと案内すると、朝から鎖につないでいたアズールは少し暴れたらしく、枷が擦れて足が赤く鬱血していた。鎖をかけた柱も削れ、地面にも穴を掘ろうとした形跡がある。この子にとって、私たちはまだ敵だった。鎖を解こうとしたら暴れたので、今回もベリチェがスタンガンで制した。脳波誘導で全身の筋肉の動きを止めさせるけど、目だけはぎょろぎょろと動いて、私とベリチェを追いかける。口は半開きのまま、異臭のする唾液を流す。
「それじゃあ、改造にかかります」
大工の男はすぐに仕事にかかり、その間、私たちにはすることがあった。
小屋の裏手に、石敷きの洗い場があった。収穫したスキップベリーの洗浄用だろうそのプールに水を溜めて、台車に横たわったアズールの体を転がし入れて、私とベリチェとで、頭と足を持って、溺れないように顔をあげさせて、頭の下にレンガを積んだ。先に水に濡らしたせいで、衣服を脱がすのに手間取り、ベリチェは手近にあった農具で服を裂いて剥ぎ取った。
「またあとでバグベア用の服を買いに行かないといけない」
「それより、着せるのはどうするの?」
「自分で着るよ、そのくらい」
そうかな。それだけの知能を持ってくれていたらいいんだけど。
綱手町で調達してきた藁灰と馬の尿を混ぜて、洗剤を作ると、それもまた嗅ぎ慣れない異臭を放つ。買ってきた柄の長いブラシでアズールを洗うと、洗剤カスか皮脂かもわからない遊離物が艶のない泡を作った。
何度か水を換え、洗い終えたアズールを台車に載せて、馬小屋へと運び込む頃には、小屋の改造も終わっていた。
バグベアがどんな暮らしをしているのか、私たちは知らない。
「アズールはどっちが幸せなんだと思う? 屋敷の部屋で暮らすのと、ここで暮らすの」
ベリチェに訊ねてもわかるはずもなく、返ってくる答えはそっけなかった。
「バグベアって、幸せとか不幸とかって感覚はないと思うよ」
気だるい午後っていうのかな。緩い眠気が部屋を覆ってきて、読みかけの本、なんとなく手に持った楽器、そんなものが手から離れなくて、眠りに落ちるに落ちれなくて、このまま発酵してパンになってしまいそうな。今朝からの気の重さに寝返りを打たせていると、コムギを両手に抱えて、ベリチェが身体を起こす。
「ジュディには会わせないの?」
ベリチェの視線にあわせて、コムギまで私の顔をのぞく。
「会わせてもいいけど、まずは私たちに懐かせてからじゃないと」
「ジュディにコムギを取られちゃう?」
「そんなわけじゃ……」
取り繕う私の顔から、不意にベリチェの視線がそれた。
「どうしたの?」
人差し指を口に当てて、屋敷の外に耳をそばだててる。
「外。たぶん車の音。大昔の車の音だよ。ポスポスいってる」
「液体燃料車?」
「わかんないけど、たぶんそう」
窓から顔を出すと、湖の周辺の道路をゆっくりと回ってくる車の姿があった。
いかついボンネットと、ゴムのタイヤ。後ろは幌のない荷台。たしかに液体燃料車のように見えた。荷台には七~八人の迷彩服の者たちが乗っている。
「防衛システムの暴発の件じゃない?」
そう言えば、そんな話を聞いた。
ちょうど私がオレンジ色のカイトを見た時期と前後する。
「アズールのことも調べられるんじゃない?」
「あ、そうか。どうしよう」
「逃げるんだったら手を貸すよー」
いや、逃げたりはしないけど。
「でもなんで液体燃料車で?」
「この町のレギュレーションでしょう? 第一水準後期で揃えるのは」
「液体燃料車は第二水準初期だよ。いい加減なんだから、軍のひとたちは」
階下へ降りると、玄関で母が軍人たちの相手をしている。
私とベリチェとでサンルームから、外へ。濡れた敷石には、緑色の落ち葉が貼り付いている。雨に濡れた緑。殻斗のついたまま転がるどんぐり。馬小屋へと向かう途中、向こうが気がついたので、会釈を返して、そのまま小屋に駆け込んだ。
ベリチェはアズールにスタンガンを向けて、トランクに押し込める。
音がしないように注意しながら馬を軛につないでいると、意味もなく笑みがこぼれた。カチャカチャと音が鳴るたびにクスクスと笑う。笑っちゃだめだよ。そう思うほどに笑いが込み上げて、吹き出しそうになる。ベリチェを御者台に乗せて、馬小屋の扉を開けると、軍人さんと目が合った。私が軽く手を上げて挨拶すると、向こうも手を上げて返してくる。踵を返して、馬車に飛び乗って、そのままカレル家の屋敷をあとにした。
水中から顔を上げて、大きく息を吸うように笑った。
森のなか、新街道を横切って、草むした小道が走る。
妖精の小径と名付けられた、ハイアノールが築いた管理道路。その入り口には小さなゲートがある。森と、森に見せかけた擬態が入り乱れたミックスエリアは、ナビゲーションなしで走ればすぐに道を見失う。不意に擬態を解いて道を譲る森の樹々に馬たちは戸惑うが、それも三つ、四つと超えるうちに体が覚える。ギミックに飾られた森の湿度には、命が宿っていた。
切り株ハウスが近づくと、小さな妖精がソルティ、シュガリィの鼻先に舞っては、森の奥へ消える。夜光花がゆったりと光の輪を広げる。何度見ても胸がときめく。これらはすべて、祖父が暇に任せて作ったガイドサイン。さっきからコムギも釘付けになっている。
ハイアノールはずっと、擬態を用いた家を建ててきた。マテリアライズ技術が一般化する前は違っていたんだと思う。ドルイドたちのように、普通に木や石を組み、家や橋、道路を築いていたんだと、記録には残っている。
苔むした巨木、キノコの家、丘の中腹の穴蔵に住む私たちのことを、とある星から来た旅行者は、妖精のようだと例えた。マテリアライズで作り出した町並みは、流行が廃れたら消え去るだけ。そこには何も残さずに、森に戻った。深い樹々が次々とその枝を開いて道を作ると、切り株ハウスが見えてきた。
馬車を降りて、少し湿った玄関の扉を開けると、この家のワンコ、ジュディが顔を覗かせる。このまえ来た時は嬉しそうに駆け寄って来たのだけど、今日は違う。コムギの姿を見て少し警戒しながら、おずおずとソファの後ろに隠れてこちらを伺う。一方のコムギも目が離せなくなってる。
「ジュディは恥ずかしいんだって。そっとしておいてあげようか」
コムギの頭をなでていると、祖母が隠れたジュディを抱き上げてソファに腰掛けて膝に乗せる。ジュディは恐る恐る、コムギの目を見ないようにうずくまる。ジュディのほうがコムギよりはいくぶん色白で小柄。
アズールは私の後ろに立って、ベリチェがその隣で彼を視ている。ベリチェも初日ほどはアズールのことを警戒していない。もともと何にでも興味を持つ子だし、たぶんこうやって慣れていってくれると思う。
「そんなに怖がらなくてもいいのに、ジュディったら」
祖母はジュディの長い髪をゆったりと撫でて、「はいこれ、ひとつはコムギちゃんに」と、クッキーを二欠片渡す。少し緊張気味なジュディを見ながら、ベリチェは興味津々。
「この子たち、交尾するかな?」
と言うけど、ジュディはまだ女の子じゃないし、それはないんじゃないかな。
ジュディが祖母から受け取ったクッキーをひとつ、おずおずとコムギに差し出すと、私とベリチェとで、同時に「おおーっ」と、声を上げた。
ジュディはそそくさと祖母の元へ戻ろうとするけど、コムギがその手を取る。私とベリチェとで、固唾を飲んで見守っていると、ジュディも立ち止まり、コムギを振り返る。そしてコムギが顔を低くしてすり寄るのを受け入れるように、その場でじっとしている。
「大丈夫そう」
思わず安堵のため息が出る。
ワンコ同士ってもっと盛り上がって遊ぶのかなって思ったけど、コムギとジュディは静かに寄り添ってて、でもうまく行きそう。ゆくゆくはこの子たちの間にチビワンコでも生まれたらいいな、なんてことが脳裏を過ぎる。その時はコムギも私から離れてしまうんだろうけど……
でも、と、気を取り直して、
「それでですね、マデリーさん」
改めて祖父に語りかける。
「防衛システムに何が起きたか、確認したいんです」
祖父は「そうか」とだけ言って、言葉を選びあぐねる。
囮が上陸したと父が言った日、私はオレンジ色のカイトを目にした。防衛システムを作動させたのは地球人の可能性が高い。そこに、アズールが絡んでるのではないか確認したい旨を伝える。
「そのバグベアの青年か」
「そう、見た目はバグベアなんだけど、彼はこの大陸の外から来たかもしれないし、もしそうだったら……」
もしそうだったら……いつの間にか私は、彼のことを本気で地球人だと信じてるのかもしれない。でも、いずれにしたって目的は? ここへ来た手段は? 知らなければいけないことはいくらでもある。彼が地球人ではなかったとしても、私が拾ったカイトはハイアノールのものでも、バグベアのものでもない。彼とは別の地球人が侵入している可能性だって無いとは言い切れない。その手がかりさえつかめればいい。
「どうします、お爺さん」
祖母が訊ねる。
「ああ、可愛い孫が訪ねてきたんだ。無碍にはできんよ。ちょっとコントロールサイトまで出かけてこよう」
破顔。たぶんいまの私の顔のことを言うんだ。
「それで、調べた後はどうする」
「彼が地球人である可能性を排除した上で、彼らの国に返したい」
「仮に地球人だったら?」
「まずは大学に連絡して……」少し考え、「恩師と委員会に判断を仰いで、言語解析に移るか、あるいは地上へ返すか……」
いずれにしてもそこはもう私の判断できることではない。もし地上へ返すと決まれば、コントロールサイトには航空機も一機格納されている。祖父母も父もそれを操作できる。だから、この三人のだれかが私の無茶を聞いてくれたら、たとえアズールが地球人でも地上へ返してあげることができる。
「地上へ、か」
つぶやきながら外套を羽織る祖父。その口角は微笑んだかのようにも見えた。
「コムギ、おいで!」
ジュディとずっとべったりだったコムギを呼び寄せる。
「もうちょっとで交尾しそうだったよ」とベリチェ。
そうか。
「コムギはいいよね。フィアンセができて」
アズールなんか、このまま乱暴が続けば去勢されちゃうんだよ。
そう考えていると、ベリチェも察する。
「アズールのことはいいよ、放っておけば」
地球人かもしれないのに、ワンコ以下か。ベリチェにとっては。
切り株ハウスからコントロールサイトへは、祖父の荷馬車で移動した。
荷台は狭くて、そのへりに紐を結んでアズールを走らせる。
「大丈夫かな、アズール」
「汗腺が多い動物は汗で体温を逃がすから、運動は得意だし、好きなはずだよ」
そうは見えなかったけど、でもベリチェが言うんだ。だったらいいかな、って。
サスペンションもないガタガタ揺れる馬車。ベリチェが歌い始めて、私も歌を合わせて、コムギにも促すと、なんとなく合わせて歌いだして、ベリチェは器用に私の声にハーモニーを当ててくる。
「音楽ってなんだと思う?」
副声で歌いながら、唐突に投げかけてくるベリチェ。
「えっ? それは、哲学的な話?」
「なんでもいい。あなたがどう思うか聞いてるの」
「それは……脳の遅延処理から来る音声再合成時の共感覚?」
「その説明だとわかんないよー」
ベリチェはクスクスと笑う。
「ベリチェはどう思うの?」
「写し絵……かな。この世界の」
「写し絵?」
「瞬間の音圧のなかにも、世界のすべてが込められてる気がするの。音楽はその連続。宇宙の時間が記憶されてる」
主声で言葉を交わしながら、ふたりはずっと歌い続け、コムギもそれに合わせるように音の外れた声を出し続けていた。
「クロマは三だ」
「えっ?」
「コムギの歌。十二平均律で遷移してる。ワンコにしては珍しい。はじめて聴いた」
「そうなんだ」
ベリチェの話はマニアックで、このあたりの話にはついていけない。私にとっては、どんな歌も歌は歌。馬車から見える景色にぽつぽつとキノコが増えて来て、朽木のトンネルを抜けると、目の前にキノコの森が広がる。
そしてそのなかでも最も巨大で堂々としたキノコが、無人機のコントロールサイト、通称『キノコハウス』。キノコに擬態した軍事施設で、このエリア一帯の無人機と防衛システムを管理している。
扉の前まで来ると、「フレア、試してみるか?」と、祖父。
もちろん。
左手を扉にかざすと、ライトパネルに専用のインターフェイスがコールバックされ、そのウインドウに私のIDとそれぞれの認証スコアが並ぶ。どこそこの大学のどの学位が何点、どの論文の参照数がいくつ、どこそこの企業のどの業績、軍の階級、スコアが足りていれば緑、足りてなければ赤で。
扉は無事に開いたけど、入室資格のないアズールとベリチェは残して行くことになる。
「アズールのこと、まかせてもいい?」
ベリチェに聞くと、
「大丈夫。試したいことがあるから」
と答える。
試したいこと?
「コムギはどうする?」と、ベリチェ。
「ペットは大丈夫だと思う。おいで、コムギ」
コムギは端からついてくる気でいたみたいだけど、ベリチェの悪戯な顔が少し心配。
少し戸惑っていると、「では、参ろうか」と、マデリーさん。
私もコムギも急いでその後を追う。
道は分岐し、片方は地下格納庫へと続く。その先には、有人戦闘機が格納されている。
「旧式のプルノー型だが、一応この星の磁場でも飛べるようだ」
マデリーさんは一方的に説明しては、「見ていくといい」と、格納庫へと降りる。ベリチェたちを待たせてるから――とは思ったけど、戦闘機と聞くとなんとなく惹かれる。
真っ白い鍾乳洞に擬態させた幻想的な階段を降りると、透明な地底湖に浮かぶように、その機体はあった。外観は完全にデルナイト星系のボーガル水亀に似せてある。この機体で地上を飛べたらどんなに素敵だろうと、不思議な胸の高鳴りを感じる。
「やあ、エトシェン。アルミラ・ディートが帰ってきたよ」
エトシェン。それがこの子の名前なんだなと思う一方で、アルミラ・ディートの名前にもどこか懐かしさを覚える。
祖父は首をもたげるボーガル水亀に、愛おしそうに声をかけている。
「プルノー型は、フェンベルの襲撃に備えて作られた型だから、本来は磁気圏外機なんだ。それでダル星では安定しないものが多かったんだが、こいつはプルノーでも初期型、外宇宙対応改修される前の機体だ。ダル星でも、地球でも、自在に飛ぶことができる」
祖父はそう説明して、「まあ、おまえも知っているはずなんだがね」と付け加える。
それにしても、プルノーの初期型ということは、少なくとも十二万年前のタイプ。ダル星に移ったのが七万年前だから、そこから更に五万年も遡る。
「別のサイトの管理人が試したそうだが、地球の都市部では磁気ノイズが多くて、擬態が動作しなかったらしいね。そこは少し調整が必要だ」
「都市部を飛んだの?」
「ああ、でも私じゃあないよ。イーストエンドの連中さ」
「そうか。じゃあ、そのひとは地球人を見たんだ」
「おかげでいま隔離されてるがね」
祖父が擬態を解いてみせると、そこには白い双胴の機体があった。表面の白いディアル樹脂の下は生体クロックノイド、二七〇度の体温を持つ人工生命体。液体ナトリウムの血液、有機シラン系を主体とした構造に散在神経系が走り、薄皮に浮き上がったモリブデン骨格がグロテスクにのたうっている。
「しかし、こいつに本気を出させるわけにはいかん」
私の胸の高鳴りを察したかのように、祖父が口に出す。
「フェンベルの連中は十八光年先から攻撃を仕掛けてきていたからな。その制圧用に設計された機体だ。地球の軍を相手にしていては、都市のひとつやふたつの壊滅では済まんぞ」
有効射程距離で一億八千万キロ。粒子砲一門あたりの最大出力が四二・七ペタジュール。これを最大で十二ターゲットに同時に砲撃。リロードに〇・七秒。連射限界は排熱次第、弾数は無限。磁界シールドが瞬間最大で四・六メガテスラ、小型の中性子星の磁場に匹敵する。テクノロジーとしてはフェンベルに合わせた第三水準機体になっているけど、彼らの機体ではまるで刃が立たなかった。
「マデリーさんもこれで戦ったこと、あるんですか?」
胸にあふれるときめきが、のどに詰まった。
「ああ。フレアほどの腕じゃあなかったがな」
「私?」
祖父のガラスの瞳は、双胴の機体の向こうに星空を見ている。
「いやあ、楽しそうに飛び回っていたよ」
「ちょ、ちょっと待って、覚えてるんですか、十万年以上も昔のこと!」
「ああ、覚えてるよ。アルミラ・ディートは伝説だよ。あなたはあのあと、科学者になったり、デザイナーになったりして、もうそんな名前も覚えてはいないだろうが、私はずっとここでこいつを守ってたんだもの。目に焼き付いたあの姿は、そう簡単には忘れんよ」
アルミラ・ディートは伝説だ――という祖父の言葉は、すぐにはその意味を教えなかった。通り過ぎて、ふりむいて、言葉をひとつ、ふたつ集めるうちに、ようやく飲み込めた。私のことだ。だから私、ときめいていたんだ。
「私はここでひっそりと暮らしているおかげで交友関係も少ない。過ぎた日を記憶して暮らすには都合のいい場所だ」
それは幸福で満たされたものでもないのだと思う。どんな幸福にも優る小さな幸福にすがって暮らす、寂しい老人。その横顔が、ほんのりとした笑みを浮かべた。
「その十数万年前、私たちはどんな関係だったんですか?」
「そこまでは覚えておらんよ。数千年前のこととはわけが違うんだから」
いまの家族が私の呼びかけで始まったのは覚えている。祖父祖母とは形式上は家族になったけど、あまり会うことはなかった。でも、知ってたんだ、マデリーさんは。私のこと、家族になる前から。
格納庫を後にして、データルームへ。
その先へは私のIDでは入れない。
「アズールが関わってるかどうかだけ教えて下さい」
端末に向かう祖父に声をかけるが、祖父は首をひねっている。
「何かあったんですか?」
「この前までよりセキュリティレベルが上がってるね。入室を拒否されたよ」
それって、爆発事故のせい? 管理人ですら入れないって、どうして?
「ああ……」と、祖父は声を漏らす。「文明接触アラートが出てる」
文明接触アラート? 地球文明は第一か第二水準のはず。だけどこの疑問が首をもたげるのももう何度目だろう。
「第三水準の文明があるってこと?」
「ああ、それ以上だろうね。大学の恩師の承認を加えても入れなかったんだもの」
第三水準以上。そう聞いても大袈裟だとしか思わなかったけど、
「ああ、こっちなら行けそうだ。教え子の方に承認を出してもらったよ」に続いて、その教え子の名前を聞いて、ふと、もしかしたらと感じ始める。
「まさか、第四水準文明が?」
そう訊ねても、祖父は私の話など聞かずに端末に向かう。
しばしの間をおいて、扉のロックが外れる。
「私も入っていい?」
「いや、無資格のものを入れるわけにはいかん」と、祖父は扉の向こうへ。
それはそうだけど……落胆していると、閉まりかけた扉にコムギが飛び込んで、そのまま扉は閉ざされる。
「あっ!」
もっと簡単に済む話だと思っていた。
私は単純に、システムの暴発にアズールが絡んでいるかどうか知れたらそれで良い。もちろん、カイトの持ち主のことまで聞けたらそれが良いのだけど、すべてを教えてほしいと言いたいわけじゃない。
ため息が出る。
コムギと話せたらコムギから聞き出すんだけど。
扉の前で考え込んでると、しばらくしてコムギを抱いて祖父が出てくる。
「マデリーさん、私が知りたいのは地球の文明の話ではなくて、アズールがどうやってこの地へ訪れたかだけなんです」
それだけなら問題ないだろうと思って切り出してみるけど、答えはない。
祖父に承認を出したという教え子は、階級的には大佐だったと思う。大規模な作戦の指揮を取るクラスのひと。何か問題があったら、そのひとにも迷惑がかかる。祖父がそのひとの先生だったってだけでも驚いているのに、祖父はいつものように飄々としている。
それでも聞かないわけにはいかない。と、私が口を開こうとすると、祖父は「ほい」と、コムギを私の手に渡してくる。
そして私の目を見ることもなく、
「フレアを頼んだよ」
と、コムギの頭を軽く撫で、出口へと向かう。
「マデリーさん!」
呼び止めてみたけど、もう何を答える気もない。
表ではアズールとベリチェが待ってる。
ベリチェはアズールを手懐けて、何か得意げに話しかけてくるけど、ごめん、それはちょっと後にして。
そこで祖父の説明をもう一度聞いたけど、
「文明接触の重要な事案だ。慎重に動きなさい」
とだけ。
マデリーさんの反応から、地球に第三水準以上の文明があることはもう確実。おそらく第四水準。地球には第二水準の文明しか無いって事前にわかっていたはずなのに。
でも、私が知りたいのは、そんな大きなことじゃない。ただ、あのカイトで飛んでいたひとを知りたかっただけ。それなのに、どこか遠いところまで行こうとしている。
私のそんな不安もよそに、コムギはさっきから、地面に何か模様を描いて遊んでいる。ベリチェに丁寧に足で消されながら。
屋敷に戻ると軍人たちの姿はなく、母から彼らがアズールの服を持ち帰ったと聞く。訪ねてきてたのはエルナート・レイド大尉の小隊だとも教えてくれた。目的はアズールの正体を探るためだろう。このままだと私だけが何も知らないまま取り残される。
階段を上がって父の部屋の戸をノックすると、モニターが開いた。
「いまどこ?」
「センタービルのオフィスだ」
「いまから行ってもいい?」
モニターが消えて、扉が開くと、なかは首都にあるビルのエレベーターにつながっている。汎用ポータルがある七階からオフィスのある三四階へ、セキュリティチェックを通り、二七階で回頭、副塔へ接続。
オフィスへ入ると父はゆったりとソファに腰掛けて、無数のモニターを周囲に開いたままボードゲームで時間を弄んでいた。
「この前、シスーク型を見たの。シスークは外宇宙用でしょう? あれは、何をしていたの?」
「それを聞きに来たのか?」
聞きたいことはいろいろある。答えられないなら「答えられない」とその一言でもいい。ただ、少しでも真実に近づきたいだけ。
「この時期だと、地球磁気圏での運用テストだろうな。地上軍の威嚇も兼ねているかもしれんが、いまはまだ地上に下ろすことはないだろう」
当然。あれがワープアウトしたらそれだけで地表が吹き飛ぶ。
「その必要がある時は磁気圏外でワープアウトさせて、安全に降ろすさ」
「その必要って何? 私たちはいったい、何と戦うつもりなの?」
父は、残念、答えられないとジェスチャーで伝える。
仕方がない。私は質問を変える。
「アズールの衣装を持って行ったって聞いたけど、細胞を分析したの?」
「ああ。結果を見たいか?」
「いい。答えは知ってる」
アズールはバグベアなんだ。地球人じゃない。そのくらいは知ってる。
「そうか。安心した」
私、お父さんが考えてるような狂信者じゃないから。私が知りたいのは、アズールがバグベアかどうかじゃない。バグベアと私たちの間の壁。ハイアノールと他の種との間の壁が何に由来して、私たちはそれをどう理解すべきか。いや、もっと大きいこと。私たちはこのままずっと、永遠に宇宙を彷徨って、行く先々で文明を侵食して、どこへ行くのか。
「わかってるよ。何年家族でいると思ってるんだ」
だったらいいんだけど。
父は少しバツの悪い顔をして、「バグベアはバグベアの国へ返すというのが建前だ。それぞれの国に返す必要がある」と、椅子に深く座り直す。
そんな建前を守ってるひとなんてどこにいるっていうの。それに……
「彼らはバグベア同士で戦争をしているのよ。そんな国に返すの?」
「不憫だとは思うよ。だが、だからといって我々が保護する義務も権利もない」
そんなのもぜんぶ建前じゃない。干渉するひとは干渉してる。自分の都合で。なのに向こうの不利益を理由に挙げると、原則を盾にして逃げる。
「いずれにしても、すぐに鑑定結果は通知される。そのときには態度を決めざるをえん」
「そんな通知、受け取らないと言ったら?」
「ああ。受け取る義務はない」
ドルイドの町では、いまもいくつかの家庭がそうやってバグベアを飼っている。綱手町通りから癒院通りを越えて小森野のあたりまで行けば、そんな家はざらにある。私もそうなるんだ。でも。
「じゃあ、これでアズールの件はお終い。ひとつ質問してもいい?」
「かまわんが、こちらの願いを一つ聞いてくれるなら」
「願いって?」
「国境の町に、バグベアとコミュニケーションを取ってるグループがある。そのひとと会って、アズールのことを聞いてきてほしい」
いったい何のために? まともな学者の話を聞いてこいって意味かもしれないけど、どうせ彼らに物を与えたりして実験してるひとたちなんでしょう?
「話を聞くだけだったら。でもその代わり、質問には正直に答えて。それ次第」
「わかった。質問とは?」
「地球にある文明は、第三水準? それとも第四水準?」
できるだけ逃げられない質問、明確な答えがある質問を選んだつもりだった。
だけど答は、
「そのどちらでもない」
どちらでもって、それじゃ答えに……
「まさか、第五水準?」
「質問に答えるのはひとつだけだ」
第五水準が? いままで宇宙のどこに行っても痕跡しか見つかってないのに……地球に?
「対戦相手を待たせてるんだ。ゲームに戻ってもいいかな?」
「待って! もうひとつだけ!」
左手のライトパネルから呼び出し音が鳴る。
見るとコムギがトイレの前で戸惑っていた。
あの子は、もう!
第五章 フレア・カレル(4)
眠っていると、羽毛が開く。
普段は体に密着して煌めいてる鱗が、夜の間だけ、鳥だった頃の私たちに戻る。
朝方、羽根の間にコムギが手を入れてくる。コムギはいつも私より少し先に起きて、首筋のあたりの羽根を柔らかく逆撫でする。それでつい私が声を出してしまうと、コムギは私の顔を舐める。これがどうやらコムギの「おはよう」らしい。それでもまだ起きたくない朝は、コムギに覆いかぶさって、それでも耳や首筋を舐めようとするので、体を裏返して、両膝をたたませて、丸めたコムギを両腕で抱えてもう一度眠る。
そのままコムギも寝てしまって、少し遅めの朝。
コムギの手を引いて奥の通用階段を降りて、勝手口から水場へ。
シャツを脱いで髪を洗って、寝汗に濡れたコムギの服を脱がせて、頭から水を掛けると寒そうに震える。コムギの頭に石鹸をこすりつけて、その泡で軽く体を流して、濡れた服を干して、ブランケット一枚被せてウッドデッキに置いて。石垣から引いた木管をくぐって流れ落ちる清水の、その下にしゃがんで水を浴びながら、明日からの旅のことを思う。
国境の町。国境があるわけでもない、いろんな種が集まる雑多な雰囲気からそう呼ばれているだけの町。車だと浮遊型なら半日の距離だけど、馬車で行くことにしたから、三〇日。準備はコムギに邪魔されながら、たぶん今日はそれで潰れる。
それにしても、水浴びってどうしてこんなに落ち着くんだろう。
水浴びしている時間が一番好き。
羽毛を開いて素肌に水を浴びてると、コムギがブランケットを捨てて突進してくる。せっかく体も拭いたのにおかまいなし。両手で私にしがみついて、腰を振り始める。
「ダメだよ、コムギ。あなたにはフィアンセがいるんだよ」
コムギの腹部の中央には深い傷があって、最初は痛々しくて見るのが辛かったけど、それにももう慣れてしまった。
そんなことをしている間、アズールはといえば、ずっと自分の部屋で迷路を眺めている。ベリチェが「バグベアは迷路を見せておくとずっとそれを見てる」というので試しに見せてみたら、本当にずっとそればかり見てる。
午後になって居間の机に地図を広げて、ベリチェとふたりで旅のルートの確認。
街道には宿場町もあって、水浴びに適した沢もいくつか記されている。一日で移動できる距離にあたりをつけて、街道から少し離れたところでも、絶対に外せない水場に印をつける。
そのなかの一箇所を指して、「この距離だけど」と、ベリチェ。
「午前の音合わせの時間はこっちに戻るから、ここを一日で走るのは難しいかも」
そうか。ずっと一緒にいるのかと思ってたから、少し寂しかった。
「じゃあここは二日に分けようか」
「そうだね。フレアは私がいない午前中どうしてるの?」
「その間は焚き火でもしてる」
正直なところ、アズールと言葉が通じないことの負担は大きかった。コムギに話しかけてるときも半分くらいはベリチェに話しかけてるようなものだし、それにこの、自分で始めたパーティがだんだん盛り下がって行く感覚は寂しい。だれもゲームに参加してくれなくて三々五々話してるだけのパーティで、早めの時間からぽつりぽつりとひとが帰り始めたときの、あの感覚。
「ねえ、ベリチェ」
「どうしたの、改まって」
「私、最初から知ってたんだよ、アズールが地球人じゃないって」
ベリチェはひとつため息を吐く。
「知ってるよ、そのくらい。いままでずっとそうだったじゃない。妖精探したことあったでしょう? ダル星にいた頃。あれ、けっこう楽しかったし、あなたのそういうバカなところは私、好きなの。どっちを信じてるかなんてどうでもよくて、思いついたことがあったら、やっちゃえばいいんだよ」
うん、そう。でも――
「ちょっと訂正させてもらうと、妖精探しのときはほぼ完全なネタだったの」
「ときは? ときはっていうと?」
「でも、今回はあのときより筋が良いと思わない?」
そう言うとベリチェはしばし、うーん、と考える。
「まあ、確かに。あなただったらワンコの方を地球人だと言いかねないし」
いや、いくらなんでもそれは……と、コムギの顔を見る。
「コムギが地球人って」
ベリチェもコムギの頭に顎を乗せたりしながら「まあ、ありえないけどね」って。
「ワンコって、元はティーガーデンの第六惑星のラボで合成されたんだよ? 素体は三種類くらいそれぞれ別の惑星から。それに偶然似てるって、おかしくない?」
「でも、胎生哺乳類だったらこの形態はありうるでしょう? ワンコの方がそれに似せて作られたのかもしれないし。それにこの子、臍があるから胎生だよ」
「ちょっと待って。臍?」
急いでコムギのシャツをめくって古傷を確認する。
「私も古傷かと思ったけど、傷にしちゃ深いしさ。胎生だったらけっこういるはずだよ、このタイプは。第三水準文明では標準型じゃないかな」
確かに、臍っぽい。こんな位置にあるんだ……。
「気持ち悪……」
「腸まで届いてるんだよね、この穴」
「いや、わかんない」
哺乳類は胎児の間、腹部から腸管を伸ばして母体内部に寄生して栄養を摂取する。臍はその痕跡で、原初の口といってもいい。ほとんどの場合、誕生とともに口としての機能は失われるらしいけど。でも、もしコムギが胎生だとしたらワンコとは別の種ということになる。
「脊椎動物のなかでもよりによって、哺乳類は駄目でしょ、哺乳類は」
「大丈夫だよ。お腹についてる口は痕跡なんだから。ここから舌を出して襲ってくることなんてないよ。たぶん」
いや、そういう問題じゃなくて。胎生哺乳類って、そもそも繁殖方法がリスク高いし、口唇欲求が強くて、自我が強すぎるし、環境変わったらすぐ全滅する。
「だいたい哺乳類が繁殖し始めたら、その星の文明は全滅コース」
「うん、わかるけど、さすがに言い方が酷いよね」
哺乳類は第三水準文明までは行くけど、そこに留まりがち。第四水準の私たちからしたら、どうしてそこに留まるのかわからない。それに第三水準文明同士っていつも揉めてごたごたしてる。
「第三水準文明って宇宙船でコールドスリープして彷徨ってる連中でしょう? 私にはそのどこが楽しいのかさっぱり理解できないし、そこまでして生存にこだわる理由がわからない。だいたい、何千年もコールドスリープして遠征してきて戦争を仕掛けるって、どういうこと? 寝たまんま宇宙の果まで流れていけばいいのに」
「でも全てじゃないよ。第四水準でも哺乳類はいるよ。たまに」
「それは稀有な例外。哺乳類って、機械化が本質であって、オルガネラだと思う」
「わかんない。私にわかるように言って」
「要は宇宙船が本体。なかに詰まってる有機物は煮こごり」
「ごめん、それちょっと面白い」
明けて翌日、旅立ちの朝。
せっかくだからと新しい服を下ろしてあげて、いつもより少し精悍になったコムギと、ずっと迷路を眺めてるアズール、それと私。広場の隅のテーブルで朝のセッションが終わるのを待っていると、しばらくしてベリチェがサンドイッチとお茶を持ってきた。
「これ食べたら出発しよ」
うん。
私はアズールの迷路を取り上げて、食事を勧める。
「馬車のなかで迷路を見せちゃ駄目だよ。酔うかもしれないから」
とは言え、どうせトランクだから、迷路なんか見せるまでもない。
「あと、それと」と、ベリチェはサンドイッチを口に入れて、「彼は所有印が無いから、自由個体って扱いになるけど、いい?」と聞いてくる。
ちょっと待って、自由個体とか所有個体って、いまもあるの?
「うん。国境の町はそういう町。肩のあたりにあなたのイニシャルでも入れておけば、あなたの所有物ってことになる。でもそれがないと自由個体だから、何かトラブルが起きた時にあなたが所有権を主張しても認められない。本人の意志が優先される」
でも、それが当たり前でしょう? 私はアズールを所有してるとは思ってない。
コムギは鼻先をサンドイッチに寄せてくる。
「駄目だよ、コムギ。これはあなたが食べるものじゃないの」
「一時的にでもいいよ。彼が受け入れたって証明されれば、それで効力を発する」
コムギの頭を撫でながら。まるでドルイドの時代の話だ。
「いや、このままでいい。何かあったら彼の意志にまかせたい」
「わかった」
国境の町が私たちが知ってる町と違うのはなんとなく知っていたけど、私はいったいどこに向かうんだろう。昨日からいろんな衣装を選んで、コムギにも見てもらってトランクに詰めたのに、あんまり楽しい旅になる気がしない。
「寝るとこはどうするの?」
ベリチェの質問は、まだ続いた。
ドルイドがここを離れて久しいし、宿場町としていまも機能してる集落って、そんなにはない。調べてみたけど、半分くらいは野宿になる。そういうとベリチェは顔を曇らせる。
「バグベアといっしょにテントで寝るのは嫌だよ」
うん、ベリチェはそう言う気はしていたし、ちゃんと答えを用意しておけば良かった。
私にもアズールに対して恐怖心がないわけじゃない。
「アズールは私たちのこと、襲うと思う?」
ベリチェが心配しているのはそういうことだよね。
「襲う襲わないに関わらず、距離が必要なんだよ」
距離か……。
「離れていれば無関係でいられるんだよ。牛がいても鶏がいてもお腹空いたら食べればいいし。でもある程度近づいてしまうとそうはいかないよ。『美味そう』か『可愛い』か選ばないといけなくなる」
そうか。だったらアズールはどうなんだろう。
「アズールだったら、動物じゃないよ。ひとだよ?」
「ひとじゃないよ。バグベアと私たちじゃ価値観はぜんぜん違う」
「そうかもしれないけど、違うのは悪いことじゃない」
「だから距離が必要なの。肉体的にも、精神的にも」
でもそういうのをなくすのが芸術家だとばかり思ってた。
「芸術家にとっての距離は、存在するようでしない。大きくも小さくもないし、プラスでもマイナスでもない。あえていえば虚数」
虚数。私が受け取った言葉を咀嚼していると、ベリチェは「それじゃあ」と、ふたつの案を挙げる。
ひとつ目、夜はちゃんとしたコテージをマテリアライズして、各々個室で過ごす。
ふたつ目、夜はアズールに首輪をつけて外に出して、私たちだけでテントで過ごす。
最初の案は、私たちが決めた田舎暮らしよりも、ずいぶん文明度が高い。
「それはそうでしょう。私たち、文明を発達させることでこういう問題を解決してきたんだから」
沼川庄から、旧街道を東へと行くと、しばらくは古いドルイドたちの町並みが続く。
この大陸には、ドルイドの町が数多くあった。私たちが住む町はその中でもかなりの大きさを誇る。走っても走っても、ドルイドの町並み。
ドルイドは、種としては私たちハイアノールと同じだったが、ある意味、私たちからいちばん遠いところにいた。自然な生活に憧れ、不死なる定めを捨てた彼らには、性欲がある。私たちの体は、不死性を捨てることでようやく生を渇望するようになった。
彼らは自ら短命であることを選び、死の不安を持ち、私たちは自ら不死を選び、生の不安を持つ。おそらくそれは、自ら選んでしまったことへの不安なのだと思う。選ばないことの安心と、選んでしまったことへの不安。何かを選んでしまえば、後悔するのは必定なのかもしれない。
だけど――馬に乗ってる時、御者台にいる時は、何もかも忘れる。スピードが上がれば上がるほど。肉体という束縛から、自由になる。
南西街道から帯白隧道を抜けて、不夜街道へ接続する頃、キャビンの小窓からコムギを渡される。
「ワンコがあなたの隣じゃないとイヤだって言ってんだけど」
「えっ? まって」
慕ってもらえるのは嬉しいけど、あなたを抱えてどうやって手綱を取ればいいのよ。
しょうがなくコムギを膝の上に乗せて、前足を肩にかけさせて、大きな赤ん坊を抱きかかえるように顔を首の横に埋めさせて手綱を取ってはみるものの、コムギは前を向こうとして身を撚る。
「ちょっと、いま動くと危ないでしょう?」
話しかけても知らん顔で身体を反転させて、私の手綱を取る腕に両前足をかけてすっぽりと収まる。目の前にコムギの後ろ頭の香ばしくて甘い香り。鼻先にこすりつけたチョコレート。片手を胸のあたりに回してその顔を引き寄せ、胸いっぱいに吸い込む。温かい。コムギの耳に鼻をあてていると、コムギは私の手に前足を被せて、自分でも手綱を取ろうとする。
「わかったよ。それじゃあ、飛ばそうか、コムギ」
そう耳元に囁いて、ソルティ、シュガリィに鞭を入れる。
スピードが上がる。風を感じると瞬膜が降りる。瞬膜を通した景色には偏光が見えて、太陽の位置、風の流れ、通り過ぎた景色まで、すべてが胸のなかに描かれる。
疾く、もっと疾く。
避け損なった朽木で馬車は小さく跳ねて、手綱と体重とで車体を立て直す。邪魔になるかと思ったコムギは、まるで空の飛び方を知っているかのように、私の体に合わせて体重を動かす。
コムギが哺乳類だなんて、きっと何かの冗談。この子もきっと鳥なんだよ、本当は。
馬車は路面の凹凸を拾って肩を揺らす。
少し腰を浮かせて、暴れる車体を抑え込みながら、
「でもほら、コムギ、見て」
地面は私たちの脚に触れることなく流れていく。
「飛んでるんだよ、私たち。この低い低い空を」
街道は川沿いに走り、川は表情を変え、目に入る民家も少しずつ数を減らす。
蛇行する川。水門が築かれ、用水路が巡る広大な田畑。川辺には水没した低木も見え、水嵩を増した様子を伺わせる。ところどころに見える集落と、ひとかたまりの城塞都市。ドルイドたちも、わずか百年前までは都市ごとに領土を争って戦争をしていた。野生の馬が顔を上げる。見慣れぬ水鳥が川面を駆けて舞い上がる。遠くに見えていた山裾が、ほんのそこまで迫ってきた。街道は川沿いを離れ、右手の森、山道へ分け入る。蛇行する道を、深い樹々が覆うと、私とコムギの伸ばした腕に木漏れ日が走った。
まだ日が高いうちに野宿の場所を探してテントを広げる。
ソルティとシュガリィを休ませて、あと、この近くには絶好の沢がある。
ベリチェは、「これ、持ってて」と、私に迷路を渡して、アズールが釘付けになっている間に首輪を掛けて、木につないだ。首輪を見たら暴れるかと思ったけど、迷路の効き目は抜群だった。
迷路を移動する速度と距離は、虚数なんだと思う。掛け合わせてもマイナスにしかならないけど、マイナスになれば過去へ戻れる。そうやってベリチェに話すと、
「唐突に言われてもわかんない」
小首をかしげて、言葉の続きを待ってくれるけど、彼女がその、耳をそばだててくれる時間、これがたぶん、虚数なのだと思う。何かを掛ければマイナスになれる。やっと。
「フレアって、どこからもつながってない会話多いよね」
そう……なんだ……。自分のなかではつながってるのに、おかしいな。
でもさ、ベリチェ。
思えば未来には、なにもないよね。
「過去のことを思い出せないわけじゃないんだよ、私たち。ずっと未来を歩いてきたから、思い出なんかないんだ」
ふたりでお互いのシャツを脱がせて、コムギの服も脱がせて、沢まで走る。
「流れがあるー!」
「我慢した甲斐があったー!」
お父さんから国境の町へ行けって言われた時、正直、憂鬱でしょうがなかったんだけど、これだったら最初からこうしてればよかった。
ベリチェと手をつないで、上流に向かって、ふたりで羽毛を開くと、ベリチェの羽毛の隙間からは真っ白い皮脂が流れ出した。
「汚い、ベリチェ。あなた水浴びしてないから」と、眉をしかめると、
「自分でもびっくり」と、ベリチェは笑う。
上流に走って、コムギを深みに投げ込んで、私はベリチェを捕まえて、首のうしろ、背中、脇に詰まった皮脂を掻き出す。
「自分で出来るからあ! やめてえ!」と、くすぐったがるけど、
「自分で出来るんだったらこうはなってないよ!」って、私も笑いが止まらなかった。
日が傾き始める頃に、焚き火を始めた。
ベリチェはゆったりと腰を下ろすと、左手のライトパネルから六本弦ギタールをマテリアライズして弾き始める。
パチパチと爆ぜる焚き火を見ながら、一曲、二曲と、鼻歌で歌って、歌の合間を縫うように世間話なんかして。冗談も、真面目な話も、なんでも話した。人生には旅と焚き火が必要だって、いつか私の著作に記されると思う。
「ねえ、フレア。国境の町ではコムギの方に鎖をつけるよ」
ギタールの優しい音色が響くなか、鈴の音が残酷に語りかけた。
「あそこではワンコが取引されてるんだ。治安も良くないし、鎖がないと略奪されるかもしれないから」
「そう。じゃあしょうがないね」
「あと、服も脱がさないと」
「えっ? アズールの?」
「アズールはいいよ。アズールは首輪も外すよ。でないと、『取り引き用』って意味になるし。問題はコムギの方。ワンコに服着せるの嫌うひとも多いし、絡まれたくないなら脱がしといたほうがいい」
「そうか。それじゃまるで普通のワンコみたい」
「普通のワンコだよ。恋人みたいな接し方してる方がおかしいんだよ」
なんてことを言われて、妬いてるの? と聞き返したら、謎の関節技をかけられた。
「恋人かあ」
言葉は知ってるけど、それって何なんだろうね。
「恋人同士って、ベッドに潜ってお互いの匂いを嗅いだり、ペロペロ舐めたりするの?」
「フレア、コムギと毎晩何やってるの?」
やってるというか、コムギの方から。
「でももしコムギが本当に地球人だったら、私たちの汗は毒なんじゃないかな」
「そうなの?」
ベリチェは驚くけど、うん。ベリリウム化合物に耐性を持つ種は限られる。
ワンコは私たちのRNAが侵襲してるから抵抗力はあるけど、逆にそのせいで遺伝子の損傷が激しくて、繁殖できない個体が多い。
「じゃあ、ワンコいなくなるんだ。近い将来」
「でもそうなったら、また新しい遺伝子を採取してきて修復するよ」
「地球人の遺伝子で?」
「うん。もしコムギが地球人だとしたら、そう言い出すひともいるよね、きっと」
翌朝、聞き慣れない爆音。空に謎の機影を見かける。
「あれは?」
「戦闘機だと思う」
ベリチェは手に持ったレモンを戦闘機に向かって放り投げる。
「変な形。何に擬態してるんだろう」
「地球から来たんじゃない? まっすぐしか飛ばないし、昔の飛行機だよ」
そう言った矢先、戦闘機は撃墜されて、「当たった!」と、ベリチェは拳を上げる。
「シスーク型なんか出さなくても、私で十分いけるんじゃない?」
アズールもコムギも戦闘機が撃墜された方を眺めている。
遅れて、中性粒子砲の雷鳴が轟く。大気に拡散して、柔らかく、尾を引くように。
その音の木霊も消えないうちに、「車の音がする」と、ベリチェが振り返る。
街道を見ると遠くに土煙が見える。
「こないだの車の音だね」と、ベリチェ。
まだ土煙しか見えない距離なのに、ベリチェの聴覚は本当に鋭い。
「私たちに用があるってこと?」
「でなきゃこんな荒れた街道なんか走らないよ」
待っていると大尉さんたちの車両がやってくる。合計三両。うち後ろの二両は擬態のないホバータイプの大型トラック。私たちのすぐ近くで止まり、先頭のエンジン車の運転席から髭の大尉が降りてくる。
「お父様の依頼で参りました。警戒警報が出ています。ここではいざというときにシェルターがない。私たちとご同行ください」
唐突に切り出す。
「ちょっと待って、シェルターにって、何があったんですか?」
「外縁部の防衛システムが同時多数のミサイル攻撃によって破壊されました。これによって敵戦闘機の侵入を許す事態となっています。確認された限りでは、無人機三機が侵入、そのうち一機が内陸グリッドを通過、すなわち第二防衛網を突破されました」
敵という言い方に少し戸惑ったけど、どうやら昔の軍のノリでそう言っているらしい。
「敵って? もしかして地球?」
「ええ、おそらく。戦力そのものはたいしたものではないのですが、まさか攻撃してくるとは思っていませんでした。我々の技術が進んでいるとはいえ、イナゴの群れに最新兵器では対応できませんからな。自然の猛威だと思って、身を隠すのが最善の選択でしょう」
私が言うのは変だけども、この大尉もどのくらい本気なのかわからない。せめて軍が使ってる標準的な用語を使ってくれたらいいんだけど。時代錯誤な大尉の言葉と、漂ってくるガソリンの匂い。古びた軍用車のボンネットは喘ぐようなエンジン音を立てながら、車載の受信機がかすかに音楽を響かせている。
「それじゃあ、私たちはどうすれば?」
「どこが安全とは言えない状況です。できる限り近くにシェルターがある場所に避難しておいたほうが良いでしょうな」
だったらワープホールを馬車のなかに開けばいいだけなんだけど。
「しかし、馬車を走らせながらワープホールを開いたままにはできますまい」
大尉は顎に指をあてて渋い顔を作る。
「移動中は位相差エラーが頻発しますからな。そのたびに馬車を留めてワープホールを開き直していては、煙草が何本あっても足りませんぞ」
なりきって説明してくれるのは良いのだけど、意味がわからない――
遮るように、「私たちはこのまま国境の町を目指すよ」と、ベリチェ。
「国境の町というと、ホートスですかな?」
「そう、芸術の都」
ベリチェはずっと軍用車の方を見ている。ボンネットの向こうから聞こえる、柔らかく掠れた音楽。その音を選り分けるように、少し肩を揺らしながら。
「わかりました。あそこには治安維持のための部隊が駐留しています。ここよりは安全でしょう」
大尉は渋い顔にほんのりとした笑顔を貼り付けて見せるけど、ベリチェはお構いなしに、「これ、ラジオだよね」と、指差す。
「ああ、これですか。よくわかりましたね。どうやらこの星のもののようで、中波域でブロードキャストされております」と、車の傍にいた若い兵が答える。
「私たちの文明でいえば、第二水準の中頃といったところでしょうね。電波はかなり弱いんですけど、この車の受信機は一応軍のモデルなんで。夜はもっとちゃんと音が入るんですよ。チャンネルもいくつかあるようです」
兵士の説明に、ベリチェは目を輝かせる。
「他の音楽も聞かせて。地球の音楽を聞きたい」と、身を乗り出して、大尉が目配せをすると、若い兵士が、少々お待ちを、と、チャンネルを合わせる。
いくつかのノイズをまたいだあと、いままでとは違う音楽が流れ始める。
「なるほど」
ベリチェは音楽に耳を傾け、肩のあたりのオレンジの羽毛を燦めかせた。
「クロマは三だね。ビブラートは喉で掛けてるみたい」
「ハイトが中心の構成」
「転調が多いけど、クロマはずっと一緒だ」
初めて聞いた地球の音楽は、ずっと同じビートを繰り返す。呼吸のように、羽ばたきのように、鼓動のように、繰り返す波にずっと打たれ続けるように。この感覚は、なんとなく覚えている。
こちらの事情を話し、向こうの事情も聞いて、馬車でのんびり旅をしている場合でもないという事情は飲み込めたので、国境の町までは送ってもらうことになった。そして軍の車両のなかでさっきベリチェが言ってたのと同じような注意を受ける。つまり、コムギには首輪をかけて鎖でつないで、服は脱がせておくこと。それから――
「それから、ライトパネルは開かないようにしたほうが良いでしょうな」
「ライトパネルを? どうして?」
「ハイアノールの女の手は売れるの。チップ付きだと値段は跳ね上がる」
女の手だけ? 体から離れたらチップにはロックがかかる。なのに、どうして?
「バグベアたちにとって、それが復讐なの。私たちハイアノールへの」
さっきから眉をしかめた大尉の横で、ベリチェは笑っている。
馬車ごと輸送車に積んでもらって、ホバー用の街道に乗って、ホートス至近のゲートに着いたのは昼過ぎ。ここからなら市街地まで、馬車でも二〇分とかからない。
沢や滝にたくさんチェックを入れたのに。
少し落胆して、ため息を漏らして、私はコムギに首輪を見せた。
それを「虚数化した距離」とベリチェに示すと、ベリチェは「それはただの物質化した距離」と訂正する。虚数化はこれとは違うんだ。
「ごめんね」と、右手を口の前に差し出す。
「本当は舐めさせちゃいけないのかもしれないけど、いまだけは」
額を擦り付けて、ゆっくりと首輪を巻く。そして服を脱がせると、おとなしくなって、不安げに鳴き始める。
「町を出るまで、ちょっとの辛抱だから、ね」
私は寒そうに震える彼を抱きしめて、顕になった背中を撫でる。でもきっと楽しいことだってあるよ。私とコムギだったら楽しいことを見つけることができる。そうだよね、コムギ。
「シールを貼っておいたほうがいいよ。所有物だって示すために」
ベリチェにそう言われて、地球祭りでもらったシールがあったのでそれを貼ってみた。哺乳類だって思われてトラブルになるのも嫌だったので、臍を隠すように。私も臍は直視したくなかったし。
ホバー用の街道を離れあぜ道を越えて、小さく舗装路に乗り上げる。車体を叩いていた小石の音も消え、蹄鉄の音、車輪の音はからからと転がる。コムギが窓から身を乗り出すと、その鼻先に近づいてくる町の匂い。街道は小さな流れに沿って、ゆるやかにカーブを描き、町の中へと吸い込まれていく。
丘陵をまわり、目の前に現れたのはハイアノールの町だった。
ディアル樹脂をベースとした建屋を擬態で飾った町並みは、ほんのしばらく離れていただけなのに懐かしかった。建物に入った構造のラインと、遠くに見える借景の崖線と、植栽、街灯、ベンチ、そのすべてが有機的にデザインされている。そこにはひとの手で生み出された新しい自然の秩序があらわれていた。
町の入口に馬車を留めてゲートをくぐると、花で飾られたバグベアが身じろぎもせずに立っている。綺麗にメイクして、自分では読めもしないだろう飾り文字を全身にびっしりと描かれて。
ベリチェは一言、「あれが虚数」と指差して見せる。
「ツアー後の休暇中、充電できるかなと思って滞在してたんだけど。もう十年以上前かな。でも変わんないね、このへん」
そうか。ベリチェは来たことがあったんだ、ここに。
道なりに石造りの古い建物が並び、その一階にはカフェやブティックが軒を連ねる。どこからともなく楽しげな音楽も聞こえる。ただ、壁はさすがに芸術の街というべきか落書きが多く、石や青銅の彫刻にはペンキがかけられ、足元から折られたり、街灯は割られて、はたまた遠くでは原因不明の火の手が上がっている。
「大丈夫だよ。半分くらいはハイアノールが飾り付けたフェイクだから。あと半分がバグベアの部族同士が実際に激突した痕跡なの」
通りに渡されたワイヤーに何足ものブーツが下がっている。
「以前はブーツじゃなくて、本人がぶら下がっていたんだよ」
ベリチェはまぶしそうに、空中に揺れるブーツを見上げる。
その言葉の意味はわかったけど、私の脳裏に描かれたのは、ずいぶんとファンキーな光景だった。
はじめての町に足を踏み入れる感覚は、何度体験しても慣れなかった。私たちは不老不死と同時に、不成長も手に入れてしまったのだと思う。ひとの目がこちらに向くたびに、己の不備を振り返り、いたたまれなくなる。その視線がベリチェのサイケな衣装に由来するのか、私の衣装と胸に抱いたコムギなのか、怯えながら歩くアズールなのか。
街に入ってから、ベリチェの手はアズールのベルトを固く握って、手の甲にはグローブに擬態させてるけど、たぶん電磁波砲をマテリアライズしてる。
「私も芸術の町って聞いて、一週間ほど滞在したことあるんだけど、腹さえ決めれば暮らしやすい場所。あそこ見て」
不意に走り出そうとするアズールを引き戻しながら、通りの向こうの建物を指差す。
「あの二階に泊まってたの。一階は肉屋だけど簡単な朝食は出してくれて……」とまで言って言い淀む。嗅ぎ慣れない濃厚な肉の匂い。さっきからコムギが私の足元から離れない。
「ワンコの肉食べさせてくれる」
ベリチェは涼しい顔で言うと、不意に暴れるアズールの延髄を打ち据えた。
「バグベアの研究してる先生って、市場にいるんだっけ?」
目貫通りの奥にはミュージアムが見えた。交差する通りには、広い緑地帯がある。池があり、魚が泳ぎ、底に敷かれた石が陽の光を散らす。ひとの行き交う通り、閉じ込められた檻のなか。少しだけ芝生に靴を沈ませる。
「あのあたりから先は擬態だよ。立体映像だ。たぶん」
べりチェは指差して、教えてくれる。
でも私たち、擬態で世界を覚えたんだよね。
風が花壇の花に波を描くと、散水機のしずくが、肌に集めた仄かな陽のぬくもりを払う。柔らかな陽射しに手のひらをかざしていると、コムギが私のスカートを引っ張って、花壇の散水器を指差した。
言葉を失った。
ベリチェもすぐに気がついて、静かに口にする。
「ワンコじゃないね、この子」
コムギが指差した先には、小さな虹がかかっていた。
虹を認識できるかどうかは、第一水準文明を持つかどうかの基準になる。私たちが知ってるワンコだったらこのテストに合格しない。
「どうしてこんな時に」
私の口を突いて出る。
「どうする? 戻る?」
戻ったとしてお父さんにどう説明するの?
「アズールはバグベアでした――って」
アズールを置いて行くってこと?
「コムギを見て」ベリチェは目線をコムギに投げて、「軽々しく言いたくないけど、地球人の可能性があるとしたらこっちだよ」
いつも私の冗談のような思いつきに付き合ってくれていたベリチェが、いまは私の理解の先を歩いている。
「でも、そうは言ってもアズールはこの町の者じゃないかもしれない」
「私たちに飼われているよりましだよ」
私は飼ってるつもりなんかない。
「落ち着いて、フレア。会うだけ会って行けばいいから。目当てのひとに」
「うん」
繁華街を越えると、車両の数が目立って増えた。
住宅地、倉庫街と越え、市場へとたどりつく。市場と聞いて思い浮かべたのは、ドルイドたちの朝市。だけどこの町の市場は、巨大な敷地に身を寄せた問屋街。ここを越えるとその先には川を挟んで、バグベアの居留地がある。私とベリチェと、大型の輸送車が出入りする大きなゲートをくぐった。
鉄骨のアーチが肋骨のように天井を支え、古いくすんだガラスを通して、まどろんだ陽の平行線がグラデーションを描く。建屋の中には柱ごとに地図が貼られ、その前を通る度にアズールが足を止めた。昼も過ぎて、半分以上の問屋がシャッターを下ろしている。行き交うひとも少なく、ひと仕事終えたもの、明日の仕入れを打ち合わせるもの。ここには怪訝な顔で私たちを伺うものはいない。
薄暗い路地。数件だけ営業している店には、観光客向けの小物が並ぶ。もう客の姿もなく、店番は馴染みの営業と雑談にふける。目当ての店に入ると、店の内装は一面の迷路だった。アズールの視線は壁から天井、床のカーペットへと彷徨って、やがて壁の一点に釘付けになる。店の主に手元のメモを見せると、親指を立てて上を示される。店の奥に狭い階段があった。
ひとりずつ通るのがやっとの階段。壁にはたくさんの切り抜きが貼られ、古びた手摺は手を掛けると揺れた。
「どこが悪いの?」
二階に顔を出すとすぐ、男の背中が訊ねた。
「胃腸炎が流行ってるからね。下痢症状の十中八九はウイルスだよ」
男は、ベッドに横になったバグベアの子を診たまま言葉を続ける。小さな部屋は倉庫と事務所を兼ね、積み上げられた荷の間に粗末なベッドがあり、熱に喘ぐ小さなバグベアが横たえられていた。
「お医者さんなんですか?」
ベリチェが問うと男はようやく振り向いて、こちらの顔を順に伺う。
「正式な医者じゃないよ。そうとも呼ばれてるけどね」
医者……のような男は固く絞った布で両手を拭いて、アズールの顔をしげしげと覗いた。
「見たところ具合は良さそうだね。もしかして、買取?」
自己紹介もないまま、本題に入る。バグベアの治療もするし、売り買いもするらしい彼を、まだどう評価して良いのかわからない。
「買取だったら、この町の通貨ペタルでもいいし、公式のクレジットでも、レプテーションでも、なんでも取引できるよ」
父は私に何をさせたかったのだろう。まさか、売ってこいというわけでもあるまいし。地球人でないことを確認させたかっただけ?
「この子は売りません。具合が悪いわけでもなくて、ただ彼に訊きたいことがあって」と、アズールを示すと、男は品定めするように、つま先から頭までその姿を眺めた。
「彼がどこから来たか訊きたいんです」
私の言葉に男は肩をすくめた。テーブルの上のスキャナを取って、アズールの両肩にかざした。迷路に釘付けになっている体を回して、脇腹、臀部とスキャンを続ける。
「チップは入ってないね。遺伝子を調べたら出身地もはっきりするよ。やってみようか?」
――お願いします――そう言えばいいだけのことなのに、その意味がもう、私にはわからなくなっていた。そんなことはもう調べてほしくない。戸棚からツールを取り出そうとしている背中に、急いで言葉を投げた。
「やっぱり、買取をお願いします」
ベリチェは少し驚いている。
ごめん、ベリチェ。驚かせて。でもいいんだ、これで。
「OK。買い手はすぐに見つかると思う。支払いは?」
男は上目遣い。こちらの意図を探りながら訊ねてくる。
「クレジットは駄目。履歴が残ると信用が下がる」
ベリチェが耳打ちする。
「懸命な判断だね。じゃあ、ペタル?」
「要らない。ただでいい。引き取って」
「ああ」
男がうなずくと同時に、テーブルの上にライトパネルが開く。アズールの肖像が表示されて、その上に重なった数字が少しずつ繰り上がっていく。
「チップも焼印もない個体はいい値段がつくと思うよ。裏の仕事をまかせられるからね」
男はライトパネルの表示を見ながら言葉をこぼす。ペタルと言われるこの町の通貨で表示された値段の価値は、私にはわからなかった。返す言葉も見当たらず、黙っていると、視線を投げて、
「本当にただでいいの?」
と、念を押される。
アズールはずっと迷路を眺めている。私は胸の中にある寂しさが喉に漏れないように、ライトパネルの上の数字だけを、ただぼんやりと眺めていた。
店を出ると銃声が聞こえた。
立て続けに一発、二発、怒号と、笑い声。
「あれは?」
「銃声だね」
「火薬銃を使ってるの?」
「音はダミーだよ。バグベアを躾けるための」
私は急に不安になった。
「アズールかな?」
「ほかのバグベアじゃないかな。アズールはまだ店の中だよ」
銃声がまた轟く。
ベリチェは少しためらったあと、目線をそらしたまま語った。
「バグベアは、肩のあたりの第三神経節を撃つと確実に死ぬの。そしてそこだったら、確実に蘇生させられる。それを利用して彼らはバグベアを調教する。専用の銃があって、ジャイロスタビライザーだから外すこともない。それにたぶん、あなたの電磁波砲にもそのモードはあると思う。リューエル・ブランモードっていって、特殊な射撃モードには有名な提督やパイロットの名前がついてるの」
私が言葉をなくしていると、「どうする? アズールを取り戻す?」と、ベリチェは聞いてくるけど、私の足は震えて動かなかった。
「相手は非合法な組織でしょう?」
「うん。怖い?」
正直、怖くないわけがない。私はその組織にアズールを売って、しかも怖くて、取り返しにもいけない。
「どうして売るって言ったの?」
「わかんない。売りたくなんてなかった」
私はただ、地球人じゃないなんて答えを耳にしたくなかった。
そんなことのために、アズールを売るって言ってしまった。
「思い詰めることないよ。何百と起きている悲劇のなかでひとつだけ救ったって、あなたの気持ちが満たされるだけで、なにも変わらないんだから」
*
町外れのカフェでお茶をテイクアウトして、大きな樹の下に座り込んだ。
コムギもだいぶ喉が乾いていたみたい。
私はライトパネルを文庫本に擬態させて、電磁波砲の設定画面を呼び出す。
「あった」
「ね。あるでしょ?」
と、ベリチェは覗き込んでくるけど、私が見つけたのはリューエル・ブランモードじゃない。ベリチェもすぐに気がついて黙り込む。
――アルミラ・ディートモード《クラッシック》・冷却パックを高速で切り替えながらのジャイロ追尾、非同期連続射撃、本体ブロックを冷却槽として転用――
私はどんな戦い方をしていたんだろう。どうして軍を辞めて、学者になったり、デザイナーになったりしたんだろう。文庫本を閉じて、バッグに戻す。
「たったひとりのバグベアさえ、幸せにしてやれない」
気がつくと己の無力感が、言葉になってこぼれていた。
「だれかが幸せにしてやるんじゃないよ、そういうのは」
答えのない問いを追い回すことのナンセンスさと、徒労感。そんなもの、わかってるはずなのに。
「だれかが不幸になってるのを知りながら、自分だけ幸せになんて、なれるものなのかな」
私の独り言のような問いかけに、ベリチェは返答を迷う。だれかが、不幸になってるのを、知りながら、自分だけ、幸せになんて、なれるものなのかなって、自分の口をついた言葉の意味を、自分でも確かめた。
「幸せでも不幸でもないんだよ、私たち」
独り言のようなベリチェの答え。幸せでも、不幸でも、ない。うん。幸せでも、不幸でも、ないよね。胸のなかで、二回繰り返した。
そう。だってもう、成長しないんだ。私たち。何万年生きたからって聖者にはなれない。自分の愚かさを確かめてばかり。
少し間をおいてベリチェが言う。
「この町はクソの塊。これが私たちが八〇万年かけて築いた社会だよ」
そう。それが現実。だけどそれが全てじゃないって、ずっと信じてきた。
そう言うとベリチェは静かに頷く。そして話し始める。
「素晴らしい芸術が生まれた時、みんなガッカリするんだよ」
ガッカリ?
「芸術が自分たちの愚かさを暴露する。素晴らしい芸術であればあるほど、克服しようのない本質的な愚かさを暴き立てる。そんな芸術を見て、私たちはガッカリして、そして称賛する。
――よくぞ暴いた、これこそが私たちの汚点だ、最高のクソだ――って。
だれも愚かではありたくない。欠点があればそれを見つめて脱却したい。そう望むからこそ、それを暴いた芸術は素晴らしいんだよ。
でもそれを表現した途端、それは事実の一部になる。
どうしようもない欠陥が、芸術として昇華されて、これこそが私たちの本質、だれもが持つ不滅なる真実なんだ、と囃され、やがては免罪される。
それが何人かの手を経て伝わるときには、ガッカリは消えて、ただの芸術になる。
芸術は絶望の標本。
クソだよ、そういうのは」
傾いた太陽は梢の影を伸ばして、私たちはゆっくりと過ぎゆく長い午後の時間の真ん中にいた。私とベリチェと、胸のなかに浮かんでは消えるだけの言葉を眺めながら歩いた。はじめて歩く道を、ベリチェがリードする。右手を上げて指差した先。その角を曲がればもう、私たちの馬車が見える。そう聞いたとき、ベリー摘みの農夫衣装を着たバグベアの姿が見えた。
「アズール?」
思わず言葉に出る。
ベリチェもまた、あ、と声を漏らすと、向こうもこちらに気がつく。
「アズール!」
思わず呼びかけるけど、アズールは戸惑っている。
歩み寄り、
「どうして帰ってきたの?」
問いかけてもわかるはずはなく……考えているうちに駆け寄る足はもう彼の前にたどり着き、その勢いで私は彼の肩をぎゅっと握りしめていた。
「これがコミュニケーションだよね。どうして壁を作ってたのかな、私」
ただ、それでも葛藤はある。わかってる。内臓から染み出すような堪え難い不快感を、理性でねじ伏せる。
大尉たちの車も、すぐ近くまで来ていた。
大尉はアズールだけ先に帰ってきたことを不思議がっていたけど、私とベリチェとで町で起きたことを話すと、「新しい飼い主が気に入らなかったんでしょうな」と笑った。
ベリチェは私の耳元で、
「もしかしたら、バグベアじゃないのかもしれないね、アズール」
と囁く。
「それってアズールが地球人ってこと?」
「可能性としては考えられる」
ダル星で妖精を探した時と同じ。あの時も言ったよね、ベリチェ。可能性としては考えられるって。
でも良かった。帰ってきてくれて。
念のため先生に連絡を入れた。先生は、アズールはもう次の飼い主に売却済みで、そこから逃げ出していたとしても関知することじゃないと話した。
「でも、トラブルになるかもしれない」
「新しい飼い主が識別チップを入れてるんだったら返したほうがいいが、そうでないなら、彼自身の自由意志が尊重される。彼がついて行くって言うんだったら、だれも口ははさめないよ」
その話を聞いていた大尉がアズールの体をスキャンしてくれた。
「大丈夫。正真正銘の自由個体だ」
私はコムギに服を着せる。背を屈めて、前足を肩にかけさせて、背中の埃をはたいていると涙が出てきた。心細かったよね、コムギ。服も着れなくて。
さんざんな旅だった。私はともかく、アズール、コムギにとっては。アズールはバグベアなんだと思う。もうそこを疑うつもりはない。かといって、コムギが地球人かどうかに関してはまだ迷いがある。でも、この先は私の課題。これ以上彼らに負担を掛けたくはない。
「ワープホールでしたら、私たちが開きますんで、それを利用して下さい」
と、大尉は言ってくれた。
「ありがとうございます。みなさんもすぐ戻られるんですか?」
「いえ、我々の使命はお嬢様を屋敷へ連れ戻すことですからな。これにてお役御免です」
大尉はほんのりとした笑みを浮かべて町の方を見て、またすぐにこちらを振り返る。
まったくあの親は、行けと言ったり、帰れと言ったり。
帰りの御者台はベリチェが座る。帰りといっても、ワープホールに入って、出たら、そこは屋敷の玄関前なので、ほんの数歩のことなんだけど。私たちと離れてる間に何があったのかはわからないけど、アズールは怯えているように見えた。ベリチェがスタンガンを見せると、アズールはトランクの前で開くのを待っている。私はベリチェの右手にそっと手を被せた。
私の顔を仰ぐベリチェに、首を振ってみせる。
「どうするの? トランクに入れないの?」
ベリチェは訊ねてきたけど、少し考え直してみたかった。
「キャビンでいいよ。いろいろあったと思うから」
アズールは私の対面に座り、そわそわしてこちらの様子を伺っている。彼の様子がおかしいことはコムギも気がついているようで、私と彼の間でしきりに彼を威嚇している。
「大丈夫だよ。いろいろあったから警戒してるんだよ」
馬車が動き出し、ワープホールをくぐるときのふわっとした無重力感。コムギは父の部屋に入ったときに経験してるけど、アズールは初体験のはず。次の瞬間にはもうあたりの景色は完全に入れ替わっている。
家に帰り着くと、アデルとニックが出迎え、父が部屋で呼んでいると伝えられる。
「少し休んでから行くって伝えて」
大尉からどうせすぐに報告が届くんでしょう?
軍を使って私を監視していたこと、問い詰めようかどうしようか。
とりあえずトランクを部屋に戻して、着替えて、あとは……と、考えながらベッドに倒れ込むと、私が呼ぶまでもなくコムギがベッドに上がってくる。
「あなたも疲れたでしょう?」
私の目から涙がこぼれると、コムギはそれをペロペロと舐める。
駄目なんだよ、本当は。
コムギの匂いを嗅いでいると眠くなってくる。沼のような眠りに思考を絡め取られながら、これ、違う、舐めてるんじゃない、キスしてるんだ、この子。なんて考えて、ふっと、頬の上に優しいキスの感触だけ残して、眠りに落ちた。
けたたましいコムギの声で目を覚ます。
部屋にアズールが入ってきている。
コムギはアズールを警戒して、さっきからずっと大きな声を出している。
外からは車の音。
軍用車、大尉さんの部隊の車両の音。
すぐに階下で玄関が開く音がして、兵士たちの足音が階段を上がってくる。
「何が起きてるの?」
アズールに聞いても返事はない。
「コムギ、おいで。何をしてるの?」
コムギはアズールを警戒したまま、私に何かを伝えようとしている。
扉を叩く音がする。
「フレア! 気をつけて! あなたの左手を狙ってる!」
ベリチェの声だ。
どういう意味?
「お嬢さん!」
大尉の声だ。
「部屋にワープホールを開きます! ワープシールドをオフにしてください!」
第六章 浮遊大陸レポート(1)
大陸の奥へと進路を向けて体感で八キロ、人影が見えた。
馬に乗ったそのひとは明らかにこちらを見ていて、僕は急に焦りを感じてブレークコードを引いた。
暴れる風に少し煽られながら、なだらかな丘をひとつまたいだ先、できるだけ岩も木もない場所を選んで地上に降りる。少し離れたところで野犬の群れがこちらを伺う。このあたりは見慣れた木や建物がなく、大きさの感覚がわからない。この距離であの大きさだとしたら、二メートルほどだろうか。
ラインを引きずりながらその場を離れ、カラビナを外し、岩場の影に隠れて、ガタガタと焦る指先でハーネスを降ろす。人影が見えたあたりへは一キロほど。全力疾走するにしても丘をひとつまたぐ。
放置してきたパラグライダーに群れの一頭が姿を見せる。犬と同じなら、鼻が利く。このまま隠れているわけにはいかない。このあたりはおそらく河岸段丘。地上での視界はそう広くない。とりあえず目の前にある丘を越えれば視界は開ける。目視でコースを選定、背を低くして丘の上を目指す。
すぐに狼たちが気づく。人間の身体は原野の疾走には向かない。丘の上へ向かって走ると、すぐに別の狼が飛び出してくる。いや、狼とは違う。鱗状の皮膚、爬虫類か。向きを変えると、地面だと思っていたところはただの深い草、足を取られバランスを失い、ゴツゴツとした岩肌を頭からすべり落ちる。掌から肘へと、血と泥の長い線が伸びる。
さっきの場所から何メートルか下った溝、足元には小さな水の流れがある。見上げると狼の影が見える。溝を覆う草に身を隠しながら進み、その切れ目を見つけ駆け上がると、すぐに狼が僕の姿を見つける。
とにかく丘の上へ。緩やかな斜面はときに大きくせり上がり、行く手を塞ぎ、両手両足を使って丘へと登ると、その先はすとんと下る斜面。狼たちは左右から登ってくる。行くしかない。走り出した次の一歩を草に取られ、僕は横向きにゴロゴロと転がる。ときに大きくバウンドして、なんとか起き上がって……起き上がり、そう、そしてこのまま走って、と思ってもまたすぐに倒れて転がる。
斜面を下りきると、袖に広い血糊がある。身体のどこかから血が吹き出しているのだろうが、それがどこかもわからない。だけど目の前の草原はもう平地。ここを走ればきっと、さっきのひとがいて、気がついてくれる。僕はただ奇跡を信じればいい。
身体を起こして、奇跡へと走り出す。狼たちは僕が走り出すとともに一斉にその鳴き声を響かせる。走っても、走っても、奇跡までの距離は縮まらないのに、狼たちの声はどんどん近付く。額に流れるものを拭うと、袖が真っ赤に濡れる。場所がわかると同時に傷はズキズキと疼きだす。急に悲しみがこみ上げてくる。これでもう死ぬんだ。走ればいい、ただそれだけなのに、胸のなかは死の恐怖でいっぱい。いままでいつも無意識に、明日のこと、この少し先のこと、一歩足を踏み出したときの景色、そんなものを思い描いていたのに、いまは何もない。一秒先が闇だ。時間はどんどん闇のなかへ流れ込んでいく。どこから噛まれるのだろう、どんな痛みだろう、僕は己の肉が削がれる様を見ながら死ぬんだ。
が、狼は来ない。
恐怖に抗って、ゆっくりと振り向いてみると、十数メートル後ろで狼たちは立ち止まっている。どうしたんだろう。何が起きたかわからないけど、僕は助かったのかもしれない。狼たちは示し合わせたようにして引き返していく。
奇跡が起きた。
なんとなく笑みがこぼれて、よし、と振り返り、あらためて一歩を踏み出そうとすると足がもつれる。
気がつくと、膝のあたりまでぬかるみにはまっている。
これはもしかして……。
底なし沼かもしれない。
――だけどすぐに振り払う。
片足を抜いて、一歩進めてみると、重心をかけていた足が更に沈んでいる。もっと慎重に、もっとゆっくりと足を引き抜こうとするけど、更に両足ともぬかるみに沈んでいく。両手両足を使って、ゆっくりと足を引き抜こうと、前かがみになるが、足の自由が効かずそのまま前のめりに倒れる。
だけど底なし沼なんかじゃない。ただの底のない沼だ。
なんとか身体を起こしてみるともう臍のあたりまでは沼に呑まれている。
違う種類の絶望が来た。狼のときは一秒先の未来が見えない絶望だった。いまは何か、ゆっくりとフェードアウトするだけの無駄な希望がある。その希望にすがって足をあげて、ゆっくりと、沈まないように手で身体を支えて、と、何かするたびに希望がフェードアウトしていく。希望はあと五〇センチ。体はもう胸まで沈んでいる。
「助けてー」
無駄なのに。なんでそんな言葉が漏れてくるんだ。いったいだれに向かって。
「だれか助けてー!」
ハーネスには非常用のホイッスルがついていたのに。いまそれが必要なのに。それでも残りの希望を声に変えてみる。
「ヘルプミー!」
なんで英語。
どうせ最初から希望なんてなかったんだ。涙があふれてくる。
「だれかー!」
あと何分生きていられるんだろう。その何分かで僕にできるのは、最後に吐くカッコいい言葉を選ぶくらい。それをだれにも聞かれずに叫んで僕の人生は終わる。
「神様ーっ!」
信じてもいないのに、なんでこんな言葉が。
聞こえるはずないんだ、こんなところで、僕の声なんか、だれにも――
諦めかけたとき、人影が見えた。
馬に乗っている。いや、馬の形に近いけど馬のフォルムじゃない。ひともひとじゃない。衣装は優雅なドレス風で、瀟洒な帽子をかぶっている。その何者かが僕に話しかける。そのひとの喉が鈴を鳴らす。クリスマスに聴いたハンドベルが言葉を紡いでいる。
僕はただ、
「助けてー」
としか返せない。
現れた何者かはどこからかロープを取り出して、その一端を僕の方に投げてよこす。麻か、藁か、自然素材を蝋で固めたロープ。僕の体はもう首まで沈んでいたけど、右手を出してそれを掴んで、左手に巻きつけようとするも体は動かすほどに沈んでいく。もうすぐ口が塞がる。でもこのロープを外したらチャンスはない。最後のチャンスだから。大きく息を吸って、両手でしっかりとロープを握る。もう耳まで沈んで、目も開けていられない。
息を止めて体感1分。早くロープを。早く。
体感1分20秒……21、22、23……なんで数えてるんだ……
1分30秒……無理。無理でも耐えないと……でも。
うっかり鼻から息を吸おうとしてしまうけど何も入ってこない。僕が冷静でも体はパニックになる。もう制御できない。勝手に口が開いて泥の塊が流れ込んでくる。息を吐こうにも泥の圧力で吐けない。肺は泥の塊でもなんでもいいから飲み込ませろと訴えてくる。泥だぞ。泥でいいのか? ああ、酸素さえあれば泥だろうがなんだろうが、って、泥には酸素なんかない――じゃあ、酸素はどこに? いま僕はどこに? 意味のない映像が暗闇のなか無数に浮かび上がる。光が射す。目を閉じてるはずなのに、あたりには景色が浮かぶ。なんだこれは。苦しさがもう消えている。死後の世界? 死んだの、僕は? ピクリとロープにかかりが来て、闇が戻ってきた。僕の手のロープ。僕の手のロープはちゃんとロープを……。ロープは……手を……ロープ……
*
僕は海に浮かんで、波に揺られていた。
七月の初めのまだ冷たい水。時折寄せる波がまた、僕の顔をたたく。潮騒は遠く、とぎれとぎれの夢は、脈絡のない場面転換を繰り返す。足元の深い海に不安を覚えて、夢に縋ると、また波が僕を沈める。深い海の静寂に、ゴボゴボと耳を塞がれて、音のない眠り。アルミホイルのおにぎり。いくつ握って、いくつ食べたか。沈んでは、また浮かぶ。いくつ握って、いくつ食べたか。狼の声に怯えながら、どこかに隠したはずの、おにぎりを探す。潮騒のなかにひとの声をさぐると、また高い波が僕を沈める。
寝起きの頭は、天井の模様にも意味を探す。耳に届く音。どこかでお湯が湧いて、暖炉の薪はパチパチと爆ぜる。風が窓を鳴らして、あとの静けさは、僕の耳鳴り、古屋の匂い。光も、音も、ただ戯れるだけ。でも、これはまだ夢。
蒲郡の祖父の家の古い柱と、羅紗のソファと、二匹のネコ、線香の匂い。蜜柑畑で撮った写真の、前後10秒に貼り付いた記憶。でも、これも夢。目を覚ましたら、そんな景色はどこにもない。ただ、ほんのりと湿った木とホコリの匂いだけが、ずっとそこにいて、僕の体をくすぐっている。
光は、たったひとつだけ、言葉を知っていた。
――おはよう。
そうだった。光はこうやって、言葉をかけてくるんだ。
ガラス窓に射す白い光が、やわらかく空気を抱いて広がって、視覚が目を覚ますと、記憶の糸が一本、また一本とつながる。さっき見た夢の景色が、紅茶に沈めた角砂糖のように消えて、夢はただ、朝のほんのりとした甘みになる。
僕はカウチの上にいた。
その上で裸にされ、ブランケット一枚を掛けられて、横になっている。
そういえば、ペンとノートをエマージェンシーシートに包んで置いてきた。
取材、どうしよう。
寝起きの清々しさを、いくつかの不安が覆うけど、しばらくは空虚な胸がそれを押し返す。不安なんか、育てなければいい。命が助かったんだから、それ以上何も考えなければいい。だって僕は、空っぽなんだから。だけどそう思うほどに僕の胸は空っぽでなくなる。
この大陸に来て、三度死にかけた。
僕を助けたのがだれなのかもわからない。果たして、助けられたのかどうかすらも。
不安はずっとあった。西国分寺のアパートにいたときから。宇宙人がいるかもしれないことも、命を落とすかもしれないことも、何度かよぎった。バックパックに紛れ込まないように、かき集めた荷物で隙間を埋めた、あてのない不安。目を逸らしても、逸らしても先回りして僕を待ち伏せる。体が震えだす。その震えを追いかけて悪寒が広がる。僕はガタガタと、壊れた機械になる。
住人が僕に気がつく。
立ち上がり、僕に迫る。
体は二メートルを超える。
顔の作りはひとに近い。黒目がちの目。口は少し広く、唇は僕たちに似ている。肌の色はベージュから薄紅色、指先にはマゼンタのラメが入っている。髪は長く伸びた羽毛。その色は桜色や紅色、柔らかな暖色系の混合。
体の震えが収まらないなか、しまい込んでいたはずの記憶が意識に上った。
プルームだ。
彼女がまだ、僕の部屋に通っていたころに飼っていたアキクサインコ。
亀戸のペットショップへとでかけた日曜、ケージのなかの彼女を指差したとき、その子はガラス越しにこちらを見て、小さく震えていた。
「プルーム……」
思わず口に漏らすと彼女は――おそらく彼女だと思うのだけど――首を傾げて何か声を掛けてきた。だけど、意味などわからない。でも、あのとき僕が掛けた言葉が、いま返ってきているのだと思う。
――だいじょうぶ、こわくないよ。
それでも、瞼とは別の半透明の膜が横向きに瞬きして、その手や足が少し動いただけで、僕の身体は反射的に身構える。
薄紅色の個体と、その後ろにはオレンジ色の個体。薄紅色がゆっくりと手を伸ばし、カウチから飛び降りようか、その手を払おうか、思考を駆け巡らせても、体は震え、手も足も思い通りには動かない。薄紅色の指が、ゆっくりと目の前に迫る。その指は恐怖が作り出した幾重もの壁を破って迫り、僕の戦慄を頂点にまで高める。だけど次の瞬間、それが僕の頬に触れる感触は優しい。意味もなく涙がこぼれ始める。僕のなかに膨れ上がっていた恐怖は、花びらになって四散して、その緊張からの落差のなか、気がつくと僕は失禁していた。
オレンジの個体がすぐに奥へ消える。
薄紅色のプルームは何か囁きながら僕の前に出る。
震えが収まらない。震えは僕の頭からすべての思考を篩い落として、後頭部から眼窩へと抜ける痛みとなる。
奥からオレンジが棒の先に布の塊がついたものを持ってくる。ふたりの囀り合う声。甲高い鳥の鳴き声。その奥には、アルトの歌声が交じる。気を取られていると薄紅が「ひゅぴ」と言って僕を抱きとめる。ブランケットを下ろし、それで少し股間から足のあたりをぬぐって、胸に抱え上げる。
突然のことでなすがままになるしかなかった。気がつくと、震えは止まっている。僕はその鎖骨のあたりに捕まって顔を収めた。怪物だと思って見ていたマゼンタの肌は案外柔らかく、その奥にはぬくもりがあった。
「プルーム……」
僕が呼ぶと、「ひゅぴ」と答える。
「プルーム……」
「ひゅぴ」
髪の毛は薄紅色の鳥の羽根。肩のあたりから背中のあたりにかけても同色の羽根が重なり、肩越しに彼女の息遣いが聞こえる。
鳥から進化したひとなんだ。
本当に、大きくなったプルーム――彼女とふたりで飼っていたアキクサインコに抱かれているようで、あの頃のあの部屋の匂いが鼻先に蘇る。でも不思議だ――
あの部屋を思い出すと、何度も吐きそうになった。
その吐き気が、いまは無い。
恐怖と、不安と、喜びと、異質な感情が同時に喉を駆け上る。
彼女の亡骸を見つけたシャワールーム、その先のことは真っ白で何も思い出せない。どうやって救急車を呼んだか、その日だれに会ったか。思い出せるのは、そのあとの泣いて暮らしていた日々だけ。
些細な思いつきで、こんなに遠くまで来てしまったけど、それでもまだ、彼女が行ってしまった場所に比べたら。浮遊大陸だって、どんな宇宙の果てだって、生きてるじゃないか、僕は。
日が落ちると、暖炉はぼんやりと明るく見えた。
箱のなかにいて、やることもなく、考えることもなく、ただ変な焦りばかりを胸のなかに走り回らせていると、プルームが暖炉の火を落として、灯りを手にして僕の箱に近づいてきた。その火が照らすぼんやりと明るい空間が揺れながら、柱の影、机の影を背後にくぐらせると、プルームの背後には闇が蓄積し、暖炉のあたりにだけかすかなオレンジ色の灯りが残された。
プルームはキャビネットから毛布を取り出す。包まっていた毛布の更に上に、ランタンの灯りで柿色に見える毛布をかけて、たぶん彼女の言葉で、
「おやすみ」
そう言って、二階に上がっていった。
その足音、階段の踏み板の軋み、ランタンの灯はカーブを描きながら階段を上り、角を曲がり、ゆっくりとその照度を落としていく。二階のカーペットを歩いて、ドアを開いて、閉じる音。その先はもう、何も聞こえない。
外にはまだ満月に近い大きな月が出ている。窓の傍だけは部屋の闇も三角に切り取られ、あとは虫の声すら無い静寂。首輪もないし、逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せる。外には外の不安はあるけど、ここにいる不安がいつかそれを勝ったら、そしてもう少し体力が戻ったら。
でもそんな悠長な時間が、僕や地球にあるかはわからない。
そしてなんとなく、「おやすみ」を返しそびれたことを後悔している。
明けて朝、いつだったかの清里のロッジと同じ、薄衣のレースに梳かれた朝の光、湧水で洗った風、湿った床板の匂い、そんなものを思い起こしはするけど、あまり清々しくない朝。そういえばあのときも、前日の強行軍、深夜までの酒で、いうほど清々しくはなかった。たとえばここが、編集部のリフレッシュルーム――元喫煙室だったら、僕と部屋との温度差もなく、すぐに淀んだ空気に溶け込んでいたのに。清々しい朝。余白の時間。無駄に伸びなどして、夜のうちに結晶化した疲労が溶けるのを待っていられる。
ホールの丸い壁の、カーブした階段を覗いていると、モノクロの色をした二羽の姿が目に入る。そして僕に何か声をかけていくけど、「おはよう」以上の意味はなさそう。
次にシナモン色、ヒゲの生えた個体と、階下へ降りてきて、同じように声を掛ける。
次にオレンジ。僕の頭を撫でて、頭の上に顎を置いて、顎関節をカクカクさせる。
二階の扉が開く音。あとはプルーム。
どうしてときめいているんだろう。
箱を飛び出して、ブランケット一枚を纏って階段の下に立つと、次の瞬間には、光を散りばめた映画のワンシーンのように、プルームと目が会う。
「おはよう、プルーム」
プルームも何かひと声かけて、僕をブランケットごと抱きかかえてソファへと連れて行く。そしてソファに横になって、僕の脇を抱えて宙に掲げ、ふっと僕の身体を離し、少し落下しかかったところをまた抱きとめて、そのまま抱き寄せる。長い夜の静寂から引き離されてようやくひとの肌に触れるのは、こんなにも心を震えさせるものなんだ。
でも待って、プルーム。
「トイレに行ってくるの忘れてた」
プルームは仰向けのまま、もう一度僕を高く掲げて、少し落として抱きとめる。
ごめん、プルーム、いまそんな場合じゃない。
体を捩って、気を悪くはしないかと余計な気を使いながらプルームの手を逃れて僕のために用意されたトイレへと走る。その後をプルームもついてきて、僕がトイレに座るとプルームも目の前に座る。こうなると出る寸前に思われたおしっこが出ない。目を逸して、そのまま瞑想でもするかのように心を無にする。
――無心。うちの爺ちゃんがチャリンコで高速を走ったときのあの気持ち。
戸惑っているとプルームはキャビネットの上に置かれていた僕のボウルを持って奥へと消える。きっと朝食を持ってきてくれるんだ、だったらいまのうち。高速の爺ちゃんを全力で走らせて、なんとか排尿を済ませると、ふんわりと朝の清々しさが降りてきた気がした。
玄関のベルが揺れる。
この音を僕はどこかで聞いたことがある。それに続く来客の声も、胸のなかのどこかに、小さく書き込まれていた。
玄関先でプルームが話す。小さな荷物を受け取って、プルームは僕をソファから下ろして、ブラッシングを始める。そういえば日本を発った後はバタバタしていてしばらく髪を洗ってない。プルームが僕の髪の匂いを嗅いで、咽る。続いてオレンジも。臭いなら、嗅がなきゃいいのに。
昨日の今日なのに、何度か揺れる玄関のベルの、その一回ごとに、僕の警戒心は抜けていた。彼女らが僕に優しいから。あるいは僕の下心もあると思う。なんとなく、彼女らの手が身体に触れることを期待している。
プルームは僕の顔を両手で掴んで、親指で目やにを拭う。毛布を取って、オレンジとふたり、ピイピイ言いながら僕に服を着せてくれた。ここに来るときに着ていた服ではなく、下ろしたての別の服。
ボトムは三重にフリルがついた少しゆるめの白いパンツで、前が開いてない。下着もなしに履かされて、少しチクチクしたけど、前が隠れていると安心感がある。靴はぶかぶかのモカシン、上着はレース紐のグレーのチューブトップ。その上に薄いピンク色の提灯袖のジャケット。フロントラインには小さな白いフリルの縁取りがあって、丸い前裾、ギャザーポケット。
着せ替えが終わるとふたりで僕の手を引いて三階まで駆け上がる。
三階の一室に撮影セットがあった。昔ながらの大きなカメラ。カメラは地球のものと同じ。プルームはその場で着替えだして、ゴシックのドレスを着て、僕を隣に立たせる。髪を直して、控えめにポーズをつけて、困ったことに、その仕草にときめく。僕にもいくつかポーズを要求して、それを見てると、この子ずっと犬を飼いたかったんだなあって……犬じゃないんだけど、でもちょっと、気持ちが和らいで、彼女が僕をギュッと抱きしめたドラマチックなショットでは、僕もなんとなく顔を作ってみせた。
そのうちオレンジも着替えて、セルフタイマーで写真を撮った。
照明の熱がシャツに汗を浮かせる。紅潮した頬。
撮影を終えて、照明を落として服を脱いで、窓を開けた。
そのあと外に出て水場で汗を流して、プルームと、オレンジと、それから僕と、順番に髪を流して、これってもしかして青春とかいうやつじゃないかなんて思った。
夜はただ暗くなるだけの時間だと思っていたのに、ここの夜にはじっとりとした厚みがあった。テレビもネットもないし、読書する本も、時計すらない。眠りだけが夜の不安から僕を解き放つけど、その眠りですら闇の海に浮かんだ小舟、海の底には巨大な影が息を潜めている。西国分寺で過ごしていた夜は、ただその浜辺に戯れただけ。好きな時間までネットを見て、外の空気が吸いたければコンビニに行けばよかった。いまはまるで死の静寂。それが身体に染み込んでこないように、震えながらうずくまる。
時間すらわからないなか寝付けずにいると、二階から足音が聞こえた。それだけで僕の心臓は高鳴る。箱のなかで顔を上げて待っているとプルームの顔が覗き込む。
プルーム!
プルームが来てくれた!
彼女は毛布ごと僕を抱きかかえて、二階へと上がる。何か話しかけてくれているのに、僕には何もわからない。
部屋に入って、枕元のテーブルにランタンを置いて、僕をベッドに寝かせて灯りを絞る。ベッドからはプルームのほんのりと甘い香りがする。すぐにプルームも横になり、僕の肩に手を乗せる。僕も少しだけプルームの肩に手を回してみると、プルームの肌は昼間と少し違う。硬質でエナメルのバッグのようだったところがぜんぶ羽毛に変わっている。羽毛の隙間からは、陽に干したタオルの臭い。
プルームは小さな声でずっと何か話しかけてくる。僕も何か話したいけど、何を話せば良いのかわからない。クッキーが美味しかったこと、外が少し寒かったこと、転んで痛かったこと。犬が体験するようなことしか体験できてない。
目の前にあったプルームの手を取って僕の頬にあてると、それは柔らかくて大きい。僕の手よりもふたまわりも。プルームにとって僕はペットの犬。だけどいまの僕にとって、プルームは飼い主以上の何かだ。手首のあたりが唇に触れると、舌先にほんのりとした甘みを感じる。そうか。甘いんだ、プルームの汗は。
濃密な夜は寂しい。小さな灯りに照らされたベッドは深い海溝の底の潜水艇。周りは一〇〇〇気圧の静寂、見知らぬ深海魚が泳いでいる。プルームの寝息、沈むように眠りに落ちながらしがみつくと、彼女も僕を抱きしめる。
恋人同士の夜。
暗室の黒いカーテンのなかで、お互いの体温と呼気だけを感じて、その魔法のような眠りのなか、朝は駆け足で訪れる。
隣で寝ているプルームを見ると、本当にすっかり鳥。起きてるときは髪の毛が鳥っぽい他は、トカゲのようにも見えていたのに。ふんわりとした羽根がたっぷりと空気を含んで温かい。羽根を少し逆撫でしてみるとその下に、柔らかい皮膚が見える。ひとの肌より、更に柔らかい、薄紅の肌。
体温もいまのほうが温かく、二の腕も腹部も柔らかい。腕枕した僕の頬は羽毛に埋もれる。プルームは静かに寝息を立てている。唇は果実。僕の喉はそれを求めるけど、駄目なんだ、これは。迷い込んだ彼女の秘密の庭に、たったひとつ実った果実から、静かに後ずさる。
「プルーム、朝だよ。どうする?」
プルームはゆっくりと目を開いて、「ひゅぴ」と声を出して、僕の頬にキスをする。
そのときめきが、スローモーションで胸のなかに広がる。
ベッドの上でプルームが身体を起こすと、まくれ上がってた袖がするりと下がる。身体を揺すって伸びをすると、広がっていた羽根がみるみる閉じて肌に密着し、首筋や腕がメタリックな光沢を放つピンク色に戻る。
僕は、子犬のように震える。
起き上がってクローゼットに向かう姿は、どう見ても性的興奮を覚える対象じゃない。数十センチの上背、背中の肌はエナメルで、筋肉質で、外見はどう見てもトカゲ。哺乳類には当然あるべき子に給餌する器官もない。僕が勘違いしてるだけで雄かもしれないし、それがわかったところで種が違えば性別なんか関係ない。彼女らはいうなれば鳥族、エイヴィアンであって、人類とは違う。
それなのに、彼女が寝間着を脱いで、羽根を全部開いて、朝の空気を含ませて、またその羽根を首から背中、太腿、足先まで閉じて、メタリックな色彩が全身を舐めて駆け下りると、それだけで息が止まりそう。
自分の胸のなかのときめきの色が見えるよう。
彼女が開けた窓から、リボンのように煌めく冷たい空気が幾筋か流れ、風は僕の肌に残るぬくもりを悪戯に剥ぎ取るけど、でもその風が彼女の羽根の髪をはためかせて、その一本が振り向いた彼女の唇に触れると、それを見る僕の胸のなかでいくつもの鐘が打ち鳴らされる。
人生で幾度かだけ訪れる、天使たちのときめきが駆け回る。
だけどちがう。恋じゃない。恋なんかじゃないと思う。
もう恋なんかしないって決めたんだ。
それは、恋人を自死で失ったものの胸のなかに残る、普遍的な感情だと思う。
なんどもなんども忘れようとしたけど、いまになって忘れちゃいけないような気がして、あの頃のこと、あの頃に聞いた音楽、いっしょに見たドラマのことを思い起こして、せめて僕のなかからは、彼女の姿が消えないようにしているのに、まさか恋だなんて。しかもこんな異郷の地で。生まれた星も異なる、異種族のひとに。
第七章 浮遊大陸レポート(2)
小さく膝を折りたたまれて、後ろから抱きしめられて、目を覚ました。
プルームの体温は高く、僕はベッドのなかでびっしりと寝汗をかいていた。
振り向くとプルームの顔があって、寝息にはほんのりと穀物の匂い。
「起きたよ。プルーム。ねえ。目を覚まして」
この屋敷へ来て五日、あるいは六日。メモを取れるものもないし、記憶だけだと時間の感覚は怪しい。毎日一回散歩に行くときに、小石を拾ってきて壁沿いに置くようにしているけど、それを始めたのは三日前。それがこちらへ来て何日目だったか。
屋敷の前には小さな湖があった。湖といっても井の頭公園の池と同じくらい。池と呼んだほうが良いかもしれない。ほとりを辿るとくびれがあり、そこには橋がかかり、その向こうはまた少し広がって、その先はちょろちょろとした細い川につながっている。
ほぼ井の頭公園だ。
なんてことを思って、その先の川を『神田川』、屋敷の裏の草っ原のあたりを『自然文化園』と名付けた。紙とペンがあれば地図でも描くことができるのに。湖の向こう側には街道があって、これが井の頭通り。おそらくそこを西に行けば立川あたりに大陸の端がある。
犬としての生活にもずいぶん馴染んで、トイレで大をしたあとにお尻を洗ってもらったり、首輪をつけてちゃんと歩調を合わせて歩いたりできるようになった。もちろん、お手も、おすわりも。
散歩は楽しかった。
首輪はつけられたけど、犬のように裸足でもない。服だって着てる。
馬車に乗るときはちゃんと座席に座れたし、ときどきはプルームが抱いてくれた。
プルームは僕の頬に手のひらを這わせる。
窓の外に流れる景色が、その瞳に映る。
糸杉にも似た紡錘形の木がぽつりぽつりと並ぶ砂利道を、馬車は走った。
古民家の庭先、木製のプランター。鉄製の柵に巻き付く蔦と、花に塗り分けられた庭。薄い石を何枚も重ねた塀は、そのまま橋の欄干へとつながる。ところどころ顔を出す木の根に車輪が跳ねて、しばらく行くと路面は石敷の舗装に変わる。カラカラと車輪の音を聞きながら、流れる風を髪に掬うと、その風の先にひとの姿が見えた。
馬車はゆっくりとその人影を追い越す。
そのひとは僕と同じように首輪をつけ、すれ違う刹那、僕を見上げた。
日本人には見えないけど、人間であることに疑いはなかった。
思わず窓から体を乗り出すとプルームが僕を抱えて、膝の上に乗せる。
「待って、プルーム! だってひとが!」
先の角を曲がり馬車を留めて、プルームたちは目の前の店に入るけど、僕はキョロキョロとさっきのひとを探す。僕と同じようにこの大陸に上陸して、そして保護されたんだ。入った店は花屋のようだけど、僕はずっと窓の外を見ていた。気持ちばかりが先へ行く。
外に出ると、別のひとが鎖をかけられて歩いている。
これでふたりめだ。いったいこの大陸で何が起きているんだ。
目が合うけど、向こうからは興味を示さない。
「あ、あのう……」
どう声をかければいいんだろう。英語で話したほうがいいのかな。
「アイ・アム・ア・ジャパニーズ・ジャーナリスト!」
声を出してみたら、向こうの飼い主が足を止めた。
プルームも足を止める。向こうのひとは飼い主の顔と、僕の顔を交互に覗き見る。
「こんにちは……ええっと……」
何を話せばいいんだ。
お散歩ですか?
今日はどちらから?
ステキな首輪ですね?
ちがう。どれも違う。話のきっかけがわからない。
「……ええっと、いつからそんな感じなんですか?
あー、ハウ・ロング・ハブ・ユー・ビーン……ええっと、ウィズ・ユア・マスター?」
何を聞いているんだろう僕は。これじゃ犬同士の世間話だ。いや、世間話にもなってない。本当はここから逃げ出すことを切り出さなきゃいけない。冷静に話なんかしてる場合じゃない。なのに、どうしてこのひとはにこやかに笑っているんだ。
「あの……なんかこう……、僕たちすごい、ペットっぽいじゃないですか?
アイ・グエス・ザッ……アー……ウィ・ルック・ライク・ペッツ?
ドンチュー・フィール……違和感?
……違和感ってなんて言うんだ」
違う。違うな。英語にしようと思うから変な日本語しか出てこないんだ。
もっと自然に……自然に……。
「こんにちは!」
そう、一言目はこれでいい。
「すごい、犬っぽいですね!」
あ、いや、ええっと……
「なんか、すごいですよねー。受け入れてますよねー。だってほら、笑ってますよねえ。余裕だなぁ」
なんだこの会話。
「てゆうか、違和感とかないですか?
失敗したー、みたいな?
せっかく浮遊大陸に渡ってみたら……これかー、みたいな」
田中先輩、教えて下さい。このケースで僕、なんて言えばいいんですか?
正直言えば、大声で叫んで駆け回りたい。何もかも破壊したい。なのになぜ僕は、なんのダメージもないフリを装ってるんでしょうね? 気が狂れたいんですよ、僕は、今すぐにでも!
それでも――と、次の話題を切り出そうとしたところで、向こうの人は飼い主の後ろにすごすごと隠れた。
「あっ、ごめんなさい」
反射的に謝った。
「アイム・ソーリー……バッ……」
次に合う約束を……いや約束したってしょうがないし……でも……
言葉を探しているとリードを引かれて、向こうも飼い主とともに歩き去る。
ていうかプルーム!
これって何!?
いまの僕は犬っぽいと思う。人間を0、普通の犬を100とすると、20くらいの犬度はある。おそらく昨日は10だったし、その前は0だった。じゃあ、あと8日もしたら、僕は犬になるの?
歩いているとまた別のひととすれ違う。エキゾチックな雰囲気のある女性。すれちがいざまに僕の顔に鼻を寄せて、リードを引かれて引き離される。広場に出て、プルームとオレンジは屋台で食べ物を買って、ベンチに座って、ふと気がつくと向こうの方で飼われたひと同士が交尾をしている。プルームたちも気がついて指差してクスクス笑うけど、笑い事じゃない。正直、彼らがうらやましい。交尾が? そうじゃない。犬の生活を謳歌してる彼らが羨ましい。もちろん交尾だって。いや、交尾は関係ない。
僕がこの大陸に来たのは、大陸出現の二週間後。それからまだ数日しか経ってない。一日で10%ずつ犬度が進行するとしたら、彼らは10日前に上陸して飼われ始めたとすると辻褄が合う。……いや? 辻褄? なんだそれ。
プルームから食べ物を分けてもらった。バンズに挟んだハンバーガーのようなものから野菜の部分だけ抜き出して、ベンチに乗せて、「食べな」って言うから、しょうがなく食べた。酸味と甘味とで味付けられた苦味のある葉っぱ。美味しいとも不味いとも言えない。きっとあのバンズごと食べたら美味しいんだろうなと思った。
顔を上げると、交尾していたカップルのオスの飼い主だけ帰って、メスのひとがこちらを眺めていた。僕は必至に心を殺したけど、これがこのまま僕の日常になるのかと思うと、やるせなさでいっぱいになる。
ハウ・ロング・ハブ・ユー・ビーン・ヒア?
ホエア・ドゥ・ユー・リブ……あー、イン・ズィス・タウン。
彼女にかける言葉を、胸のなかで探した。眼と眼が引き合って離れない。プルームが立ち上がって、あの子のとこに行ってくれないかなって、何度もチラ見した。
マイ・ネーム・イズ・ケン・テルイ。ジャパニーズ・ジャーナリスト。
さっきのひと……さっきのひと……ザット・マン・イズ……ええっと、
イズ・ザット・マン・ユア・ラバー?
彼女が、空を見上げた。
空? 僕もその視線を追う。
その先には、黒い巨大な軟体動物の姿があった。
二〇本以上の脚? あるいは触手を持つ、タコのようなものが空に浮かんでいる。
大きさは学校の校舎ほど。その頭頂から脚の付け根へ向けて、磁力線のような縞が空中に現れている。微振動が伝わる。空気はゆっくりと低い波動を奏でる。
「プルーム、あれはなあに?」
思わず口にして袖を引いてみるけど、プルームもオレンジもそちらに釘付けになっている。公園にいるひとたちも振り仰ぎ、駆け出す人もいる。プルームが立ち上がり、僕を抱えて走り出す。
いったい何が起きてるの? いや、何がこれから起きるの?
馬車に駆け込んで走り出す。
背後に空気のうねりを感じる。何かまずいことが起きる。
プルームは手の甲のあたりに光のパネルを開いている。モニターのよう。何かの表示を見て、音声で操作している。それは、何? 何をしているの?
巨大なモーター音のようなものがどんどん大きくなっていく。
空全体に縞模様が広がる。
次の瞬間、周囲が闇に包まれて、大気のうなりが消える。
一瞬、重力も消えた。
すぐに闇は消え、縞模様のない明るい空が戻ってくるが、馬たちはまだ興奮気味で鼻息を荒くしている。オレンジが御者台を降りて、背後の空を仰ぐ。キャビンの小窓から見る空に、さっきの漆黒の軟体動物は消えていた。
プルームは僕をギュッと抱きしめて、大丈夫だよ、何も起きないから安心して、って小さな声で繰り返した。彼女は僕に手首を差し出す。いつの間にか僕は、彼女の手首の内側、肘の内側をペロペロ舐める癖がついていた。彼女も舐めると僕が喜ぶことを知って、自分から差し出してくる。肘の内側の羽根は短く、僕の唾液で黒ずんだ線になる。
犬だ、僕は。
屋敷に戻ると、階段ホールに置かれた箱に、木で組み立てた人形のようなものを転がされた。犬用のおもちゃだ。さっき何件か回った店のどれかで買ったんだ。これで遊ぶことを期待されてるんだ。
僕はこのまま、犬を続けるんだろうか。
そう思いながらも僕は、自分の愛らしさを利用して、食事と安全とを貪る。だけどそれ以上に貪るのは、体に触れられる喜び。彼女らの手が僕の顔、僕の背中、僕の腹に触れることが嬉しい。もっと触ってほしい。いまの僕には、触っちゃいけないところなんかない。プルーム、きみがたった一箇所だけ触れることをためらっているところに、僕は触れてほしい。
犬用のおもちゃは、ロボットにも、人形にも見え、匂いから察するに味がついている。認めたくはないけど、おそらく、僕はそれを好きだと思う。犬になってしまうことには拒絶感がある。そんなのは当然だ。受け入れられるはずがない。だけど、犬でいるのは楽だった。
犬が入れる部屋は限られていたけど、プルームの部屋だけは僕のために、常にドアストッパーが挟んであった。ひとりでそのベッドで横になると、ベッドに染み付いた彼女の匂いが、僕の胸を締め付けた。
もうこのまま彼女の犬でいい。腹を見せれば彼女が触れてくれる。取材なんかもう、どうでもいい。だけどたまに、足先から駆けあがり、胸に飛び込んでくる不安がある。
夏休みの宿題に手を付けずに、お盆を過ぎた時にふと過る感覚。西瓜の種をならべた皿の上に見ていた、漠然とした不安。世界に危機が迫っているのは確かで、日本でもいろんなところが水没して、死者だってたくさん出てる。本当は焦らなきゃいけないのに、自分のなかにはもうその危機感を組み立てられない。たまにおかしな現象を見ても、「山で入道を見た!」というのと同じ。どこにもその思いが腰を下ろす場所はなかった。
学生最後の夏、事故で入院してた頃は、見舞いに来てくれた高山さんによく話を聞いてもらった。
「ふとした時に訪れる不安のせいで、おかしくなってしまいそうなんです」
相談というか、不安というか、それを吐き出してないと落ち着かなくて。
「大丈夫ですよ、照井くん。若いんだから、なんでも出来ますって」
田中先輩よりは前向きだけど、中身のない返事。
「退職してからしか、好きなことなんてできませんよね」と、聞いたら、
「好きなことを見つけないと、退職後はやっていけないんだよ」って。
僕はあの笑顔からこぼれる成功者の人生の一片に、勇気づけられたり、やり場のない妬みを感じたり。あの頃の退屈と、そして不安。
春から就職するはずだった会社のひとがお見舞いに来て、なんとなく落ち込んでたせいで、辞退しますって言ってしまって、なのに春にはすっかり元気になって、その後の一年の、空っぽなあの空。
サンルームから見える空は、あのときと同じ。扉はよく開けっ放しになっていて、ここを出ようと思えばいつでも抜け出せる。湖の北にある街道を西へ二〇キロも行けば、この大陸の端までは行ける。そこからピンゲラップ島まで三〇キロ。たった五〇キロ。
若いんだから何でも出来るなんて、たぶん嘘だ。
でもそう言うと高山さんは、「嘘じゃありませんよ。だって照井くん、ここに来てるじゃないですか。もう大冒険は始まっているんですよ」って言うんだ、きっと。
こんな絶望のどん底にいても、あのひとの言葉を思い出すと、前を向ける。自然と笑いもこみ上げてくるし、同時に涙もぽろぽろとこぼれてくる。
生きなきゃいけないんだ。
いつか彼女に会う日のために。
僕はただ、思いっきり突っ走って記事を書くだけでいい。その先には田中先輩が待っていてくれる。先輩のところにたどり着けなくても、天国で彼女が待っていてくれる。僕にはもう、失敗なんて道はない。
そうやって前を向くと、高山さんは僕の肩を叩いて、
「じゃあまた、元気で会いましょう」
って、言ってくれた。
しょうがないけど、もうしょうがない。
――ええ。やれるだけのことはやってみます。
あの日と同じ言葉を口にしてみると、気持ちが楽になった。
この屋敷へ来て、ここまでのコミュニケーションはたいがい失敗してきた。
たとえばソファの背に何か描いたときのこと。外に出て地面に足で何か描いたときのことも。決まってオレンジが消して、そういう遊びだと思われてしまってるけど、そこそこ面白い記事になるし、良いフックになる。
言葉はといえば、なんとなく彼女の声を真似してはみたものの、動画サイトで見かけるセキセイインコ以下の出来栄えなのか、特に興味は引けなかった。
歌を歌うと、彼女らもそれに合わせて歌を歌ってくれて、手応えはあるけど、冷静に考えると何も伝わってない。
あるいはボディランゲージ。好都合なことに『待て』は向こうに対しても通じている。彼女らと遊んでいて、くすぐられそうになったときに『待て』をすると、ちゃんと待ってくれる。ただ、『待て』しか伝わらない。
こうやってコミュニケーションを取ろうとしているとき、瞬間的にはものすごく盛り上がる。だけど、その後ひとりで憂鬱になってる時間が辛い。よくよく考えると、僕をセキセイインコ以上のもの、犬や猿以上ものと彼らに知らしめる方法って何もない。象やアシカが絵を描いているのをテレビで見たことがあるけど、それとどう違うんだろう。人間って、他の動物とどこが違って人間なんだ。セキセイインコと犬とアシカを足しても人間にはならないけど、僕がやってるのはそういうことじゃないか。
仕事でもそうだった。いままで何度も無駄な企画を立てて、無駄な記事を書いて、本来ならこなせてるはずの仕事の手を止めてきた。没になった記事はやまほどある。いまやってるのもそれなんじゃないかって。
「タンポポ生えてんだよなあ、お前の記事には」
田中先輩にはよく、そう言われた。
「リアルな記事もいいけどさぁ、夢を求めてるんだよ、読者は。厳しい現実を書くんだったら、それを変えるにはどうすればいいか書かないと、金払ってまで読もうなんて思わねぇよ」
わかるんですよ。それは。
僕が書かなければいけないのは、どう転ぶかじゃない。どう立ち上がるかだって。
でも、自分のなかでなにひとつ考えがまとまらない。
だって、人間だったら人間になろうなんて思わないし。
実際に、人間になろうという思いは、ますます僕を犬にしてしまっていた。
こちらに来て見聞きしたことを頭のなかで箇条書きにしても、3~4項目も書いたら古いものは忘れる。
干した虫の入った食事、交尾してたお姉さん、タコの化け物、フレアの手の甲のモニター……交尾してたお姉さん。
明日はこの記憶が3つになって、明後日はふたつになる。
いつかお姉さんだけが僕の意識に残ったとき、僕はきっと犬になる。
だったら、僕に必要なのは筆記具だ。
書かないと僕は、犬になってしまう。
そうなんだ。僕は犬である以前にジャーナリストなんだ。取材だと思えば、僕は無敵だ。まだ忍び込んでいない部屋がいくつかある。そこに侵入できれば、何かが拓ける。それにいまの僕はジャーナリストである以前にペットの犬だ。何が起きたって、所詮は犬がしでかすイタズラで済む。月並みな言い方だが、善は急げだ。善は急げ。先輩がバカにしそうな言葉なのはわかってる。
翌朝、その日は朝食の時間から、ヒゲの傍に寄り添って懐いたふりを装った。
頭のなかではもう記事を書き始めている。
書き出しはこう。
――その日、ヒゲの部屋に潜入、いまその入手したばかりのペンでこの記事を書いている。
膝にまとわりついていると、ヒゲはその指を僕の頭から顔、顎へと這わせる。
――こちらの想定通り、ヒゲは僕に心を開いてきた。オレンジもシナモンも、あのそっけないモノクロの二羽でさえ、この方法で部屋まで連れて行ってくれた。
ヒゲが口に運ぶ料理に顔を寄せて、口を開いていると、プルームに戻される。
膝の上に乗せられて、
「あなたのごはんはちゃんと装ってあげたでしょう?」
と諭される。
しょうがなく、僕はヒゲの食事の進み具合を見ながら、自分のボウルの食事を平らげる。もうひとつのボウルにプルームが水を入れてくれる。オレンジは食事を終えて、自分の食器を片付け始める。僕は少しだけ水に口をつけて、ヒゲの動きに目を光らせる。
ヒゲがフォークをテーブルに置く。椅子を引いて、立ち上がり、ボウルを重ねると、モノクロのどちらかがそれを盆に移して、ヒゲは少し言葉を交わして、その場を離れ、階段のあるホールへと向かう。
ヒゲが視界から消えたあたりで、僕は自分の箱を目指すような素振りでその後を追う。ヒゲは二階へと向かっている。二階で何をしているかは知らない。僕も階段を駆け上がり、ヒゲの後に続いてドアの隙間に体を滑り込ませる。
次の瞬間――重力のない闇が僕の周囲を駆け抜けて、僕は――
――僕は、ガラス張りの上昇中のエレベーターにいた。
思考がぼろぼろとこぼれ落ちる。
それまで網膜に写っていた田舎屋敷は剥ぎ取られ、異質な光景が目の前に広がっている。いや、普段の生活からすればむしろ異質さはない、見慣れたテクノロジー、その先にあるであろう未来、僕が異星人に期待した通りのものがある。
ある?
なにが?
理解した先に、それはまた、問を返してくる。実のところ僕は、何も理解していない。意味のない景色が流れていく。ヒゲは振り向いて僕を見るが、僕はその状況に戸惑う。
部屋の奥行は長く、前後に扉があり、渡り廊下のようにも見える。左右はほぼ全面がガラス張り、眼下には都市らしき景色。そのエレベーターはまもなく停止するが、扉は開かない。ここが何なのかはもうわからない。足元は素材不明の弾力のあるフロア、天上は四角く区切られ、一面に柔らかな光をたたえている。
「ここはどこ?」
思わず口に漏れる。
窓に張り付くと、都市が見える。東京に比べればまばらなビル群、そのビルの形は有機的で、通りに車は少ないが、八車線ほどの広さがあり、その両側の広場だか歩道だかわからないスペースにひとが行き交い、店が開く。ヒゲが僕を捕まえようとするが、もう少し待って! その手をすり抜けて、廊下の奥へ行こうとすると、襟足に何か冷たいものを当てられて、全身の感覚がなくなる。
足元が崩れる。
耳鳴りだけを残して、音が消える。
ヒゲは倒れかける僕の首を掴んで、そのまま引きずっていく。
体がピクリとも動かない。声も出ないし、音も聞こえない。
何が起きたの? 僕はどうなったの?
来た方へ戻って、ドアを開けた先にあったのはヒゲの部屋だった。来た時は屋敷の二階の廊下からつながっていたのに構造がおかしい。そう考えている間に僕はテーブルの上に横たえられる。感触の消えた皮膚の奥に、ほのかに残った感覚がある。テーブルに置かれたときの、背中への圧迫。腕や脚を握られ、無造作に伸ばされる。聴覚に響くのは、僕の体を通して内耳へと伝わる骨の音。
空中にモニターを開いて、ヒゲは僕の眉間、喉、右の肩、左の肩とペンのようなものを当てる。視界の隅にそれが見えても感触はない。まるで死体か人形。力の抜けた僕の体を片手で持ち上げ、モニターを見ながら両臀部も同様に。そして不意に僕のシャツを捲くりあげ、臍にペンを当てる。モニターには僕のウエストの断面図が表示されている。僕の正体が調べられている。このひとなら僕が地球人だって見抜くかもしれない。だけどそれは期待じゃない。忘れていたけど、僕は彼らにとって、正体不明の異星人なんだ。
「殺さないで」
胸のなかで紡いだ言葉が、喉に上がらない。
感覚のなくなった四肢が持ち上げられ、鼠径部、太腿と、皮膚の深部に圧力は感じても、何をされているのかわからない。もしこの状態で解剖なんかされたら、痛みも感じないうちに僕は死んでいく。自分の体が切り刻まれる様子を目に、死の恐怖だけを感じながら。
四肢のどれかがテーブルに投げ出されて、その音が骨を伝う。
次の瞬間、体内に熱を感じる。同時に、内臓の奥から感じる圧力。吐き気がする。下腹部から肺まで、すべての臓器が引き出されるかのような感触。内臓に感じる熱は、冷感に変わり、チリチリとした音が骨を伝う。
――殺さないで。
僕の体はいまどうなっているの? 手足はまだ僕の体につながっているの?
殺さないで。殺さないで。殺さないで。
恐怖ばかりが胸に広がるなか、呼び出し音が鳴る。空中に別のモニターが開く。僕の視界のぎりぎり。そのモニターにはプルームが表示されるが、監視カメラの映像のように斜め上視点。ヒゲが何かを話すとプルームもそれに応え、同時にカメラはプルームの正面に回り込む。プルームは部屋を出て、廊下へ。カメラは切り替わりプルームを追う。ヒゲの部屋の正面、そして部屋に入るなり、ヒゲと口論を始める。
ヒゲはプルームに、僕のことをどう説明しているんだろう。
犬として飼うべき存在じゃない、これは地球人だ、と?
言わないで――プルームには。
プルームには僕が地球人だって、言わないで――
プルームはどこかからペンを取り出して、僕の眉間にあて、そうすると僕の全身の感覚が戻ってきた。そして僕を抱き上げて、足早に部屋の外へと向かう。言葉は通じないけど、プルームが憤っているのがわかる。僕がいなくなったのを知って、連れ戻しに来てくれたんだ。
そして僕は、プルームに地球人だとバレなかったことをホッとしている。
僕はどうしたいんだ。
コミュニケーションを取るとして、僕は僕をどう説明すればいいんだ。
僕が少し混乱して、怯えているのが伝わったんだと思う。プルームは僕をソファに置くと、ほっぺたを捏ねながら優しい声でたくさん語りかけてくれた。そして思いついたように階段に連れて行かれて、額縁を指差す。何かと思ったら、この前撮った写真が飾られていた。プルームがドラマチックな感じで僕をぎゅっと抱きしめた写真。僕もちゃんと顔を作って、ポーズなんか取ってる。写真を指差して、その指で僕の鼻を押して、クスクスと笑う。写真のなかの僕はいまの僕よりもずっと幸せそうで、まるで僕とプルームのあるべき姿を示されたような気がした。僕は彼女に抱きかかえられたまま、二の腕から肩のあたりをペロペロと舐めた。
その日、プルームはひとりで出かけた。その間ずっと、僕は楽器を演奏しているオレンジたちの部屋の隅でうずくまっている。昨日から今日にかけて、僕の犬化は急激に進んだ。
もしかしたら、呪いなのかな。
恋なんかしないって誓った僕の前に、彼女が指先に停まらせていたアキクサインコが、こうやって現れて、こんどは僕がペットになってる。認めたくはないけど、僕はもうプルームのことを好きになっている。それは彼女が僕を助けてくれたからかもしれないし、あるいは子犬のようにただ依存してるだけなのかもしれない。だけどそれだって『好き』には違いない。
プルームは僕を守ってくれる。たとえ守れなくて、仮に僕が地球人として解剖されて、剥製にされるとしても、プルームだったらきっと、僕が怯えないように、痛みも感じないように処理してくれる。そうやってプルームの手で、彼女のもとに送られるんだったら、それも運命なのかなって思う。
オレンジの足元でうずくまっているとプルームが帰ってくる。どこか慌ただしい。外にいたシナモンがプルームと何か話していて、モノクロのふたりが部屋を出る。僕も続こうとするけど、オレンジが僕の手を取って、ソファの上に座らせる。雰囲気がいつもとは違う。
もしかしてプルームに何かあったの?
「プルーム! 大丈夫?」
外に向かって大声で聞いてみるけど返事はない。
オレンジが頭を撫でて、一言二言語りかけて、後ろから僕を抱きしめる。
「大丈夫なの? こんなことしててもいいの?」
訊ねるとオレンジは僕の顔を掴んで、口を釣り上げて無理やり笑顔にする。
立ち上がろうとすると脇を抱えられてソファに寝かされ、腹をくすぐられる。
このリアクション、やっぱり何かあったんじゃないの?
外から聞こえてくる声がいつもと違うんだけど。
玄関が開いて、モノクロふたりに抱えられて何者かが運び込まれる。ソファに寝転されたまま見ると、黒い装束、それがところどころに引き裂かれ、泥に汚れ、あちこちに血糊が貼り付いている。
カウチに横たえられると黒い影は咳き込み、血の塊に塞がれていた傷からここぞとばかりに血が流れ出す。血流は後から後から続く。心臓は血管が切断されているなど知らず、体中の血を傷口へと押し出す。
遠巻きにプルームの動きを追う。怪我人の外見は彼らと同じ種にも見えるけど、ゲームで見るゴブリンやオークの緑色の肌。しかも体に生えているのは、彼女らのような羽根ではなく、体毛に見える。
オレンジも奥に呼ばれたけれど、僕にできることはない。
いままで何度か事故は見てきたけど、これほどの出血を見たことがない。
でも、何かしないと、僕はいまの居場所まで失ってしまいそうで。
犬の胸の奥底にどんな不安があるのか、だれも知らないと思う。
自由になるお金もないし、お腹が空いても自分では何も出来ない。愛されているという信頼も時折揺らぐ。いつの間にか、せめて何か献身によって立場を守れたらなんて考えている。
もうこんな生活はやめてパラグライダーを回収して、地上に戻ったほうがいい。どうせ取材になんかなってないんだし、いまだったらまだ、人間に戻れる。このままだとやることなすこと、考え方までも犬に染まっていく。
このところずっと、事故で入院する前後のことを思い出していて、そこに血塗れのひとが運び込まれると、既視感を感じてしまう。もしかしたらあいつが僕かもしれない。僕はもう犬になってしまっていて、人間のように思っているのは僕だけで、さっき来た緑色の方が本当は僕なのかもしれない。
実際に奴のほうが、僕がここでするはずだった体験をちゃんとできる。瀕死のいまだって、いまの僕よりましかもしれない。姿形さえプルーム達と同じだったら、ちゃんと取材して、ちゃんと記事も書けるのに、いまの僕に書けるのは毎日散歩にでかけて、街角にどんな匂いが漂っていたとか、どんなひととすれ違ったとか。
犬でしょう、それはもう。
慌ただしさのなか、オレンジが僕を散歩に連れ出してくれたけど、僕には街角の看板の文字も読めないし、花が咲いていても、それが地上のどの花に似てるなんてこともわからない。それでも匂いだったら、甘い匂い、酸っぱい匂い、香ばしい匂いってなんとなく表現できる。
いくら自分は犬じゃない、人間だって言い聞かせたところで、実質的に犬だよ、それは。
散歩から戻って、拾ってきた石をそこに置く。四つ並んだ石を見て、果たして三つ目の石を置いたのが昨日だったか、一昨日だったかと思案する。僕はもう日を数えることすら覚束ないのか。
屋敷に入ると、プルームは「さっきはごめんね」って抱きしめてくれて、僕はそれが本当にうれしくて、差し出された手をペロペロと舐める。こうしていれば、僕は生きていける。手首、肘の内側、首筋と、気がつくと僕は、何かと彼女の肌に舌を這わせるようになっていた。プルームのほんのりとした甘みが、僕を慰めてくれる。
階段ホールの僕の箱に置かれた人形を立たせると、プルームとベリチェは喜んでくれた。それをパタンと座らせると、またふたりは笑いあった。何が楽しいのかわからないけど、ふたりが笑うのがうれしくて、人形を立たせて、またパタンと座らせて、何度も繰り返した。
プルームが新参者を連れて、二階の自室へと向かった。僕も呼ばれた気がして、新参者との間に割って入って階段を上がった。廊下を走って、プルームを追い越して、また戻ってその手を引いた。扉を開けるのをおすわりして待つと、プルームは僕の頭をなでてくれた。部屋に入ると、クローゼットを開けて、ずらりと並んだプルームの衣装の下。引き出しを開くと、そのなかには見覚えのある艷やかな布が入っていた。
赤から山吹色へのグラデーションと白のツートンカラー、僕のパラグライダーだ。
プルームはそれを引っ張り出してベッドの上に広げる。そして新参者のグリーン・スキンに何か語りかけて、グリーンは恐る恐るその布に触れる。
違う、プルーム。
それはこいつのじゃない。
僕のパラグライダーだ。
僕はベッドに飛び乗って、顔をうずめ、両手でそれを集めて握りしめた。
学生の頃から使っていたモデル、カタログを何冊ももらってきて二週間悩んだ。
プルーム、僕はこの布を使って空を飛べるんだよ!
プルームはその後、クローゼットの下の引き出しを開けてハーネスも見せてくれた。もちろん僕にではなく、グリーンに。
キャノピーもハーネスも少し雑に扱われた感じはあったけど、破損はしていない。僕は飛びついて、フックに装着した緊急用のホイッスルを鳴らしてみたけど、すぐに取り上げられて、引き出しに戻された。
僕のなんだよ! プルーム!
「ごめんなさい、ワンコがイタズラするから仕舞っとくね」
なんてことを言ってると思うと悔しかったけど、ひと前に出しっぱなしにされるよりはいい。クローゼットには鍵がかかってるけど、暖炉には火掻き棒がある。多少骨が折れても、それがあれば僕は地上へ帰れる。
だけど、本当にうまくいくだろうか。仮に持ち出せたところで、ラインのもつれを直して、セッティングして……という間に追いつかれて、悪いワンコね、と引っ張って連れ戻されるだけじゃないのか。
プルームのことは好きだ。犬を続けてもいい。犬のままでもいい。
だけど、もう一度だけ、空を飛びたい。
第八章 浮遊大陸レポート(3)
あれからずっと、違和感って英語でなんていうんだろうって考えてる。
「なーんか、違和感感じませんか?」
ドゥ・ユー・フィール……違和感?
なんていうんだろう。
フィーリング・バッド?
いや、バッドじゃないし、ストレンジ?
ストレンジは近いかもしれない。
ミスマッチ?
フィール・ミスマッチ感。
ぜったい違うな。
こうやって違和感って言葉を英訳できないまま、ほかの国のひとに会ったら、お互いに違和感があっても伝えられないんだ。この大陸に来て、おかしな感覚にだんだん慣れていって、普通になって、
「なーんか、違和感感じませんか?」
「だよねー、違和感だらけだよ」
なんて言葉すらかわせない。
それにたとえばさあ、英語で違和感って言葉がわかったとしてさあ、
「なーんか、違和感あるよねー」
って、そう感じたままの気持ちがちゃんと伝わることはないと思うんだ。
『違和感』なんて僕だけの感覚でもないのに、もうこの感覚がだれかに通じることなんて、一生ないかもしれないんだ。
それってなんか、違和感あるよね。――なんか。
グリーンが来た翌日か翌々日、グリーンは部屋で暴れた。
暖炉の火掻き棒で調度品を破壊しつくした挙げ句、扉をこじ開けようとした形跡があった。グリーンに対するプルームたちの接し方が変なのは気がついていたけど、どうやら本気で普通の客人ではないらしい。
屋敷の裏手には、段丘の崖線が迫り、崖の中腹からは湧き水があった。
水は洗い場まで木管で誘導されて、石敷きの小さなプールに溜められ、そこを出たあとは、井の頭池に流れ込んでいた。僕はその、将軍様へのお茶にと献上できるほどの名水を、御茶ノ水と名付けた。
寝起きに連れ出されてプルームと水浴びした。水は冷たく、濡れた石敷きに、つま先を丸めて、両手を畳んでガタガタと震えたけど、でもこの時間は楽しみだった。小さな水門を開けると、溜めた水が流れていく。水は一部で逆流して、一度戻って、また流れていく。プルームが葉っぱを浮かべて教えてくれた。
その洗い場で、新参のグリーンが洗浄された。
グリーンからはフェレットのような匂いがした。
灰のようなものと黄色い液体とを混ぜた、異臭のする洗剤で、楽園の水が汚されるのは慚愧に堪えなかったけど、デッキブラシで無造作に洗われるグリーンを見ながら彼女らの隣に立つのは、誇らしく思えた。
あいつはかつて僕が味わったように、神経を麻痺させられ、目線だけをギョロギョロと泳がせて、死の恐怖に抗っている。
水門をあけても、汚らわしい泡がしばらく残った。真新しい湧き水に押され、少しずつ流れ出しても、泡は逆流してまた戻ってくる。いつまでも消えない、汚れた泡。井の頭の池の表面に薄く広がる、グリーンの垢。
グリーンが馬車に乗ると、その匂いが鼻を突いた。肌の深部から染み出すような匂い。性腺か肛門嚢かが放つその匂いに、プルームも同じように、鼻を抑えて咳き込んでいた。僕は窓の開け方がわからず、ガラス窓を犬のように引っ掻いて見せるしかなく、そのうちプルームも気持ち悪くなって窓をあけて、顔を出して、僕もオアシスの水でもみつけたかのように、その窓に鼻先を突っ込んだ。
それから僕は――
僕はグリーンの悪いところ、劣ったところを探すようになった。
胸のなかで、今回の紀行の記事を書きながら、読者が間違ってもグリーンへの同情など抱かぬように、僕とプルームたちの仲を肯定してもらえるように、間違っても、炎上などしないように。小手先の描写が続いた。自分のその愚かさに半ば嫌気を感じながら、ただそう書くことでしか心に安らぎを得られなかった。
「それでグリーンってのは、いったい何者なんだ?」
胸のなかに読者の声が聞こえてきたけど、僕はグリーンがどんな存在なのか知らない。プルームたちとは別の種に見えたけど、体毛や体色を除けば体格は似通っている。すくなくとも僕よりはずっとプルームたちに近い。
グリーンをトランクに押し込んで、キャビンに乗り込むと、先日のグリーンの匂いがまだ漂っていた。プルームは僕を抱き寄せて、髪の匂いを嗅いだ。どうやら僕はプルームにとって《いい匂い》がするらしい。僕も手を上げて、プルームの首筋にまわす。くすぐったがって、笑っているのがわかる。首筋に口を寄せて、胸の中をプルームで満たして、甘い甘い彼女の肌を口に含んだ。手首、肘の裏、首筋に、僕の唾液の筋を這わせた。
森へ入ると、地面からの振動が柔らかくなる。車輪の音も草に塗れて、森の匂いを巻き上げる。生い茂る樹々が陽の光を瞬かせる。
プルームが指差した先に妖精がいた。
ときに一匹、ときに二匹、こちらに気がつくとすぐに飛び去る。
メルヘンの世界だった。
生い茂った樹々は、馬車が近づくと道を開き、進路沿いの花は光を放った。
でもプルーム、忘れてしまうんだよ、近頃の僕は。
ここへ来てもう何日経ったのかも覚えていない。
毎日、毎日、昨日何が起きたか思い出した。箇条書きにして、5個、10個と、事件が起きたことを思い起こした。だけどいまは、空に浮かんだ巨大なタコ、飼われた人間同士が交尾していたことも、プルームが光のモニターを開いていたことも、現実かどうか自信がない。しかもその、現実かどうかわからないことばかり記憶に残って、こちらに来て最初の食事も、最初に出掛けた散歩の事も覚えていない。
きっと町で出会った人間たちは、ペンをなくしたジャーナリストなんだ。ペンをなくした僕たちは、犬になるんだよ、プルーム。
馬車の窓から外を覗くと、巨大な切り株があった。切り株には扉があり、窓があり、その向こうには煙がたなびいている。
なーんか、違和感がある、その建物。
入り口の扉は僕には大きく、プルームたちには少し小さい。呼び鈴を鳴らすとプルームよりいくらか小柄なエイヴィアンが出てきて、すぐなかに通された。
やや地味な服装。顔に羽根が多い。老鳥のよう。羽毛の色は白をベースに薄茶の斑。似たような個体が奥にもう一羽。そしてその隣に、ちょこんと横座りした青年がいる。二度見する。人間の青年がいる。
青年は僕とは違って、上半身は裸、僕より少し明るい瑞々しい肌。飴色の髪は軽く波打ち胸まで届き、きれいにブラッシングされて、最初に見たのが後ろ姿だったら少女と見間違えていた。年齢はわからない。大学に入りたてか、もう少し上か。僕よりいくぶん小柄で、少年のようにも見える。
優しくて穏やかな目と、桃花色の唇、端正な顔立ち。華奢でいてふわりとした肉付き、鎖骨の窪み、その下に肋骨が軽く浮いて見える。褪紅色の乳輪、横座りした身体に正中線の影、やわらかな腹直筋のラインはしなやかに下腹部へと下る。
軽く手を挙げて、「ハーイ」と、なんとなく英語っぽく聞いてみるけど、彼はおずおずとソファの影に隠れる。四つん這いでこそこそと去っていったが、仕草はひとのそれ。真っ白いショートパンツを履いて、脚は裸足。
彼が隠れたソファから目を離せないでいると、ここの住人が彼を抱えてソファに座り、頭からTシャツを被せた。住人は彼の手をシャツの袖から抜き出し、髪の毛をシャツの外に出す。その間彼はなすがままにされている。
表情は読めない。僕を警戒しているようには見えないし、笑顔でもない。
彼の二の腕にも、太腿にも、うっすらと産毛が見えて、そこだけを見れば女性と違わない。Tシャツを着たその姿にはときめきすら感じる。僕はふと、自分がひとの肌に飢えていたんだと気がつく。最初に彼が男だとわかってよかった。そうでなかったら僕は「ふたりでここから逃げよう」なんて言って手を握っていた。
それにしても、どうやってここに来たんだろう。
彼が自分の境遇をどう捉えているかはわからない。僕以上にこの環境に適合してしまっているとしたら、それはもう犬だ。僕の方だって、恥ずかしながらもうほぼ犬なんだと思う。いまはこうしてひととしての思考を維持してるけど、あと一週間この環境が続いたら、それでもひととして考えることができている自信はない。なんとなくそれでもいいと思っていた。命が助かったんだから、あとは生き延びられたらそれでいいんだって。だから彼が、僕より一週間早くここに来たとしたら、ひとの心なんてなくしていてもおかしくない。
そう考えていると、彼がクッキーのかけらを僕に差し出した。
向こうの小柄なエイヴィアンから渡せって言われたんだな。
もしかして、彼らの言葉がわかるんだろうか。
クッキーを受け取り、戻ろうとする彼を呼び止めて手を握る。彼も振り向く。どう言葉をかけて良いかわからない。
小学生の頃は男子と友達になる方がハードルが低かったのに、いつの間にか男との接し方なんか忘れてしまっている。女のひとなら、デートにも誘えるし、飲みに行く約束もできる。見ず知らずの男になんて声をかけるきっかけがない。いや、見ず知らずの女性に声をかける機会なんて、もうずっとないんだけど。彼を呼び止めた手が重なったまま、その手をどうすれば良いのかわからない。
どこの国から? 何をしに? ここでどんな暮らしを?
彼も僕の方をそんなには警戒していない。近づいて……それからどうしよう。
「日本語は話せますか?」
彼はきょとんとしたまま、僕は続ける。
「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」
高校のころは英語は得意だった。大学でまわりにネイティブがいることを知って、話せなくなった。一般教養で学んだはずのフランス語は話せない。朝霧で一緒にエキスパートパイロットの教習を受けた子はロシア語を話した。オンラインゲームではよくマレーシアのひととグループを組んだ。どうして僕がまともに話せるのって日本語だけなんだろう。
「何語だったら話せるの?」
日本語で問いかけても答えが返ってくるわけはない。わかってるけど、じゃあどうすればいい? 首筋に浮かぶベビーパウダーのほんのりとした香り。彼は微笑んで僕の顔を眺めているし、僕が戸惑っていると彼の方から僕の身体を触ってくる。でもこの感覚は違う。女の子だよ、この手触りは、どう考えても。
懐かしい人間の肌、人間の熱、人間の産毛、人間の息遣い。どのひとつを取っても、女の子のように思える。少し濡れた唇も、鳶色の瞳も、抱き寄せたら僕と溶け合うんじゃないかって。どこに触れられても、プルームの時とは明らかに違う感触が走る。その感触は背筋を伝って尾骶骨まで駆け下りる。だけどそうじゃないんだ。仮に彼が彼女だったとしても、いま考えるのはそういうことじゃない。
この地球の上で何が起きているか、人間がどう扱われようとしているかという漠然とした不安。人類の運命を前にして、どうして僕の思考は肉体のことばかりに引きずられてしまうんだ。
コミュニケーションを取らないと。
僕は自分の耳を引っ張って、「みみ」、次に鼻を指して、「はな」。
で、あなたの言葉では? と、彼を指差す。
さらさらとした少し産毛のある頬、手のひらを這わせたら吸い付きそうな太腿から、柔らかなふくらはぎ、丸めたつま先。別にもう、男だろうが女だろうが構わない。抱き寄せて肌を重ねたい。その思いを振り払い、ぎゅっと目を閉じて、見開いて、もう一度、
自分の耳を引っ張って、「みみ」、次に鼻を指して、「はな」。
あなたの言葉では?
何語でもいい、言葉らしいものを発して欲しい、ちゃんと言葉を選んだら通じるんだって信じさせて欲しい。でないと僕の理性は産毛立つ素肌への欲求に負ける。
彼は僕の手を取って、自分の耳に触れさせて、鼻を押し当ててくる。
意味不明のリアクション。その肌の柔らかさと、暖かさ。
そして僕の手首を舐める。そしてそのまま唇を腕に沿わせて肘の内側を舐める。僕がプルームにしているように。彼は僕に抱きつくようにして首筋を舐めに来る。
人間同士の接触じゃない。
君も普段エイヴィアンに対してやってるんだよね?
僕の肘の内側も甘いんじゃないかって思って舐めてるだけだよね?
彼は僕の首に手を回して、身体を寄せて、僕の膝に座ろうとする。プルームにはない柔らかな肌が衣服越しに触れる。いっそ彼とツガイになってここのペットとして飼われるのもありかなあって……もうそれがほぼ答えのような気さえしてくる。でも、ツガイといってもオス同士だろう? 万が一、僕と彼がそれで良かったとしても、飼い主的にはどうなんだろう。
いつの間にか僕の腕に収まった青年は、僕の体に沿って溶けるように体を寄せる。僕の体を甘噛して、匂いを嗅いで、顔を埋める。股間の匂いを嗅ごうとするけど、そこは、そこだけは。男か女か以前に、犬だよ、それは。
彼が女だったら理性を抑えられなくなると思ったけど、男だってわかってるいまも理性を抑える自信がない。僕はずっとこの肌を求めて来たんだ。きっと彼もそう。肌の触れ合いに性別なんて関係ない。男同士だと仕事の話くらいしかすることないけど、ここには仕事もないし、酒もないし、ゲームもない。だとしたら相手が男だろうが女だろうが、できることなんて大差ない。
僕は彼の体を床の上に裏返して、覆いかぶさり、首筋のあたりを甘噛する。こうすることでしかコミュニケーションが取れないのならもう仕方ないじゃないか。
唇に触れるのはひとの肌。下着越しの僕の性器に彼の膝が触れると、その下着に染み出すものを感じる。彼も僕の顔を舐めようとする。首筋を舐めながら、くすぐったがってバタつかせている脚を押さえるふりをして、少しずつその手を股間へと回す。
何をやっているんだろう僕は。
恋なんかしないはずなのに。
「今日のことは、まだだれにも言わないでね」
うん。
ふと、彼女との初めての夜のことを思い出した。
「ほかに好きなひとができたら、言ってね。私も言うから」
いきなりそう言われて、戸惑って、ずっとその意味を考えていた。結局お互いに好きなひとができたなんて報告はしないまま終わったけど、でもごめん。そろそろ僕も、次のステップを踏んでもいいよね。
「うん。応援するよ、ケンくんの新しい恋を」
でも、恋なのかなあ。
会ったばかりで、肌と肌が触れ合って、ただそこまでに溜まってた欲求が引き合っているというだけで、これって恋っていうのかなあ。これほど自分の感情に自信が持てなくなるなんて、でも、それが恋の恋たる由縁なのかもしれない。
お互いの肌が吸い寄せ合って、柔らかな頬が触れる。
彼は、僕の首筋に舌を這わせる。
僕の指は、太腿から鼠径部へ、浮き上がる薄筋を辿って、お互いにもっと、感じ合える場所へ。肌に沿わせた中指は、彼の下腹部の底へと届く。
だけどそこにはあるべきものがない。
女の子?
待って。
改めて体を密着させてみるけど、胸なんかない。
顔を見る限り幼いわけじゃない。
戸惑って体を離すと、彼、あるいは彼女が僕の胸に飛び込んで来て、僕の口の周りを舐め始める。
改めて彼の背中に手を回し、体格を確認、そのまま胸に手をやり、下腹部へも手を這わせる。
天使?
ちがう、そうじゃない。未成年だ。青年のように見えただけで女の子だ。僕はいけないことをしている。いままで胸のなかにいて応援してくれてた彼女の表情が軽蔑に変わる。
違う! 本当に青年だって思ったんだ!
「ケンくん!」
プルームが呼んでる。呼んでるけどいまは。
「いつまでもイチャイチャしてると、置いて行っちゃうよ?」
ちょっと待って、もう帰るの? ここには何をしに来たの? この子はいったい?
なんてことを確認してたら小さいエイヴィアンが彼女を取り上げる。彼女はそのエイヴィアンの膝の上に乗せられて肘の内側を舐め始める。
僕は? 僕はどうすればいいの?
切り株の家を出ると古い馬車に移った。サスペンションは悪く、ガタガタと揺れる。
時間が経ってくると、後悔の念がどんどん強くなる。僕は最初から彼女が女だってのは気がついてて、その幼さにはあえて目を瞑ってただけなんじゃないかって。その思い込みに任せて僕は胸を弄って、股間にまで手を伸ばした。きっと僕の溜まりに溜まった肉体の欲求と、それを拒絶する何かとがせめぎあって幻想を見せたんだ。
それでなんとなく、僕が地上へ帰る時はあの子も連れて行かなければいけない気がして、でもそれが人道的な気持ちから出るものか、肉欲から来ているものかは、自分でもわからない。
プルームとオレンジは歌を歌い始める。いったいどこから声が出ているんだろうという不思議な声で、ふたりとは思えないくらいの複雑なハーモニーを奏でる。グリーンは紐で結ばれて馬車を追いかけて走っている。鳥の世界ではオスが派手で歌を歌って、雌が地味であんまり鳴かないともいうし、もしかしたらプルームとオレンジがオスで、グリーンはメスなのかもしれない。
プルームが僕にも歌を促す。
無理だよ、僕にはそんな笛の音のような声は出ないから。
……でも、と思って、声を奏でてみると、その上下にプルームとオレンジが音を重ねる。
もう一度声を出すと、また少し別の音で。
僕の歌声にふたりが重ねてるだけなのに、ずいぶんと複雑な和音が生まれる。
聞いたことのない音階。複雑な和音。風のような旋律。
鳥の声を聞き、見上げた木々の梢に小鳥の影がよぎる。プルームも空を仰いで、その影を指さす。彼女たちの歌声に、鳥たちが呼応しているかにも思えた。気持ちが洗われていく。だけど洗われて残るのが、僕の本当の気持ちだと信じる理由がない。僕自身洗い流されてしまって、何も残らないような不安と寂しさがある。意味もなく涙がこぼれる。僕はもうなくなってしまうんだ。なくなればいいんだ。
それからしばらく行って、朽ちた木をくり抜いたトンネルを潜ると、その先はキノコの森。その奥、巨大なキノコの家についた。
正直、景色なんか見えてなかった。気がつくといつの間にか僕は、メルヘンの世界にいた。しかもこのキノコ、遊園地にあるようなモルタルのキノコじゃなくて、本当にキノコの質感をしている。笠の下の襞の部分には胞子が詰まっているようにも見えるし、それでいてちゃんと窓があるし、扉もある。枝分かれした小さいキノコは郵便受けになっていて、こちらも材質はキノコ。
小さいエイヴィアンがひとり付いて来ているけど、彼がここまで案内してくれたということだろうか。切り株には二羽の老鳥がいたけど、そのうちの羽根が多い方。あの二羽は彼女らの祖父母なのかもしれない。だったらこの羽毛が顔まで生えてるほうが、おそらくお爺ちゃん。
プルームは彼と何か話し、扉の前に立って、手の甲に光のパネルを浮き出させる。一瞬、魔法のように見えた。だけどたぶん魔法じゃない。彼女らはこうして素朴に暮らしてはいるけど、その生活は僕たちの理解を超えた技術に支えられている。
出てくるところは見逃してしまったけど、手の甲をタッチしてるように見えた。……と思って見てると手の甲からキノコが生えてきた。何かしら真面目に考察しているとすぐに置いていかれる。プルームは手の甲から生えたキノコを指で操作して、一通りそれを終えたあと、扉が開く。
プルームに呼ばれてなかに入ると、その内部まで見事にキノコ。キノコが成長しすぎて自然に空洞になったような、なかには暖炉と小さな整理棚、テーブル、椅子、ランタンと、暖炉の前には木工用の道具のようなものがある。ふと見るとグリーンとオレンジがいない。理由はわからないけど、ふたりは外で待っているらしい。
老鳥は奥にある小さな扉から、穴へと入っていく。それに続いてプルームと僕。
どこかのゲームで見たようなファンシーな世界。土の穴、土の壁、木の根が飛び出し、素朴な作りの一輪車が放り出されて、果物や野菜が転がっている。はたしてこれは本物なのかフェイクなのか。
分かれ道があって、行き先を示す看板がある。もちろん読めないのだけど、老鳥に導かれるまま右側の道へ。下り気味の道は階段となって、鍾乳石、そこにできた水溜り、天井にはコウモリのコロニーがある。少しずつ暗くなり、ホタルのように光の粒が飛び交い、奥は茨が絡み合って行く手を阻む。
その前で老鳥は手の甲にキノコを出現させる。操作すると、ホタルが集まって光の輪となる。輪は火花を散らしながら回転し、そのまま茨の壁に向かって進み、その輪に触れた茨は一本ずつ光となって、そのたびに熱を放ち音を奏でる。奏でる音は次々に重なり、その荘厳な和音のなかで、やがて茨は消えて、その向こうの光で満たされた空間へと道を開ける。
いったいなんなんだこれは。
なかは天然の岩窟。壁中に貼り付いた苔が光を放っている。浅い水溜りに巨大な亀が眠っていて、その亀の背中には大小様々色とりどりのキノコが生えている。
これを見せたかったのか……
亀は目を開けて首をこちらに向け、足元の湖面にさざ波が立つ。
老鳥はその亀に語りかけ、プルームともしきりに言葉を交わす。
と、次の瞬間、亀は消えて双胴の巨大な乗り物、先輩に見せられたロスで飛び回ってた飛行物体に変わる。ふと気がつくと後ろの岩肌も消えている。もしかして、プロジェクション・マッピング? じゃあ、いままでの通路、もしかしてキノコも切り株も?
だとしたら彼らの科学技術レベルは僕たちと同じか……いや、この飛行物体の動きを思い出してみると、同じなわけがない。かなり進んでいるとしか思えない。だったらさっきの馬車は? プルームの屋敷の妙な古臭さは? それもすべてフェイク?
老鳥は手の甲のキノコを操作して、飛行物体を亀に戻す。すると亀はあくびなどして少し頭を縮込める。
これらがすべてフェイク? どんな価値観を持っているかは知らないけど、どうやらこれがこのひとたちの文化らしい。僕が見ていたものはどこまで真実だったんだ? あのクローゼットは本当に火掻き棒で殴れば壊せるのか? 切り株の家で会った子だって……いや、たしかに彼女には温もりも、肌で触れた感触もあったけど、本当にそれを信じていいのか?
老鳥とプルームはすぐに別の場所を目指す。僕も遅れないようについていく。さっきの分かれ道まで戻り反対へ向かうと、その先には巨大な木の扉がある。これだって本物かどうか。老鳥は魔法の鏡にエネルギーを注入しているような素振りをしている。それをもうどう理解していいかわからない。扉に魔法陣のような模様が浮かび上がって、複雑なギミックを解くように扉が開く。老鳥はプルームと話をしたあと扉の向こうへ。僕もすぐにそれを追う。
その次の瞬間、僕と老鳥は光のドームのなかにいた。
プルームを置いてきたみたいだ。
老鳥、お爺ちゃんに伝えないと、とは思うけど、彼はもう椅子に座ってパネルを操作している。操作といっても口で音を鳴らすとパネルが次々と表示されているだけで、いったい何をしているのかはわからない。
無数のパネルが表示されるなか、目の前のパネルの一枚に僕がパラシュートで降りてきた時の様子が映し出される。いったいどこから撮影していたのか、老鳥が声を発すると動画はそのうちの一枚で静止、口笛のような音に合わせてカメラは近寄り、パラシュートを背負った僕の周りを回転し、顔のアップを捉える。
「ほう」
と言ったような気がした。
老鳥は僕の顔を一瞥すると、無数のパネルを目の前に表示、そのなかの何枚か、僕が写っている動画を選んで拡大表示する。そこには僕がこの大陸に降り立って、雷の罠を作動させて、野宿して、パラグライダーで飛び立つ姿が映し出されている。更に彼は別の動画を呼び出し、僕を乗せたセスナ機、海上で待機しているボートを映し出す。
老鳥は椅子を僕の方に向けて、僕を抱きかかえる。頭を撫でて、膝の上に座らせて何か語りかけてくるけどわからない。僕の不安を察してなだめてくれているように思える。
僕が狼から逃げてプルームに助けられる場面、プルームがパラグライダーとハーネスを回収する場面。続いて、汚れた装束の男が歩いている場面。おそらくグリーンだ。それを巻き戻して、仲間らしき者と連れ立って浮遊大陸の端を歩く場面。
そうか。仲間がいたんだ。
老鳥は僕のときと同じようにカメラを近づけてグリーンたちの装備を確認する。ベルトに大型のナイフを持っている。いまは持っていないようだけど、こういう情報、プルームは知っているんだろうか。
画像がすべて消える。次に、色んな種類の文字が表示される。それは同時に音声で読み上げられる。日本語の「こんにちは」が聞こえ、僕は反射的に「これです!」と答える。
「ほう」
という声が、老鳥の喉から漏れる。
全天モニターに日本語の様々なソースが映し出される。もしかしてこれを読めって? いや、さすがにこの量を出されては無理だ。と思ったら、老鳥が読んでいるらしい。読めるのか? いや、そう見えるだけか。
そう思っていたら、老鳥は木の実を割って作ったヘッドセットをつけて、ゆっくりと話し始める。
「わたしの、ことば、が、わかりますか?」
鳥に似た謎の老人が日本語を話している。
「はい」
知的生命体とのファーストコンタクト。ここに来て時間も経つし、いまのシチュエーションがわからないわけではない。なのに、何も理解できない。
「じじょうがあって、おおくは、はなせませ、ん。よく、きいて、ください」
どうやらあのヘッドセットを通してリアルタイムで翻訳しているらしい。
「あなたの、しょぐうは、ふれあに、まかせます」
フレア? フレアというのは?
「あなたと、いっしょにいた、ももいろのはね。わたしの、まごむすめ、を、えんじて、います」
プルームのことか。フレアっていうんだ。
でも、演じているってのは? 本当の孫じゃないのか?
「わたしは、あなたを、まもれません」
僕を守れない……? どういう意味……?
「あなたは、ふれあに、しょゆうされています。あのこなら、まもれます」
「守るってどういう意味ですか?」
「これ、いじょう、はなすと、ログが、おくられます。おわりです」
ログが送られる? 監視されてるってこと?
わからない。わからないけど、フレアってプルームのこと? プルームが僕を守ってくれるの?
第九章 浮遊大陸レポート(4)
僕は――犬として扱われたんだよ。その大陸では。
でもなんとなく、自分でもそれでいいような気がしてきて……
犬の仕事って、『かわいい』なんだよ。
『かわいい』をちゃんとやってたら、愛される。だから、『かわいい』をがんばらなきゃ、飼い主様に愛されなきゃって、いつのまにか必死になって、あとから来た奴に嫉妬して、ほかの家に飼われてる犬に恋をして、飼い主とどっちが好きなんだろうとか自問して。
人間と動物の違いって、『考える』ことだと思ってたんだけど、いまの僕は犬なりに考えてる。考えて、考えて、もっと犬になろうとしてる。本当に人間って『考える葦』なのかなって思うくらい、犬として考えてる。
犬は楽なんだよ。
自由になる時間もお金もないけど、生かしてもらえる。
逆に、なんで自分の意志で冒険しなきゃいけないんだろう、危険を犯して地上へ戻りたいなんて、バカなんじゃないかって思えてくる。犬として、ほかんちの犬とツガイになって、家族を儲けるのもいいよなぁとか思い始めるし。
でもなんか、人間に戻らなきゃって気はするんだ。
戻りたい理由? わかんないよ、そんなの。
そんなに大げさな理由はないと思う。
ただ、人間に戻れば、話せるんだよ。いま起きてることだって。笑い話だろうが、怖い話だろうが。話ができる。ほんのそれだけ。それだけのために人間に戻りたい。
話した先に何があるかとか、そういうのはいい。
君にいつか、このことを話したい。話をするだけでいいんだって、話したい。話の話をしたい。君と。話すだけで、人間は人間になれるんだって。
目が覚めると隣にはプルームがいて、静かな寝息を漏らしている。
優しい飼い主様。
羽毛の開いたプルームの肌は柔らかくて、開いた羽根を逆撫でにすると、艶のある吐息が漏れる。プルームが眠っている隙に、あちこちに指を這わせた。喉に小さな声が漏れる度に、鼓動が僕を揺らした。
僕は肉体というケダモノと、どう折り合いをつければ良いのだろう。
その日は、特に僕からは言ってないのにトイレに連れて行かれて、ああ、今日もちょっと遠出なんだなと思いながらことを済ませて、お尻を洗ってもらって、いま馬車のキャビンに座っている。そのお尻を洗ってもらう様子、洗ってもらえるようになるまでの過程は、すべてが終わった時に改めて手記に書きたい。
人間らしい生活から離れて久しいなあ、ってたまに思うことがあるけど、逆にいうともう、たまにしか思わなくなってきた。
「だいぶ犬になってきましたね、照井くんも」
と、最近は高山さんの目にも犬に映るらしい。
最近変わったことといえば、体に少し発疹が出るようになったこと。ここに来て虫に刺されることは不思議となくなったのだけど、あの虫がまぶしてあるような食事が合ってないんだと思う。いずれにしても長くないんだろうな、僕は。
馬車が走り出したら、僕はオレンジに頼んでプルームと一緒に御者台に乗せてもらった。オレンジの手で僕をプルームに渡してもらうのは、プルームの親友から認められたようで誇らしかった。
プルームは僕を赤ん坊のように抱きかかえようとするけど、僕は十二歳前後のやんちゃ盛りの少年のように無理矢理に前を向いて、風を受けて、こうやって両手をプルームの二の腕に回せばほら、パラグライダーを操縦しているみたいだ。
はじめて空を飛んだ日。あれからずっと、空に夢中になっていた。
サーマルを見つけたらその気流に乗って旋回して、どんどん高度を上げていく。たぶん僕とプルームはいま、サーマルを見つけて高度を上げている時間。だけどそのサーマルもすぐに見失ってしまう。それは何度も何度も経験してきた。旋回しながら地形を見て、風の流れを感じながら、次のサーマルに当たりを付ける。
いつか一〇〇キロ以上の旅をしてみたかった。でもいくつサーマルを見つけて乗り継いでも、いつかは地上に降りてしまう。底なし沼にはまったときと気分は似ている。少しずつ、少しずつ沈んでいって、いつか終わりになることはわかっていながら、残りの時間をナイフで削って希望の火を灯す。
これほどに大きな思いを抱いて、これほどに身体を寄せ合って、それなのに君とはずっとプラトニックで、しかもそのすぐ先にはもう終わりが見えている。だけど、それで終わらせたくはない。
ひとしきり走った後、馬車は少し街道を逸れて、草原の畦道へと分け入った。
一本の大きな木があって、草原にはまばらな低木と、その向こうの茂みの間に水の煌めきが見え、その奥には山の斜面が立ち上がる。
プルームたちは不思議な図形が描かれた紙をグリーンに見せて、グリーンが催眠に掛かっている間に首輪をかける。その図形にどんな意味があるかはわからないけど、グリーンがいつも凝視して固まっているので、僕は見ないようにしている。
グリーンを木につなぐと、プルームとオレンジは互いのシャツを脱がせて、僕の服を脱がせる。駆け出して、茂みの切れ間を通って、その向こう、石敷の川原を越えて、川に飛び込む。僕も足元の石によろめきながら、その後に続く。
オレンジが羽毛を開いているのを初めて見た。井の頭公園の鳩が水浴びするように、白い皮脂が下流へと流れている。そういえばオレンジって、一緒に水浴びする時も髪を濯いでるだけだったし、あんなに汚かったんだ。僕が少し近付くのを戸惑っていると、プルームが僕を捕まえて深みに放り込む。
水が冷たい。でも気持ちいい。僕は横泳ぎしながら彼女らの元へ。
プルームはくすぐるようにしてオレンジの身体の皮脂を流している。
そのうちふたり、夢中になって、僕のことも目に入らなくなって、僕はひとり岸に上がって、水浴びしてはしゃぐ二羽の鳥を眺めていた。
夜はテントのなか、オレンジと僕とプルームと川の字になって眠る。
プルームの羽毛は開いて、大きい羽根は僕の掌ほどもある。だぶだぶの寝間着には潜り込めるくらいの隙間。いつか潜り込んでみたい。いつか。
夜中、ふと目を覚ますと、オレンジは空中に開いた光のパネルを眺めていた。そういえばオレンジが寝ている姿を見たことがない。プルームみたいに羽毛を開いて寝るのかなと考えていたら、向こうも僕が起きていることに気がついた。
オレンジはニヤリと笑って、あ、これ、何かいたずらされるパターンだって思ってたら、音楽を鳴らし始めた。いつかプルームが蓄音機で聞かせてくれた単純な曲じゃなくて、いろんな音が入り混じった幻想的な曲。ちゃんとステレオ。いや、ステレオどころか、前後左右どこからでも音が聞こえる。しかも頭を動かしても音の位置関係が変わらない。脳に直接音を響かせてるのかもしれない。
オレンジは空中に開いたパネルを視線で操作しているらしい。映像が切り替わり、おそらくその視線に沿って画像がハイライトされている。その画像のひとつを外に取り出す。
外に取り出す?
それは立体映像のように空中に固定される。三人組の女性が歌を歌っている。いま脳内に流れている曲の映像だ。次の瞬間その映像は辺り全体に広がり、僕はまるで宙に浮いたように自分の体重を見失う。目を開けても閉じても同じ映像が見える。その中心に僕がいて、でも僕の姿はなく、僕にかかる重力もなく、まるで全神経が物理的な僕の身体から別のデバイスにつなぎ変えられたかのように、果たしていまどんな格好で横になっていたのかすらわからない。
その映像のなかにオレンジが現れる。現実なのか映像なのかわからないけど、オレンジはプルームの画像をたくさん開いて僕に見せてくれる。摩天楼の都会で華やかな服を着た姿、礼服を着て演壇に上がる姿。大きなオフィス、公園を歩くプルーム、野外ステージで歌うプール、いろんなプルームが見える。それぞれ動画で、音も聞こえる。僕の意志でカメラを動かせるし、まるでその映像のなかにいるように、風の肌触り、水しぶき、草の匂いまで伝わってくる。
それは現実よりも更にリアルで、でもどこかに焦点を合わせようとするとすっと消えて現実に戻される。意識の焦点をぼかすとまたそこに戻れるけど、その映像はさっきより薄れている。どうやら僕は眠りに落ちようとしている。オレンジが見せてくれる景色に僕の夢が重なって見える。プルームは僕の夢とひとつとなって、僕の意識のなかに潜り込んでくる。
方向指示器のカチカチという音だけを静かに響かせて車が停まる。ルームライトが灯ると用意していたお金を置いて、転がり出るように車を降りて階段を駆け上がる。先輩の部屋に似た知らないアパート。奥の部屋まで行くと、僕が入れるようにドアにはストッパーがあって、不用心だと思いながらノブを引くと、胸のなかにざわめきと、後悔と、不安とが広がる。頼んでいた原稿のことを思い出す。連絡が取れずにここに来たこと。なにか大切な用事があってここに来たこと。
部屋に入るとプルームの匂いがした。香水の香りの下に隠していた汗の匂いが部屋の壁全体を甘く染めて、その匂いの滴りが血の跡のようにバスルームへと続く。他の部屋を見るまでもなくバスルームに駆け寄り、水の匂い、扉を開くと、流しっぱなしのシャワー、吐瀉物の上に倒れたプルームの姿があった。駆け寄り、抱き起こして名前を呼んでも返事がない。手首にも脈はなく冷たい。すぐに自殺だと思い当たる。
「どうして?」
そう出かかった言葉を飲み込んで、
「何があったの?」
冷たくなった彼女の肩を揺すって、何度も、何度も問いかける。
「どうして」と聞いたら彼女を追い詰める気がして、「何があったの? 何が君をこんな目に?」と、それだけを繰り返した。
タンデムのライセンスを取ったんだプルーム。これがあれば一緒に飛べる。タンデム用の機体はレンタルするから、それで何度か飛んだらすぐに君専用のを選んであげられる。一緒に飛ぶんだよ、プルーム。こんな仕事なんか辞めていいから。阿蘇でも奄美でも、なんなら海外でもいい、君の行きたいところへ行こう。だからプルーム、目を覚まして。
何度も何度も繰り返し呼びかけて、号泣しながら目を覚ました。
そういえば寝る前にオレンジが変な幻覚を見せてくれたことを思い出した。どこからどこまでがオレンジが見せた幻覚で、どこからが僕の夢なのか、考えてみたけどわからなかった。
翌朝は雲が流れていた。
高度二〇〇〇メートルも近いと、雲は肩先を過ぎる。地面にその裾を削られながら、小さな水たまりの上を転がり、流れる。プルームとオレンジは、小さな子どものように、雲を追いかけてはしゃぐ。山の高度には慣れているはずなのに、起き抜けの足元は重力に戸惑う。ぼやけた焦点を眉間の螺子であわせて、二羽の鳥を追う。子どものころ、雲はずいぶんと遠くにあるのだと思っていた。だけど、知ってみればたかだか千五〇〇メートル。高校のグラウンドを四周、息を切らした五分三〇秒先のことだった。
直後、上空にF16戦闘機の姿が見えた。
おそらく米軍機だろう。どうしてこんなところまで侵入できたのか。偵察目的なのか、あるいは何かしらの武装をしているのかは、僕の知識ではわからなかった。僕は無意識に手を振り、大声で叫んでいた。ここだ、僕はここだ、と。こちらが見えるわけもない、声も届くはずがないなんてことは考えずに、いつの間にか身体が動いていて、それが無駄だと気がつくよりも早く戦闘機は撃ち落とされた。ここからだとパイロットが脱出したかどうかは見えなかった。ミリタリー先輩が米軍の戦闘機には無人機があると言ってたので、もしかしたらそれかもしれない。
ここは空気も薄く、大声を出しているとそれだけで息が上がる。ほんのりと湿った空気は、僕の体温を奪って水滴になった。
それから戦闘機の侵入がきっかけか、にわかに慌ただしくなった。
屋敷で先日見た軍用車と、二台の大型トラックが来て馬車に横付けする。軍用車は相変わらずのエンジン音を轟かせているが、大型トラックの方にはタイヤは見当たらず、本体は地面から少し浮き上がっている。車体を浮上させている原理はまったくわからない。
エンジン車からは地球の中波ラジオらしいものが流れている。こんな非常事態に音楽を鳴らしてるラジオ局があるのかとも思ったけど、いくつか曲を聞いているうちに、むしろこんな時だからこそ音楽を鳴らすんだと思った。
降りてきた軍人とプルームは少し言葉をかわして、軍のトラックに乗せられた。
軍のトラックは、外からは白い樹脂か金属製の箱型だったが、内部からはほぼ外を見渡すことができた。マジックミラーのようなものか、あるいは全天モニターなのかはわからないけど、そのトラックが凄まじい速度で荒野を疾走していく。途中、森や大河があってもおかまいなしに。
不安とときめきは同じ色をしていた。しばらくは胸のなかに芽生える感情を選り分けていたけど、やがてそれもどうでもよくなる。いままでに体感したことのない速度で景色が流れていく。この体験を、不安やときめきだなんて、ありきたりの名前をつけて胸にしまい込みたくなかった。
しばらくして、車から降ろされ、目の前に街があることに気がつく。
そこまではなだらかな丘と草原が続き、そのなかに現れた街は、まるで草原の上に浮かぶ船のようにも見えた。ちょうど外堀通りから、赤坂見附へと降りてくるときのように、急にひとかたまりの街が現れる。新宿や四谷に残る柔らかな道の起伏は、百年を遡る過去の地形の名残なのだと思う。この町は、それを思い起こさせた。山の稜線がその肩に届き、蛇行する小川が緩やかな谷を作る。周囲には畑もなく、少し離れたらひとの生活の匂いもない。その建物の様子は近代的で、奥の方には高いビルもあるが、手前の方の建物は二階建て、三階建て。
その街の入口、プルームが首輪を持って僕の前に立った。
さっきからグリーンは首輪を外されているし、あらためて奴に嵌めるのかと思ったけど、そうでもなかった。プルームは何かひとこと言って、僕の前に手を差し出す。手を舐めると僕はおとなしくしてると思われてる。そう思うと寂しかった。だけど今朝見た夢のことを思い出して、彼女には辛いことや悲しいことを感じさせたくなくて、僕は差し出された手を舐めた。僕はあなたには逆らわない。あなたが幸せになること以外、何も望まない。
首輪を掛け終えると、服を脱がされた。リボンも、靴も、パンツも。特に性的に意識することもなく、作業のように、そしてすぐに僕を抱き寄せて背中を擦ってくれた。赤道に近いとは言え、気温はおそらく二〇度を下る。少し震えていると、ぎゅっと抱きしめてくれた。そのあと、プルームは僕の臍にシールを貼った。シールの両端を指で押さえて不器用な笑顔を作った。
グリーンの首輪は外され、普通に服を着て、普通に歩かされている。僕の方はといえば、全裸ではない。臍にシールを貼られているから。でもそれだけ。どんな格好をさせられてももう恥ずかしいなんて思いはしなかったけど、グリーンと差をつけられるのは嫌だった。しかもこのライバル心を抱いている相手が何者なのか、僕はなにも知らない。
街には独特の生活臭があった。建物は石造り、あるいは鉄骨をベースに外壁材で外観を整えたものだろうか、扉は鉄や木で出来たもので、周囲の壁や柱のラインに合わせて幾何学的にデザインされたものが多い。退廃的で、ゴミが散乱し、そのあたりでうずくまっている者、横になっている者も少なくない。壁には落書きも多く、オブジェや街灯は破壊されている。だけど、もしかしたらこれもそういうファッションかもしれない。少し荒廃したヨーロッパの町並み。どこまでがフェイクでどこまでがリアルなのか。そのなかに清涼剤のように、小さな噴水が作る、小さな虹。
街に入ってすぐ、鎖につながれた人間を見かけた。僕と同じように全裸で、首輪をして、だれかに連れられている。いろんなひと――ひとというかエイヴィアンが、いろんな人種の人間を連れて歩いている。屋敷の近くでも見てきた光景だけど、あらためてそのグロテスクさで胸が塞がれる。
この大陸が地球に現れてまだ一ヶ月ほどしか経っていない。なのに、人間を飼うという文化だけは定着している。自分の時間の感覚がおかしいのか、もしくはエイヴィアンは昔から地球人をさらってペットにしているのか。
籠に閉じ込められて、悲壮な声を上げている人間もいる。店の前に無造作に積み上げられて。その声を耳にしてふと、彼らは食肉用だと思った。僕はいつの間にかプルームのドレスの袖を握りしめていた。濃厚な肉の匂いが漂ってきて、それがまるで人間の肉の匂いのような気がして吐き気がする。プルームはそれに気がついてか、僕を抱えあげて抱きしめてくれた。
裸に剥かれているのは人間だけではなかった。緑の肌のひとりが全裸で、丸刈りにされ、腹の前にプラカードのようなものを持たされて歩かされているのも目にした。首には鎖を掛けられ、そのひとが通ると周囲から歓声や、あるいは怒号が起こる。
プルームとオレンジはときどき何か言葉を交わしているけど、僕にはわからない。グリーンは怯えているように見える。時折不審な動きを見せては、オレンジに制される。
小走りに、市街を抜けて、車両の行き交う通りに出る。
ところどころにタイヤのない車も見えたが、全体として見たら映画で見るような未来社会でもなかった。まれにすれ違うタイヤのない車は土埃を巻き上げた。普通に風圧で浮いているだけ。反重力浮上装置を作るほどの科学はないのかもしれない。彼らの科学力は、人類の何年後だろう。百年か二百年もしたら、反重力なんてあたりまえになると思っていたのに。
すぐに鉄骨造の巨大な建物が見えた。
ゴシックの教会のようにも、背の高い竜の骨格のようにも見える。
僕はどこに連れて行かれるのか知らない。プルームに抱かれながら、「僕は愛されている」と胸のなかで繰り返した。このところただ命を守ること、生き延びることにばかり執心している。だけどそれがなんだと言うのだろう。退屈で何もすることがない夜だって、死んでしまうよりはずっといい。
その後、壁じゅうに不思議な文様が描かれた不思議な店に入った。
刺激臭のある薬品、あるいはスパイスの濃厚な匂いがただよい、それでいて、煮詰めた汗が壁を覆ったかのような獣の匂い。ショーケースには女性の手の剥製が飾られている。二階へ上がるとブランケットをかけられて横になった男が、苦しそうに喘いでいる。おそらくはグリーン・スキンの子どもだと思う。
「残念ですね、照井くん。この子はもう助かりませんね」
どこからともなく高山さんの声が聞こえた。
「助からない? 助からないというのは、どうして?」
「地球に来たことで、未知の伝染病かなにかにかかったんでしょう」
だとしたら、僕は病原体だ。
じゃあ、どうして僕は連れてこられたんだろう。
横たわった男は僕に手を伸ばしてくる。
その手が僕に触れる前に、枕元に座る別の男が制する。
どうやらその男は医者のように見えた。ここに何をしにきたのだろう。僕の去勢? あるいは工作員であるグリーンの引き渡し? あるいは殺処分? だれの?
病に伏せるグリーン・スキンの死を待つような、不安しかない時間が静かに過ぎていく。その喘ぎ声がときに途切れても、医者は手も施さずに空中に表示されたモニターを眺めている。その呼気が作り出す湿度を、小さな換気扇がカラカラと追い出す。
そこで何が起きているのかは、わからなかった。
グリーンは、壁の模様に釘付けになったまま店に残って、僕とプルーム、そしてオレンジとで店をあとにした。あの匂いから開放されたことの喜びはあったが、それ以上に不安があった。彼が売られたのか、捨てられたのか、あるいは肛門嚢の手術のために置いて行かれたのか。だけどそのグリーンも、馬車へもどるとちゃっかりと姿を表した。
今日はプルームとオレンジのデートだったのかもしれない。
グリーンが秘密工作員だなんていうのも僕の思いすごしだ。
「ここではペットはみんな全裸が基本だから」
「衣装とかダサいよね」
みたいなノリで全裸にされて連れ歩かれたんだ。
そのデートも終わって、プルームが僕に服を着せてくれる。プルームはなぜか泣いている。僕にはその理由がわからない。
どうして泣いているんだろう。
どうして?
違う、何が君を泣かせているの?
何かきっと理由がある。
この町に来て、空想で作り上げた僕の脳内世界に、たったひとつプルームの涙が合致しない。きっと僕は重要な勘違いをしている。僕が考えたことを一から組み立て直さないと、プルームの涙の理由はわからない。
プルームの涙を指でぬぐった。それでも僕を見てくれないから頬を舐めた。そんな涙なんか流す必要はないから。言葉はわからないけど、すぐにすべて理解するから。理解して必ず、助けるから。ヒーローになったような気持ちで胸のなかで呼びかけながら、パンツを履かせてもらった。
馬車に乗るとプルームとグリーンが向かい合って席に座って、僕はふたりの足元に座った。グリーンからはあいかわらずフェレットのような獣臭がした。プルームは僕の頭を撫でてくれるけど、僕はずっとグリーンのことが気になっていた。胸のなかに嫉妬心が渦巻いている。おまえの匂いなんか、プルームは嫌いなんだ。プルームが好きなのは、僕の匂いなんだ。
帰りの旅のなかでグリーンの正体を見極めるつもりが、馬車はふわっとした謎のトンネルを抜けて一瞬で屋敷についた。さすがにもうこの程度で驚きはしないんだけど、計画が狂う。謎のトンネルではグリーンも戸惑っていた。グリーンはやっぱり彼女たちの文化とはあまり馴染みがないように思える。
馬車から降りるとき、グリーンの足がしゃがんでいる僕の肩に当たる。足でもブーツでもない硬いゴリッとした感触。とっさに手を伸ばすと、ズボンの裾のなかに何かを持っているのがわかった。グリーンも身体を躱して僕を遠ざける。やっぱり何かおかしい。
プルームと僕とは部屋に戻る。
プルームは疲れているようで、僕と少し話をしたらすぐに眠りについた。
眠りに付く前も涙を零していた。
僕はなぜかオレンジに見せられた夢のことを思い出した。頬の涙を舐めているうちに切なさがはちきれて、頬を擦り寄せた。僕の涙がプルームの頬に落ちてわけがわからなくなって、キスしたいよ、プルーム、って指で頬の涙を拭うと、彼女は薄目を開けて、微笑んで、またしっかりと僕を抱きとめて眠りに落ちていく。プルームの羽毛がふわっと開いて、その内側から彼女の匂いがあふれてくる。このなかに埋もれていたい。いつまでも。
僕は彼女に毛布をかけて、火が消えた暖炉のなかから埋み火を探して、火が十分に戻ると足の裏を火に向けて、ソファの側面に身体を預けた。
ドアが開いた。
屋敷の者ならノックするはずだとドアを見るとグリーンの姿があった。
すぐに非常事態だと気がつき、火掻き棒を手にする。彼らには生活道具だろうけど、僕の手にはずっしりと重い。柄の部分まで鉄製で、棒の先は鈎状、作りもしっかりしている。
まだ何を企んでるかはわからないが、奴が足元のドアストッパーを蹴り、後ろ手にドアを締めたところで僕は大声を出した。
「プルーム、起きて! グリーンが何か企んでる!」
ドアを閉めるまで待ったのは失敗だった。
プルームは目を覚まし、ゆっくりと身体を起こす。
「プルーム!」
僕は繰り返す。
外には軍用車のエンジン音が響く。何が起きているかわからないけど、とにかくこの部屋では僕がプルームを守らないといけない。
ベッドとの間を塞ぐようにグリーンに対峙する。右手には手斧のようなものを持って、それで威嚇してくる。こちらにも火掻き棒はあるが、リーチの差が尋常じゃない。奴が手斧で少し払っただけで腰が引ける。正面からの勝負になったら一瞬で決着がつく。僕は少し及び腰になりながらも、椅子の近くに立ち、いつでも隠れられる体勢から火掻き棒を向ける。
外からオレンジの声がしてプルームが何か受け答えする。それを聞いてグリーンがベッドへと向かう。僕は正面からタックルするように低く当たってみるが払われる。軽く払われただけなのに体は大きく飛ばされる。が、これで恐れは飛んだ。すぐに立ち上がって背後から抱きつく。引きずられるばかりで大した足止めにもなっていないし、また払い飛ばされ、今度は壁に激突する。呼吸が止まるほどの衝撃。立ち上がろうとするが足がもつれる。頭を打ったのかもしれない。どこが痛いかもよくわからないが、足が立たない。頭を振って目の焦点を合わせると、グリーンがプルームの手に手斧を当てて体重を掛けている姿が見える。心臓が痛むほどに高い鼓動を打ち始める。傍に落ちていた火掻き棒を手に取るが、全身が震え出す。視界が回っている。寒気がする。背中からべったりと血が流れ出していることに気がつく。身体が思うように動かない。それでも雄叫びを上げると、思い出したように身体が反応する。足はもう僕の意志通りにはちゃんと動いてくれない。かまわない。僕の身体をあと二歩先に運んでくれたらそれでいい。両腕で火掻き棒を振り下ろし、グリーンに一撃を加える。ぎりぎりのバランスで身体を足の上に支え、振り返ると、背後、頭上からグリーンの手斧が振り下ろされてくる。これを避けようとするとバランスを崩し倒れ、そのまま机の下に転がり込む。
「オレンジ! 早く!」
外にいるのはわかってる。鍵がかかってるのかもしれない。もし助けが来なかったら僕がこいつを倒すしかない。グリーンはコートハンガーを持ち上げて椅子を払う。先が三つに別れた三メートル近い鉄の棒がテーブルの下の僕に突き出され、僕は血の跡を引きずって奥へと逃げる。背中にはどれほどの傷を負ったのだろう。どれほどの血を失ったんだろう。両目のどちらかには血が入って視界が赤い。その潰れかけた目がどちらかもわからない。火掻き棒でコートハンガーとは戦えない。でもこのまま逃げたらプルームがやられる。
だけどどうやら狙われているのはプルームの左手一本だ。おそらく手の甲のあれを狙ってるんだ。だとしたら、僕の命でそれを阻止する価値はあるのか? グリーンがコートハンガーを投げ捨てる。そしてベッドへと近づく。とっさにテーブルに引っかかってバランスを崩してる椅子をみつけ、足を伸ばしてその椅子を倒すと、その椅子にグリーンは躓く。
じっとしていたら僕は助かったんだと思う。
さっきから後悔ばかりだ。
でも価値があるか無いかと問うなら、それは逆だ。
僕の命にはプルームの左手一本の価値はあるのか?
ふとグリーンに目をやると、奴は怪我した腕を庇っている。
僕にはもう庇わなきゃいけない傷なんかない。失血なんか知らない。狼に追われたとき、底なし沼に沈んだときの恐怖がいまは無い。もう一度立ち上がれば、もう一度チャンスが巡ってくる。
ベッドの傍まで這いずって立ち上がる。
「プルーム、逃げて。窓から」
あと一撃だけなら時間を稼げるから。プルーム。早く、窓を。
奴が立ち上がる。
僕にはもうなにも要らない。プルームの左手をつなぎ止めるだけでいい。
最後の一撃だ。振り上げたつもりの手がもう肩までも上がらない。持っていた火掻き棒も手から滑り落ちる。あとは僕の体だけだ。止める。本当にこれが最後のチャンス。体重を預けるように奴に倒れ込むが、手斧を横に払って倒される。
身体を折られるような衝撃のあと、痛みも音も消えた。
ぎりぎり光だけがそこにあるのがわかる。
倒れ込んだ絨毯の肌触り、流れ出す血の脈動。耳鳴りの音だけ。
助けられなくてごめん、プルーム。
第十章 コンタクト
「部屋にワープホールを開きます! ワープシールドをオフにしてください!」
「駄目! パネルを見せないで!」
同時に言われても困る!
ライトパネルを開くとアズールが飛びかかってくる。
が、コムギが立ちふさがってこれを阻止、私は体勢を崩して手をついて、パネルはクローズする。
アズールは手斧を持ち、コムギがそれを抑え込んでいる。
本当にこのパネルを狙ってるの?
「お嬢さん、そいつは手斧を持っているはずだ。国境の町で渡した連中がいる。その指示で動いているんだ」
扉の外から聞こえる言葉を聞いている暇もなく、アズールはコムギを壁に叩きつけ、すぐにこちらに飛びかかってくる。
「コムギ!」
アズールは私の頭を掴んで背後の壁に打ち据え、気を失いかけた私の左腕を脇に抱え込み、サイドボードの上に押さえつけ、手斧を手首に押し当てて体重をかける。
壁に打ち据えられて遠のきかけた意識を一瞬で呼び戻す激痛、絶叫し、アズールを押しのける。そのはずみで手斧は私の脇を裂く。
手はなんとかつながっているけど、心臓の鼓動に合わせて血が吹き出す。あたりが血に染まって行くなか、アズールはまた立ち上がり、向かってくる。
左手はもう動かない。アズールが手斧を振り下ろすより早くコムギの雄叫びが轟き、アズールに一撃を加える。胸骨を砕くような鈍い音。アズールのうめき声、バランスを崩しよろめくが、テーブルに手をついて留まる。コムギはいつの間にか暖炉の火掻き棒を手に握りしめて立っている。が、次の瞬間、アズールの手斧がコムギに振り下ろされる。コムギはこれを躱して床に転がり机の下からアズールの足を突き、アズールはそこにあったコートハンガーを持ち上げ、足元のコムギを潰そうと突き回す。
私はようやくパネルをポップアップ、音声コマンドでワープシールドをオフにする。
「シールド切りました! 大尉!」
コムギの姿は見えない。アズールはコートハンガーを投げ捨ててこちらに向かってくる。その後ろにぼんやりとワープホールが開き始める。
迫ってくるアズールの前に椅子が倒され、躓き、転ぶ。
次の瞬間、血まみれになったコムギが火掻き棒をかまえて私とアズールの間に立ちはだかる。中途半端に取れたリボンを右手で解いて、捨てて、コムギは窓を指差して何かを訴えてる。窓から逃げろってことかもしれないけど、もう体に力が入らない。
アズールが立ち上がったところにコムギは殴りかかる。
雄叫びをあげ、両手で火掻き棒を握り、が、その足はもつれ、アズールの手斧で薙ぎ払われ派手に倒される。
次の瞬間、その背後にワープホールが開き、大尉たちが飛び込んでくる。
ほぼ同時に小銃に擬態させた粒子砲が炸裂。
粒子砲の熱が生み出す爆発音が部屋の壁に反響すると熱線はアズールの頭を吹き飛ばし、その脳漿を含んだ熱波が私の前方から背後の壁へと駆け抜ける。耳鳴り、網膜に焼き付いた閃光と、焼けた肉と、金属イオンの匂い。
頭を失ったアズールの体は、そのままどさりとその場に崩れ落ちた。
*
私の怪我はすぐに治った。
左腕の傷は骨に達していたけど、この程度なら一日もあれば治る。
だけどコムギは違った。背骨のうちの三つが粉砕していて、彼らの器官には自己修復機能も無い。血も大量に失われているけど、適合する人工血液がわからない。それにどうやら彼はワンコではないらしい。おそらく地球人だ。地球人がまさかワンコと同じ姿をしているだなんて思ってもみなかった。
腹にある痣もベリチェに指摘されてからは臍のようだとは思っていた。すぐにそれを認めて、ちゃんと調べていたら良かった。
治療の際も、最初はワンコの血が適合するかと考えたけど違っていた。細胞構造も違うし、そもそもドメインから別。星が違うので当然といえば当然なんだけど、調べてみるとこの世界にワンコ型の哺乳類は少なくない。コムギがそのなかのどのタイプに属するか調べるのに少し手間取った。
細胞培養の準備が整うまでに三日。その間に遺伝子をシミュレーションして、培養が軌道に乗ってからは時間はかからなかった。その間脳には十分な酸素を供給していたので、機能は失われていないと思う。
屋敷の一部屋をデータルーム兼シェルターにした。シェルターと言っても都心のシェルターにパーマネントでつないだだけの粗末なもの。データルームはコムギを助けるためのデータ収集用だったのだけど、最近はずっとコムギと話をするための言語データを集めている。
「最近はどこもセキュリティが固いね」と、ベリチェ。
軍のシステムにアクセスできればおそらく地球上の主要言語に関してはデータが揃ってる。アクセスには高い認証が必要で、とくに目的もなくそんなことを調べていたら信用ランクは下る。学術関連だと相互認証は得られやすいけど、軍のデータを得るのは難しい。IDをロックされたら、私たちはもう生きてはいけない。私たちは文化に従属している生き物なんだ。
それでベリチェに頼んで、音楽関係者がかき集めたラジオ音声データから解析してもらっているのだけど、そちらもセキュリティが数段上がっているらしい。
そんななか、ベリチェが低い声で教えてくれた。
「国境の町のレプテーションが使える」
「レプテーション? どういう意味?」
「バグベア一体分の実績が振り込まれてる。それを使ったら、彼らのネットワークが集めたデータにアクセスできるよ」
アズールはただで譲ったつもりだった。しかも、アズールは手元に戻ってきたのに……
「どうする?」
「じゃあ、それで」
いわゆる裏社会の取引実績を、こんなところで使うなんてとは思ったけど。
音響データへのアクセスは簡単だった。そのファイルを見て気がついた。
どのファイルを見ても日付がおかしい。
「ベリチェ、今日、何日?」
「地球時間?」
「いや、母星標準で」
「10227のはず……あれ?」
ベリチェも気がついた。
「このタイムスタンプは何?」
「わからない。いま恒星図をチェック中。ミスかもしれないし。それにこっちに大陸を移すとき重力源を通った可能性がある」
「重力源を通っても、この時間のズレは起きないよ。可能性があるとしたら虚数空間を通ってる」
「じゃあこのタイムスタンプは単純なミス?」
大陸がワープインした時間と、こちらでワープアウトした時間の間にズレがあった。地球時間にしてマイナス三〇〇公転サイクル。つまり三〇〇地球年ほど過去にタイムリープしている。ベリチェが言うように虚数空間を通ってたとしたら、潮汐力でこの大陸は崩壊してる。
「それってつまり、この宇宙のどこかに三〇〇年前の私たちも存在してるってこと?」
「時間はそんなに単純じゃないしわからない。世界線を超えてるかもしれないし」
私たちは時間のことを何も知らない。『過去へ行く』が何を意味するのか、言葉でわかっていても、そこに何が起きるのかはまったくわからない。
「もしかして、セキュリティレベルが上がってるのってこのせい?」
「うん。私たち、第五水準の文明と接触してるんだと思う」
そう言うとベリチェが言葉を失う。私がどのくらい本気か測りかねているんだと思う。逆に教えて。私はいま、どのくらい本気でこのことを信じているの?
「時間をコントロールしてるのって、地球人?」
コムギのデータを見る限り、あり得ない。細胞膜ひとつとっても四世代は古い。カリウム40回路もないし、脳の活動量は私たちの数%しかない。
「明日辺り目覚めるかなあ」
モニターを見たままベリチェ。独り言かもしれないけど、一応、
「バイタルは明日の朝回復点に達する予定」と言うと、
「こういう時は『うん、きっと』でいいんだよ」と笑う。
うん、きっと。そうだね。きっと目覚めるよ。
問題は私たちだ。会話ができるくらいの単語が拾えるかどうか。
「日本語はそこそこメジャーな言語みたいだよ。ラジオもあったし、語彙数にして一万二千は蒐集できた。これでコミュニケーションは取れるんじゃない?」
私の不安を見透かしたかのようにベリチェが報告する。コムギが話す言語は母が撮った動画で確認出来ていた。あとはベリチェが言ったようにラジオは受信できたし、コムギの脳波解析で、言葉の意味もかなり照合できた。
あとは人工声帯をアプリで用意するか、自分で発声するかだけど、コムギと話ができるんだったらやっぱり直接話したいと思って、チョーカータイプの発声機を使って自分で話すことにした。
「ベリチェはどうする?」
「私は自動翻訳でモニター。必要だったらアプリで変換して大脳聴覚野に直接送る」
迷いはあった。
このままワンコと飼い主を続けるか、地球人とハイアノールとして接するか。
ワンコ同様の服を着せて、芸を教えて、トイレの世話をして、一緒に寝て、そうやって暮らしてきていまさら知的生命体として接するなんて、少しハードルが高い。
それに知的と言ってもグラデーションがある。語彙からどんな文化を持っているか概ね予測は付いているけど、価値観まではわからない。文明は第二水準。おそらく個人主義で、非科学的な信仰を持っていて、性欲が支配的で、執着心が強い。それを考えると、会話ができたところでお互いにメリットがあるような気がしない。ワンコのままの彼なら愛せると思う。だけどいくつか言葉を交わしてしまえば、きっと私は幻滅するし、ベリチェがアズールに取っていたような態度しか取れなくなる。試しに全語彙を人工知能に入れて会話をしてみたけど、ずいぶんと粗野な印象を受けた。
彼にはあらためて部屋を用意して、出入り口の扉も彼が開けられるように設定した。服も彼のサイズのものを着せて、ベッドで安らかに眠っている彼は、いままでのワンコとは違う表情をしている。それでも目を覚ましたら手を舐めに来るような気がして、そうしたら私はそのまま手を差し出すのか、諌めるのか、そんなことすらまだ迷っている。でも、彼がどうであれ、私はハイアノールだ。彼がペットの身に戻ろうとしたら、私が止めないといけない。
バイタル値は順調に上昇中。目を覚ませばもう立って歩けるどころか走ったりもできる。脳波も深睡眠域から抜けた。
同時に、アラートが発生。
地上の戦闘機がまた数機侵入したらしい。
昨日まではどうして反撃に出ないのか不思議でならなかったけど、おそらく上層は第五水準文明との接触を警戒している。大陸を移動させた時の時間のズレの原因がはっきりするまでは反撃はしないだろう。大陸外縁には地球の歩兵部隊が侵入したという話もあるけど、でもそれは所詮は歩兵を侵入させる程度の軍しか持っていないということ。
それから念の為、コムギを囮としてこちらへ侵入させた組織について調べたが、それに関する通信ログは一切残っていなかった。ほとんどの通信記録にはアクセスできたはずなのに、どうして肝心なところだけ。
「まだ起きない?」
ベリチェはノックとほぼ同時に扉を開ける。
「もう少しだと思う」
「起きたらデータルームに連れて来て。ポータルに生体認証をかける。念のためその子も利用できるようにセットしておきたいし、使い方も教えてあげたい」
だったら、と、私は彼を抱きかかえる。
彼の首筋に上る匂いは、たった四日離れていただけなのに懐かしかった。寝ぼけながら私の服を握る。ベリチェが呆れたような顔でこちらを見ている。
「大丈夫、もうワンコだなんて思ってないから」
廊下に出てデータルームへと移る際に父が声をかけてくる。ベリチェは先に行く。
「このあたりにも地球の歩兵が上がってきている。タイミングを見てここから離れるかもしれん。防衛システムも入れたので、バグベアの時のようにはならんがな」
「わかってる。交戦は?」
「相手は歩兵だ。気を失わせて地上に投げ返せばそれでいい」
そんなタイミングで抱かれていたコムギが目を覚ます。
「あ、ごめん、コムギ起きたみたい。話をしてみるからまたあとで」
コムギは何か話してるけど、ここじゃ何を言ってるかわからない。すぐ移動するからもう少しだけ待って。
データルームに駆け込むと、やっぱりベリチェが呆れた顔をしている。今度は何に呆れているの?
「その子、もう起きたんだ」
あ、そうか、起きたんだったら私が抱いてる必要ないか。
コムギを下ろして、すぐに人工声帯を装着する。
「こんにちは。私の言葉がわかりますか?」
コムギは不思議そうな顔をして私の方を見ている。
「私はフレア・カレル。この大陸の住人です。あなたとのコミュニケーションを希望します」
ベリチェが微笑んでいる。
コムギがベリチェの方を向いて、何か指示されて、頷いて、ソファに腰掛ける。
「ごめん、あなたが何の準備もなく話し出すものだから、よっぽど嬉しいんだなと思って。とりあえず座ってもらっただけだから、あとはあなたが話して」
どうやらベリチェは脳内に直接話しかけたらしい。私も自分の椅子に腰掛ける。彼はあたりを見渡して、着せられた服に目を落とす。
「この十七日ばかり、あなたをワンコとして扱ったことを謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げた。これが地球人の標準的な謝罪の作法らしい。
「いえ、あの、それは……」
いえ、あの、それは? 地球人から聞いた初めてのメッセージは、「いえ、あの、それは」だった。感動詞、代名詞、代名詞、係助詞? 地球人はこうやってコミュニケーションを取るのか? でもこれじゃわからない。聞けばいいのかな。
「主語がわかりませんでした」
コムギが急いで言葉を接ぐ。
「僕は大丈夫です。迷惑ではありません」
文章だ!
ようやく地球人が語る生の文章を聞くことが出来た!
「あなたが僕を守ってくれるって、この前お祖父様からもお聞きしました」
「えっ?」
祖父と話をしたの?
「あの、ええっとですね……」
感動詞、感動詞、助動詞、助詞……意味は? いや、これはただの呼びかけだ。
「キノコの家に行った日、一番奥の部屋でお祖父様が見せてくれたんです」
「えっ?」
コムギは戸惑いながら、コントロールサイトで見たことを話してくれた。そのなかでコムギはログを見たらしい。それを振り返りながら、私が馬で散歩に出てカイトを目撃した日のこと、それから起きたことを話してくれた。
そうだった。あのカイト、パラグライダー? ずっと前にもどこかで見たことがある気がして、あとを追いかけたんだ。背黒狼の声を聞いてあたりを探し回って、底なし沼にはまっていた彼を見つけて、だけどワンコだと思った。カイトで来たのは、私たちと似た姿のひとなんだって、勝手に思い込んでた。
コムギの話だと、私がアズールと呼んでたバグベアの男は工作員で、仲間とともに活動している姿が動画に収められていたそうだ。それなのに私たちに警戒する様子が見られなかったから気になって、見守っていたって。
コムギはあのバグベアの危険性を知ってたんだ。その時から私のことを守ろうって決めてたんだ。そう思うと急に愛おしさがこみ上げてくる。
「三〇秒待って」
「はいよー」
涙を止める時間が欲しかった。いままでワンコの衣装しか見たことなかったけど、ベリチェが用意した服を来た彼は、まるでハイアノールの少年。その彼が命がけで私を守ってくれた。三〇秒って言ったけど、三〇秒で涙を止める自信がない。
「地球人の言葉はわかりにくいね」と、ベリチェ。
確かに地球人の言葉は冗長な部分が多い。それでも本文は私たちと同じ再帰言語だから、そこはストレートに翻訳できる。バグベアとは違う。
「僕の名前はケンと呼んで下さい」
「ケン……」
当たり前のことだけど、ちゃんと名前があったんだ。
「私はフレア。そして向こうにいるのがベリチェ」
「フレアの名前はお祖父様から聞いていました」
そうだったんだ。悔しいなあ。マデリーさん、言ってくれたら良かったのに。
それから、いろんなことを話した。
彼は地球では事件や事故を取材して記事を書くひとだった。彼が機械式の飛行機と単身での飛翔による突入でこの大陸へ来たことも。それから、
「僕、トイレは自分でできますので、これからはひとりでトイレに行かせて下さい」
とも。
そう聞いて、私のほうが恥ずかしくなった。
この子はワンコと違って、話もちゃんと通じるし、ベリチェや母の音楽にも理解を示してくれる。私はそんな子にフリルのパンツを履かせて、トイレにはついて行って、トイレの後は水で洗ってあげていた。
「もちろんです。すぐに自動水洗のトイレを用意します」
「あるの?」
彼は排便の後に水で濯いでもらうのを恥じていたと語ってくれた。もしかしたらその必要があるのは人類だけかもしれないと深刻に考えていたそうだ。ごめんね、本当に。そんなことで気を使わせていたなんて。
話せば話すだけ地球人としてのケン、ハイアノールとしての私の間は縮まっていく。だけど、ワンコだった頃のコムギと田舎暮らししていた私とは遠ざかっていく。さすがにもう御者台に彼を抱いて乗ることも、彼で暖を取りながら眠ることもできない。
彼の方からも質問を受けた。
私たちのテクノロジーに関しては私が、国境の街で見かけたことに関してはベリチェが答えた。ベリチェの説明のなかには、私が耳を疑ってしまうようなものもあって、三人で黙ってしまうこともあった。
地球人の遺伝子の損傷が激しくて、あと数百年で劣勢因子が顕在化し始めて滅んでいくだろうと伝えると、彼はショックを受けているようだった。
話題はワンコにも及ぶ。
ワンコと私たちが呼んでいる生き物は地球人にとても良く似ているけど、卵生哺乳類で、臍がなくて、ずっと昔にどこかの星で採取されたものをベースに改良され、それ以来ペットや家畜として飼われている。私たちの食生活の殆どは合成食だけど、暇を持て余してレジャーで魚を釣る者もいれば、ハンティングに勤しむものもいる。そんな変わった趣味のひとのなかにはワンコを食べる者もいる。
「お祖父様の家にいたのはワンコですか? 人間ですか?」
と、ひとつ息を飲んだ後にケンが聞いてくる。
「ワンコです」
大陸の移動前から飼っているから、地球人ではない。
「もう一度会わせてもらえますか?」
どうして?
「僕たち人間に似ているから、もしかしたら人間かもしれないと思って」
その可能性はない。
彼らは生後十二年くらいで成人して、その頃に性別が定まる。祖父母の家にいるジュディはケンに会うまで性別は定まってなかったけど、あれから急激に雌化して、いまは哺乳類らしく乳房も発達してきている。私がジュディの映像をケンに見せると、明らかにケンの表情は変わった。
「これがいまのジュディ。これで人類と違うのはわかるでしょう?」
異種族のケンを雄と見做してホルモンバランスが変化したことは奇異にも思えたけど、視覚情報に依存する習性を考えると不自然ではない。ケンもジュディの肢体に惹かれているのは、なんとなくわかる。
ケンはしばらく考えて、
「僕と彼女の違いはどこにあるんでしょうね」
恐る恐る、静かに問いかける。
「寿命も細胞構造も体内の器官もすべて異なります」
と、答えてふと気がつく。ケンは私たちにとっての人類とワンコの違いを訊ねている。私たちが人類とどう接するつもりなのか、そこにワンコとの差異はあるのか。
正直なところ、何が違うのかはわからない。ワンコには文明も言語もないとされているけど、形態だけを見ると十分に科学技術を発達させうる姿をしている。彼らが言葉や文明を持っていないのは、私たちがその立場に押し込めているからかもしれない。長年私たちの肌を舐めることで摂取された化合物が、彼らの成長を阻害している可能性も指摘されている。
人工声帯を外してベリチェに訊いてみる。
「私たちにとってワンコと地球人は同じだと思う? 違うと思う?」
「これからの接触次第だと思うけど、同じとして扱われるだろうね」
私もそう思う。だけど。
「彼だけはそうじゃない、って言っていいかな? 彼だけは特別に扱うって」
「それはあなたの覚悟次第」
ここ数日で私の信用は相当下がっていると思う。目的も開示せずにデータアクセスして、そのデータをどう管理しているかもトレースできない。そんなひとの信用を保証してくれる機関は少ない。そんななかで地球人、第三水準ならともかく、第二水準にいる彼を私たちと対等に扱うなんて言い出したら。その昔、「ワンコと結婚する」と言い出して学会を追われた研究者がいたことを思い出す。
「彼を地上に返す手はいくつかあるよ。あなたのお父さんに送ってもらってもいいし、パラグライダーってのを返してやってもいい。逆にもしあなたが手元に置いておきたいんだったら、ワンコとして飼うか、そうでなかったらハイアノール同等の権利を認めるよう社会を動かさないといけない。前者はいままで通り。後者にはあなたの人生がかかってくる」
「ワンコとしてか……」
「かかってくるのはあなたの人生だけじゃないんだよ。そこまで考えて」
彼に文化的であって欲しいのはやまやまだった。私たちと同じ、文化を持ったひととして振る舞ってくれたら、私も彼を守ることができる。こうやって話だってできるのだし、彼をワンコと同等のものとは見做したくない。
人工声帯を装着して、ケンに向き直る。
「もう一度くわしく説明します」
ケンは真剣な目で私を見る。
私がワンコについて思っていることをすべて話すと、彼の方からもいろいろと話してくれた。彼自身、理性を捨ててペットとしての立場に甘んじようかと何度も思ったことや、ジュディに対する感情、ワンコとして飼われることの喜びと不安。
彼らは私たちと違って細胞分裂のたびに細胞が劣化する。それが細胞のストレスとなってメッセージ性の有機質が生成され、体内に拡散し、彼の行動を支配し、思想をも染める。それは細胞が劣化しない私たちにはわからない。だから思想以前の問題、本質的な部分で行動原理が異なる。私たちは、死と生殖というサイクルから開放された。それ以前だったら私たちも、生殖というゲームに時間を費やしていたのだと思う。細胞の欲求は、やがて肉体に拡散し、思想になる。だけどここで彼の肉体の欲求を、仮に私が受け入れたとしても、それではペットと同じ。
「私と交尾をしたいと思いましたか?」
「それは……」、彼は少し言い澱み、「はい。寝ている間、抑えきれなくて、何度も」
「何度も? 何度も交尾したの?」
「あ、いや、してないです。したいなと思いました。何度も」
びっくりした。さすがにそれは気がつくか。
「交尾をする時は言ってください」
「してもいいの?」
「仮にあなたが私と交尾を望むとしたら、私は受け容れることができます。ただ、受精も胚発生もしないと思います。それでも交尾を望みますか?」
「いや、それは……」
彼は言葉を失う。
私に卵を生んだ記憶は無い。だけど私の性別だと有機質バランスの調整でたぶん生める。それを胚発生させるとしたら、まずは彼自身の遺伝子を調べて、環境を整えて受精させる必要がある。自然な結合で不足するものがあれば、私の遺伝子で補わなければいけない。交尾をしたとしても、彼の遺伝子で活かせるのはたぶん1%以下。残りを除去して、私の遺伝子で補えば新しい個体を作り出せる。何もしなければ細胞質遺伝と遺伝子情報との間で不整合が起きる。
そう伝えると彼はかむりを振る。
卵も受精環境も提供できるし、胚発生から孵化まで面倒をみることはできる。
「そうやって新しい個体を作り出すことに、どんな価値を感じますか?」
かむりを振る。
そういうことではないらしい。
彼の交尾の目的は飽くまでも享楽でしかない。だけどそれを認めない。『崇高な生命の営み』と、交尾そのものを高尚なものと位置づけようとする。だけど違う。それは反対。交尾が高尚だから純度の高いコミュニケーションが生まれるのではない。純度の高いコミュニケーションのなかで共有されるのが、両者の肉体が共通して持つ欠点に過ぎない。
そう言うと彼は責められたかのように不規則なうめき声を上げる。
単なる肉体の欲求の話なのに、なぜか思想の話となり、呪術めいた命の話となる。その呪術性が彼らの文化の根幹だというのはわかる。その美しさには惹かれる。だけどそこに執着されると幻滅しか無い。
「あなたはジュディとの交尾を望んでいますか?」
そう聞くとまた彼は頭を抱え考え始め、天を仰ぎ、しばらくして意を決したように語った。その繰り返し。
「そういう単純なものではないと思います」
いや、単純なものだよ。あなたは交尾を望んでいる。あなたの細胞はただ、不完全な再生のストレスを受けているんだよ。あなたはただそれを代弁しているんだよ。そこにあるのは確かに複雑なタンパク質合成による化学的な連鎖だけど、その複雑さを心理に抽象化していたら問題は解決できないでしょう?
「交尾は、僕の身体が求めるかもしれないけど、それは僕の本心ではなくて、僕はわきまえています。だけどもし彼女と親しくなって、ずっと一緒に暮らすようになったら、たぶん交尾はすると思うんです。生殖のためではなく」
本質的に会話が成立していない。
「性欲を満たすため?」
「いや、コミュニケーションのためというか」
「では、あなたと私とのコミュニケーションにも交尾は必要ですか?」
「なんていうかな……」
彼は言い淀む。
「関係によるっていうか……」
それは要するに、生殖機能から生み出されるストレスを内面化しているだけ。お互いにそれを内面化した者同士なら、その傷を舐め合える。もちろんそれは悪いことではない。でも、私たちは違う。あなたの思いに一方的に応えるのであれば、それはコミュニケーションじゃない。じゃあ、私たちが共通して触れ合える喜びって、何? その接点がなければ、もしそれがあなたの側からは性欲でしかないとしたなら、私たちの間にコミュニケーションは成立しない。あなたが仮にジュディと合意し、交尾するとしても、私にはあなたと交尾をする動機がない。でも、
「ただ、精液は採取してみたい」
半数体だけど、細胞分裂によって劣化していない唯一の細胞だから、興味はある。
ケンが釈然としない表情で言葉を探しているなか、ベリチェが「今日はもうこのくらいで」と終了を促す。
もう少し前向きな何かをつかみたかったけど、意識の差は大きかった。しかもおそらく、彼はその隔たりに気づいてもいない。最後に、扉の開け方や原理に軽く触れ、それに続けて異種生命保護法に基づく説明を加える。
「――以上の権利を選択すれば、あなたはここで私たちハイアノールと同じように暮らすことが出来ます。異種知性体として正式に登録すれば国からの保護も受けられますし、もう二度とペットとして扱われることはありません」
ベリチェはそれを翻訳機を通して聞いている。
ケン、私はあなたに精一杯の誠意を示したい。地球人との接触が問題になる可能性はあるけど、せいぜい私の信用が下がるだけ。それで仮にいくつかのIDが剥奪されてでも、あなたのことは守りたい。あなたはワンコではない。地球人という愚かな存在でもない。私たちの側に来るの。
「今日は以上です。何か質問はありますか?」
彼は少し考える。
「ジュディには……」おずおずと口を開き、「その権利は与えられないんですか?」と続ける。
私はあなたのためにタブーを侵してるんだよ、ケン。だから無理なの、これ以上は。
私は彼に見えるようにチョカーを外して、目の前で床に落とした。馬鹿なことをしてると思いながらも、どうしてもそうせずにいられなかった。
夜、寝付けずに、コムギの部屋に行った。
コムギは布団の隙間から私を見てる。
「コムギ、行くよ」
呼ぶと、コムギはベッドの上で身体を起こす。
私はコムギの前に立ち、服を脱がせる。
「いい子だね。こんな服は好きじゃないでしょう」
コムギはいままでだったら隠さなかったところを両手で必死に隠している。そんな仕草は嫌い。ワンコはワンコらしくするの。
「おいで、コムギ」
コムギを抱き寄せると、戸惑いながらしがみついてくる。その耳元からはあの日、階段下の箱から連れ出したときと同じ匂いがする。そのまま部屋に戻り、ベッドに寝かせて、私はコムギを背中から抱きしめて、人工声帯で話しかける。
「私、あなたのこと、コムギって呼んでたの。あなたの髪の匂いは麻薬だと思った。いまもそう、こんなに私をリラックスさせる匂いはないと思う」
深呼吸するといろんなことを思い出す。コムギは私のシャツの裾から手を入れ、ゆっくりとそのなかに潜り込む。少しくすぐったいけど、でも、
「そう、それでいいの。あなたにはずっとワンコのままでいて欲しかった。知性がある素振りなんて見たくなかったし、ずっと友だちでいて欲しかった。でもたぶんもう、無理なんだよね。それはしょうがない。諦めるよ。でも今日までは。今日までは私のワンコでいて。コムギ」
シャツの袖から肘を入れて、コムギの頭を探して指を舐めさせる。シャツのなかいっぱいに広がるコムギの甘い匂い。緊張が解けて、体中の羽が開く。ずっとこうしていたかったんだ。コムギは手首を舐めて、身体を返して、肘の内側を舐める。この子の生殖器がたまに固くなってたのは、私に欲情してたんだって、いまになって気がついた。種族なんて関係ないんだ、この子には。
「私たちの細胞の侵襲性は高いよ」
ハイアノールの体内には無数の遺伝子修復用のRNAが駆け巡っている。
「ウイルスってわかる?」
コムギは私の胸に舌を這わせる。
「接触によって私のRNAの一部があなたの身体に侵入して、熱が出たりするし、場合によってはあなたの遺伝子が書き換わるよ」
私はあなたを内側からゆっくりと壊していく。それに、お互いの常在菌が交換されるけど、あなたの免疫性は私ほど高くない。あなたの細胞にも、器官にも、自己修復機能はない。粘膜接触なんてしたら、私のRNAは凄まじい勢いであなたの細胞を侵食する。バグベアに平行伝播したように。
そんな説明をろくに聞きもしないで、コムギは鼻と舌を使って、もっともっと甘いところをと探す。羽毛を開いたその下の柔らかい肌を探るように、胸から脇へ、腹部へ、更に総排泄腔へも指を延ばす。
それでも交尾がしたい、と。ケダモノだ。
やっぱりあなたはワンコでいるほうが幸せだと思う。
ため息が出る。
こういうことになるんだったら、RNA侵襲をモニターしてればよかった。
そうか。そうだな。それだ。
「ちょっと待って、コムギ。やっぱりちゃんと記録させて」
両脚の間からコムギの顔を引っ張り出して、ベッドから身を起こす。
擬態させたランタンをセンサーパネルに戻して、バイタルモニターを起動する。
「なにそれ?」
コムギが不思議そうに見ている。
「バイタルモニター。生命活動のいろんな情報を記録できるの」
「そんなもので何を……?」
「何をって、記録」
モニターを枕元にセットする。ふたりの鼓動をしっかりと表示している。アラートが鳴りっぱなしで、すごい勢いで知らない有機質が生成されている。分子レベルで見るとやっぱり未知の生命体、すごい。このなかに性欲を喚起させている有機質がある。
試しにコムギの生殖器をいじってみると合成される有機質の傾向が変わる。
「おおー」
知らない有機質が次々と現れる。アラートが鳴りっぱなし。
いくつかの有機質にマーカーをつけて、アラートをオフにして、尻と手を使ってずりずりとベッドのなかに潜り込んでそのまま横になる。準備万端だ。
「交尾していいよ」
「はあ?」
果たしてどんなデータが取れるのか、考えるとドキドキしてきた。
さあ、コムギ、早く。
あなた今日まではワンコなんだから。
そして――記憶する限りでは初めての交尾。
それはまるで、羽根のないコムギの羽ばたきのようだった。
第十一章 失望
実家のリビングには、よくオカルト雑誌が置きっぱなしになっていた。そのなかには、怪しい記事に紛れて、実在のいろんな科学者が、自分の体を使って実験に明け暮れる話があった。
ガラガラヘビの毒が電気ショックで治ると信じた者、猫の耳から獲ったダニを自分の耳で育てた者、グリズリーの攻撃にも耐えうるスーツを開発した者――
そんな奴、滅多にいるはずがないと思っていた。
いや、実際に記事になるレベルのひとはそうそういない。いたら取材に行ってる。
百年の恋が冷める瞬間っていろいろあると思うけど、行為の後、スポイトで精子のサンプルを容器に移している姿を見て、つくづく思った。フレアはそんな変人のひとりだって。
でも、
「プルームって呼んでもいい?」
と、聞いた時、
「名前は好きに呼べばいいよ」
そう返事をしながら、泳いでる僕の精子をモニターで見てる瞳はやっぱり綺麗だった。
彼女は僕のことを、しばらくは「ケン」と呼んでくれてたけど、いつの間にかコムギに戻っていた。それと彼女によると、地上の軍は僕のことを『デコイ』、すなわち囮と呼んでいるらしい。つまりそれは、僕がこちらで動き回る影で、裏で何か作戦が動いているということだと思うのだけど、あまり実感がない。もし本当にそんなことになっているとしたら、プルームたちに申し訳なくてしょうがない。そう言うと彼女は、
「別に地球人が何を企んでも、問題はないよ」と言う。
いや、でも。
「地球人だって、犬が囮を送り込んできても、気にしないでしょう?」
うん。そうだね。地球人って、やっぱり彼女たちにとっては犬なんだ。
そういえば、怪我が回復した日に、「今日まではワンコでいて」みたいなことを言われたけど、そのあと何か変わったかというと、それほど変わった気配はない。箱のトイレとは別に、部屋のなかに最新式のトイレが用意されたけど使い方がわからなくて、箱の方を使ってみると彼女は僕を洗い場に連れて行って、お尻を洗ってくれた。僕の部屋も用意されたけど、夜は必ず彼女の部屋に連れて行かれた。でも、彼女と言葉を交わせるぶん、いままでとは違う。
「ベリチェは恋人かと思った」
枕元のランタンの灯がベッドをゆらゆらと照らしている。ゆったりとしたシャツだけを着たプルームは仰向けに寝たまま、光のモニターを空中に固定させて、さっきまでの行為を見返してる。映像に重ねていろんなグラフや文字が並んで見える。
「恋人っていうのは地球の言葉の意味で?」
「恋人って言葉、ないの?」
「似たような言葉はいくつかあるけど」
まあ、僕らにも恋人とか彼女とか、微妙に違う言葉はあるし。
「夫婦は?」
「あるけど、固定した関係じゃない」
ちょっとよくわからないんだけど、もしかしてお爺ちゃんが言ってた『演じてる』ってこれか。彼女らの家族って演劇みたいなものなんだ。
「ベリチェは女の子?」
「表出した性別は女の子に近いみたい。いまは」
またこれもちょっとわからない。
見た感じ彼女たちハイアノールに男女の性差は少ない。プルームの仕草は女の子っぽいけど、それは猫がオスを見てもメスを見てもセクシーなのと同じような女の子っぽさで、人間の女の子とは似ていない。
「私たちの性別を決定づける遺伝子は四つあって、その組み合わせで性別が変化するから、厳密には性別は十六種類。そのうち女の子になるのが五種類、男の子になるのが五種類、両方出るのが一種類、あとは有機質バランスによって変化する」
「ああ、なるほど。ベリチェは変化するタイプ?」
「本人はよくわかってないみたいだけど、多分そう」
「変化っていうのは、子宮とかはどうなるの? 男から女に変化したら自然に発生するの?」
「卵生だからあなたたち地球人とは構造が違うけど、生殖器は自然と変化する」
「すごいなあ」
「私たちの場合、安定形態が男性型と女性型と両性型の三パターンあって、遺伝子によって有機質バランスが変化するから、それで表出する性別が変わる。有機質の閾値を越えたら七日くらいで変化するよ。細胞の仕組みが地球人とは違っているから、変化は早いの。変化中は熱が出て、羽毛が開きっぱなしになるからひと目でわかる」
「そうなんだ。地球人は遺伝子で性別が変わるんだけどね」
というと、プルームは笑う。
「それ、あなたがそう思ってるだけじゃなくて、地球の生物学者もそう言ってるの?」
空中のモニターを払って、興味深げに僕の方を向いて顔を寄せてくる。
いや、はっきり聞いたわけじゃないけど、授業ではそう習ったし……
「そうだと思う」
「地球人ってそのレベルかー」
ごめん、地球の生物学者の皆さん。僕のせいで恥をかかせているかもしれません。
「あなたたちの細胞は低機能だから、遺伝子による決定がそのまま肉体に出るだけで、もう少し細胞の機能が高かったら、有機質バランスによって生まれた後でも性別は変化すると思う」
「そうなの?」
「うん。まさか、そこから?」
プルームに言わせると、胎生の生物は身体レベルも文化レベルも概ね低いらしい。
「地球では胎生のほうが進化してると言われてるんだけど」
「そうそう、あなたたちには進化って言葉があるよね」
「あ、もしかして進化って考え方が間違ってますか?」
「あなたと話すときは、あなたに合わせて進化という言葉で言うしかないけど、進化だと前に進んでるみたいじゃない。でも本当は違う。ただ安定する形態に向かって変化しているだけ。環境のストレスが低い方へ。だから環境が変われば逆方向での変化もありうるわけでしょう? それを進化とか退化とか言うの、変だと思わない?」
どうして卵生が有利かって聞いたら、胎生だと胎児の成長に必要な環境に母体そのものを置くしか無くて、それがナンセンスだって。
「たとえばあなたたちが、いまの半分の重力の星に行くとするよ?」
って、そのケースを考えたことなかったし。
「火星は?」
あ、そうか。
「そこで受精、胚発生するためにはメスは地球環境と同じ場所にいないといけないのよ? 卵生だと卵だけ環境を変えてあげればいいのに、母体ごとって、ナンセンスだと思わない?」
堕胎の際のストレスも胎生の方が大きい。変化の落ち着いた惑星では繁殖できるけど、環境の変化に弱いので長期的に文明を発達させるのは難しい。
「いろんな星を自分たちに合わせて破壊してまわるのは、だいたいは哺乳類」
そう言いながらプルームは人間を卵生に変えるために必要な遺伝子操作をシミュレーションし始める。どうなんだろうなあ、これ。実現したら出産は楽になるかもしれないけど、反対するひとかなり多いと思う。
「卵生になると、母乳で育てることはなくなるんだよね?」
「そんなことないよ。卵で生んで母乳で育てることはあると思う。ワンコがそうだし」
ああ、そうか。
母体の安全よりエロスを優先して考えてしまった自分が情けなかった。
「あ、大丈夫」
シミュレーションが終わったらしい。
「卵生に変更できるよ、遺伝子だけで」
「本当に?」
なんか、車を買う時のオプション変更並みの気軽さだ。
「卵子と精子のサンプルがあればすぐに作れる。あとは卵子だね」
待って。僕の精子勝手に使う前提で話さないで。
プルーム曰く、細胞構造を変えずに操作できるものは簡単なんだそうだ。難しいのは細胞内に特殊な器官を必要として、しかもそれが遺伝子情報や環境に依存するような場合。
「人類の場合、細胞膜が四世代くらい古い」
スマホみたいな言い方する。
「たとえばベリリウム耐性をつけるには、細胞内小器官としてベリリウム小胞が必要で、遺伝子情報にベリリウム輸送系アミノ酸の生成コードが必要になる。他にも細胞膜がそれを透過させないと意味がないし、消化器も対応しないといけないし、その変化によって別の場所に影響が出る可能性もあって、更にいえば劣性遺伝として問題が生じる可能性だってある」
だから、原理的に可能でもまず実現しない、と。それに、細胞にその機能があっても、肉体に現出した器官を機能させられるかどうかは、それぞれの種の置かれた環境による部分が大きい。
「肉体とはいえ、化学的な反射の集合体でしかないからね」
って。
ちなみに僕の身体に出ている発疹は、プルームの汗に含まれているベリリウムが原因らしい。放置してたら死ぬって教えてくれたけど、僕が知りたいのはその先だよね。死なないためにどうしたらいいか。でも、あんまり興味を持ってくれない。
それで、
「遺伝子操作でどんな最強生物でも自在に作れそう」
と言うと、また鼻で笑われる。
生命というのは環境に依存し、適応したものだから、環境と無関係に存在するものは作っても意味がないし、生存はしないんだそうだ。
「何を捕食して、どう生活していくかを考えると、最強は意味のない言葉。むしろ生命というのは、個体ではなく環境のこと」と。
それでも、アニメやゲームのラスボスとして登場する最強生物のようなものは作れるんじゃないかと聞いてみたら、「それに最も近い存在は宇宙船」なんだそうだ。「しかもそれを考えるのは決まって哺乳類」って、なんかいちいち馬鹿にされてる気がする。
「宇宙船は第三水準になると積極的に作られるようになるけど、宇宙空間を長期間旅して、自律的に自己修復・自己複製するようにプログラムされるので、実質的に生命と同等に振る舞うし、定義上は生命になる」
なかの乗組員は寄生虫か体内細菌のようなものだろうか。
「でも、宇宙船に意思はないよね?」
と言うと、
「意思なんて、どの生命にもないよ。それは、多くの未開人が陥る幻想」
なんて答えが返ってくる。
でもなんか、永遠に話してられる。話の内容なんかもうどうでも良くて、胸に耳を当てて聴く頭の奥底に響くような声が好きで、ずっとプルームの胸に顔を埋めてる。
「この大陸にも第三水準文明の遺跡があるんだけど、こんど観に行く? アルミラ・ディートっていう伝説のパイロットが落としたって言われてる宇宙船」
そう聞いて僕は、初めてデートに誘われたときのようなときめきを感じた。いや、誘われたのは人生で初かもしれない。そして彼女は、そんな僕の心拍数や血圧の変化を見て喜ぶ。
朝起きて、伸びをして、ふと手斧で薙ぎ払われた時の感触を思い出す。あの時、僕の背骨は確かに砕かれたんだと思う。手斧が肋骨を折り、その刃が僕の肉に滑り込んで行く感覚を確かに覚えていて、それが蘇ると息が詰まる。あれから数日しか経ってないのに、こうして普通に暮らしているのが不思議だ。これが彼女らの文明レベルなんだ。
プルームによると、僕ら地球人の文明レベルは第二水準なんだそうだ。熱エネルギーを回転エネルギーに変換して利用するレベル。ガソリン車とか、原子力発電とか、そういうのはすべて第二水準。
第三水準は、波動エネルギーを直接利用するらしい。波動エネルギーというのは電磁波や熱振動、あるいは波や音。これを回転運動に変えることなく直接利用する。プルームの話では、地球ももうすぐ第三水準に入るはずで、その前後で細胞の不死は実現するし、器官の自己修復機能も得るだろうと言っていた。つまりハイアノールのような不老不死の体を得るまでに順調に行けばあと一〇〇年から二〇〇年。プルームは以前、地球人はあと数百年で滅びるとも言ってたけど、永遠の命を手に入れてしまえば、それも避けられるかもしれない。ただ、プルームは楽観してなくて、
「一〇〇年から二〇〇年は最初のサンプルの出現。文明全体がそれを獲得できるとは限らない。そちらのほうがハードルは高いよ」
と、せっかくの希望を打ち砕く。
「地球って、コスト0のリソースを配分するルールってある?」
そう訊ねられて、果たしてどんな意味かと考えてしまう。君の目の前にいるのは、蒙昧な大衆のひとりなんだ、プルーム。
「第三水準になると、エネルギーのコストは実質0になるから、『無料でいくらでも手に入るエネルギー』を生産して分配する仕組みがないと社会が崩壊する。第二水準まではエネルギー問題は資源の問題、つまり有限問題だけど、第三水準からは排熱と分配の無限問題になる。第三水準に移行しても安定してる種って、そもそも資源のない星から生まれるケースが多くて、地球の例でいうとたぶん、光学レクテナの量産でアルベド下がって熱死する」とのこと。
わかった、そこは宿題として持ち帰るとして、じゃあ第四水準は?
「空間を超える技術を手にしてからが第四水準」
なるほど。それでハイアノールは遠くの星から地球へ来たんだ。
「第四水準まで来ると、虚数距離、虚数時間という概念を扱えるようになるから、そこから得られる負の速度や距離で、実際の次元の距離を0にできる。例えるなら……『後ろ向きに歩いたら時間が逆転する次元』ってのがあって、移動する時に、そっち方向に体を向けることで、時間も距離も0にできるの」
聞いてもわからなかった。
「それで、圧縮した空間を持ち歩けるようになって、その内部で真空崩壊を引き起こせばいくらでもエネルギーを取り出すことができる。それを物質に転換すれば何でも自在に手に入るし、真の真空になった空間は宇宙超球内部の空間とスワップする」
やっぱりメモがないと取りこぼしが多い。どうやら真空からエネルギーを取り出すらしいことはわかったけど、その原理がわかったかといえば、わからない。
第五水準文明に関しては、
「たぶん、時間を超越している。私たちのいる宇宙超球表面ではなく、宇宙超球内部の方にいると思うけど、そこがどんな構造をしているかはまったくわからない」
とのこと。宇宙超球の意味まではもう聞く気がしなかった。
その日の午後は、ベリチェと交尾させられそうになった。
プルームはリアルタイムでモニターしたいと言い出して、ベリチェも「あんたって子は」とか言いながら了承していた。でも、自分のなかでどう納得して良いかわからず、ベリチェとの交尾は断った。もちろんベリチェが嫌いなわけではないし、プルームに操を立ててるわけでもない。だから、もう一度誘われたら、ちゃんと断れる自信はない。
結局その日はベリチェがセンサーを操作して、プルームがモニターを見ながらあれこれ指示しながら交尾をすることになった。気まずい作業のなか、なんとか役目を果たして、採取した精子が泳いでる様をふたりで眺める姿には変にときめいた。僕の精子が泳いでるだけなのに、こんなにも喜んでもらえるなんて。でも実は今朝から、僕の肝心な部分は心なしかかぶれてる。粘膜の部分が白く薄皮が浮いたようになってて、痒い。
終わったあと有機質の数値とやらを見て、ふたりはひとしきり騒いだ後、
「ジュディとは交尾できる?」
と、聞いてきた。
以前にも聞かれたことがある。あのときは恋愛観を問われたんだと思ったけど、いまは実験に協力できるかどうかを聞かれている。
「この前ビデオ見せたよね? ジュディ、あなたと会ったときは性別が決まってなかったんだけど、あなたに会ってから雌が確定したみたい。いまは結構目立つ乳房があるよ。交尾も出来ると思う」
動画で見たジュディは完璧な美少女だった。容易に見せてはいけない部分まであけすけに見せられた。僕と会ったことでホルモンバランスが変化してそうなったのは、誇らしくもあったし、もうそれだけで男として認められたんだって安心感もあるし、責任も感じる。むしろ、重い。
「人間にとって交尾というのは、そんな単純なものじゃないから」
と、断ってみるものの、ベリチェとプルームはその間もバイタルモニターをチェックしてあれこれ話している。プルームはチョーカーを外して僕には聞こえないようにして、ベリチェにだけ何か話して笑っている。おそらく僕がジュディとの交尾を思い浮かべて興奮したのが数値に表れたんだと思う。人間として扱ってもらえると思ってたのに、この扱いはなんなんだろう。
「でも、交尾するってことは、妊娠、出産とあるわけだし……」と、渋っていると、
「無精卵だろうが有精卵だろうが生むものは生むから、別にいいんだよ、気にしなくて」
ああ、そうか。恋愛観の違いはその差か。卵生、想像以上だな。
ジュディと僕とでは種が違う。ジュディは卵生哺乳類、つまり卵で生んで温めて孵して、子は母乳で育てるらしい。困ったもので、ジュディが卵を温める姿を想像すると興奮してしまう。ジュディの卵管を通って排出された卵を、平常心で見れる自信がない。でも異種族だし、地球にはいない菌を持ってるし、僕にとってもリスクが大きい。それはプルームと交尾するのも同じことだけど、何も知らずにがむしゃらに求めていた頃とは違う。正直、若気の至りと後悔している。
だいたいプルームは行為の前はお互いの常在菌がどうのって言ってたけど、終わった後は何のケアもない。どう考えても生身で応じて良い実験じゃない。
ただやっぱり心は動く。ジュディの性別が確定してなかった時でさえ理性を奪われていた。彼らに飼われて長い月日をかけて交配して作られたんだろうけど、体型や仕草、肌の感触も何から何までパーフェクト。交尾はともかく、いやこの際コミュニケーションもともかくとして、肌を寄せて暮らせたらそれだけでいい。仲良く写真に撮って先輩に送るだけでもいい。
翌日、プルームがシミュレーション結果を見せる。僕の精子を操作して、ジュディの卵子に受精できるようにしてくれたらしい。
「これをジュディに受精させてもいいけど、あなたの精巣のなかの精子を使って直接試してみたい」
僕が書く物語は、異文明の女性との叶わぬ恋物語なのに、このひとたちの物語は生物部日誌みたいになってる。だいたい『交尾』って言葉の使い方が軽い。言葉が交わせたら、『人と犬』じゃなくて『人と人』の関係になると思ってたのに『人としゃべる犬』にしかなってない。
「ちょっといい?」
と、プルームは僕のズボンに手をかけてる。僕が何も言わないでいるとプルームは首筋を見せる。一番甘みが強いところ。舐めればおとなしく従うと思ってる。舐めるけど。
「というかプルーム、僕の体の発疹って、ベリリウム中毒だよね?」
「うん、たぶんそう」
いや、たぶんそうじゃなくて。
舐めてるうちにズボンを脱がされて、何か冷たい機材を押し当てられる。ぶーんって振動の後、「いい子だったね」って頭を撫でられる。蕩ける声。僕もプルームが大好き。
それから馬車で切り株ハウスに移動する。
手綱はアデルが取って、キャビンには僕とベリチェとプルーム。ベリチェとプルームは楽しそうに歌を歌ってる。この最高に幸せで、蕩けるような日々のなかの、なんとも言えないやるせなさ。
切り株の家につくと、すぐにベリチェが奥へ行ってジュディを抱いて居間に連れてくる。可愛い。まだ性別がなかった頃に感じた僕の興奮は間違ってなかった。知ってたんだ僕の本能は。Tシャツは着てるけど、体つきが変わったのはわかる。後ろで僕のバイタルをチェックしてるプルームが「わお!」とか言ってる。なんかもう、体中のいろんな分泌腺からありとあらゆる分泌物が出てるのが自分でもわかってる。
ベリチェがジュディをソファに置いて四つん這いにさせる。ジュディはなされるがままベリチェの顔を見たり、僕の顔を見たり。可愛い。何百回でも言える。可愛い。プルームは僕の服を脱がせながら、ベリチェに指示を出して、ベリチェはジュディを立たせて同じように服を脱がせる。
先輩に浮遊大陸に行けと言われたときと同じだ。僕は少し嫌がるようなフリはしているけど、だれかに背中を押してもらいたいだけ。いまなら断られても、場合によってはジュディが多少嫌がったとしてもプルームとベリチェのせいにできる。
もう軽蔑しかない、こんな自分に。
いや、それすらもポーズでしょう。
僕は辟易しているって自分に言い聞かせれば、正しい人間の側でいられるんだから。冷静だと思うんだ、いまの僕は。初めて彼女を見た日から比べると全然。それなのにいまのほうが歯止めが効きそうにない。冷静でもやっぱり止められないって、じゃあ理性ってなんなの。
ジュディはとても綺麗な脚をしている。それに、卵生とはいえ哺乳類。どうしよう。彼女らが「ほら、こんなに大きくなった」と言って指し示す乳房だって、そんなに大きくはない。正直、後ろめたさしかない。でも、彼女だって望んでるし、僕らはきっとツガイになるんだし、卵を孵したら、ふたりで育てるんだよ。逆に僕を戸惑わせる理由って何?
プルームが僕の背中をつついてソファの方に押し出す。
「さあ、始めましょうか」
って。
同時に奥からお婆ちゃんが現れた。お婆ちゃんはプルームに何か話して、プルームとふたりで外に出て行った。ベリチェはそれを見送るとソファに座って、裸になったジュディを膝に乗せて髪を撫でる。
そして僕に手のひらを見せて、
「待て」
性欲のない種族は残酷だ。
「こんなのはもう嫌だ」
口に出してみたらベリチェがこちらを向いた。僕の言葉は聞こえているらしい。
「あんたたちにはわからないかもしれないけど、性欲を弄ばれるのは嫌だ。
ずっとこいつとどう付き合えばいいか悩んで生きてきたんだ。こいつのせいで何度も失敗してきたし、これからもそうだ。でも、それでも、時々こいつに自我を乗っ取られながら、これからも生きていくんだ」
ベリチェは黙って聞いている。
「それを弄ばれたくない」
真剣に言ったのに、ベリチェはジュディの両足を持って交互に上げて見せる。まったくもう。
しばらくしてお婆ちゃんとプルームが戻ってきて、おばあちゃんはジュディを奥へと連れて行った。プルームとベリチェは何か話して、僕に服を着るように促して、それを待って切り株ハウスを後にした。お婆ちゃんに諌められたってことなんだろうな、と思ったけど、聞けなかった。
「ごめんね、コムギ」と、プルーム。
それは僕を完全な生殺しにしてしまったことに対してですか?
「どうしてもワンコとして見てしまう」
うん。僕もワンコとして扱われるとワンコになってしまう。それで愛されるんだったらそれでもいいかな、って。そう考えているとプルームが溜息。
「あなたは地上へ帰ったほうがいいと思う」
突然切り出された。おばあちゃんに何か言われたんだろうけど、切り替え早いよ。
「でないと、またあなたをワンコ扱いしてしまう」
「待って。いきなり言われるのは悲しい。プルームとは別れたくない」
プルームは首を振る。
「あなたの選択肢はふたつ」
ふたつ? 地上へ戻るか、ワンコになるか?
「私の部屋にあるパラグライダーで地上に戻るか、乗り込んできている軍に保護してもらうか」
どっちも地上帰還ルートじゃないか。
「僕は人間としてここに残りたい。君とお互いに尊重されるような関係になりたい」
「ごめんなさい。これは私のわがままなの。私はあなたをワンコ以上のものとして見ることができない」
だったらワンコでもいい。ジュディと家庭を築いて切り株ハウスに住んでもいい。それにジュディを捨てては行けない。人間じゃないってわかったからって、それで見捨てたら結局は種族の壁を肯定するってことでしょう? そんな壁は無いって信じたいんだよ。僕にとって、僕と、プルームと、ジュディは同列なんだよ。僕がプルームの側なのか、ジュディの側なのかみたいなことじゃないんだよ。
だから……
「ジュディと一緒でもいいなら」
一旦はそう口にしたものの、僕自身何を言おうとしているのかわからない。
「ジュディと一緒でいいなら、地上に帰ります」
いや、本当は帰りたくなんかない。でもこの条件なら呑めないんじゃないかって、言ったあとでちょっと手応えを感じる。
でもプルームの表情は曇る。
プルームはチョーカーを外して叩きつけるようにシートの上に置いた。
僕の目からはそれは明らかな嫉妬に見えるんだけど、違うの?
さっきは無理矢理交尾させようとしたくせに、どうして?
プルームは明らかにふてくされていて、ベリチェがそれをなだめるように声を掛けている。
ねえ、ベリチェ、プルームのそれって嫉妬だよね? 違うの? 嫉妬してるのにどうしてジュディと交尾させたがるの? さっぱりわからないんだけど?
翌日、朝早くプルームが部屋に来てパラグライダーのキャノピーとハーネスを僕によこす。何も言わないけど帰れって意味だってわかった。
「ラインがもつれてて、このままじゃ飛べないので」
と言っても、「もう馬車を出すから」と、ちゃんと畳みもしないまま部屋を追い出された。馬車に乗せられて、狼がウロウロしてる丘のあたりに放り出されるんだと思うとどんどん心細くなってくる。だけどもうこれでプルームへの恋は冷めた。あいつはおかしい。そんなことを思いながらラインのもつれを直す。
ほどなくして切り株ハウスに到着する。意図がわからない。
ハウスに入るとジュディと老夫婦がいて、お婆ちゃんとプルームが何か話し始める。その間僕とジュディはお爺ちゃんに遊んでもらってるんだけど、こんな状況を楽しめるわけもなく。それでもジュディの一挙手一投足から目が離せない。
しばらくして、お婆ちゃんが自動翻訳で話しかけてくる。
「本当にジュディのことが好きなの?」
なんてこった。
好きだけど、どういう意味かによる。プルームより好きかっていうとそれは違う。ひととして好きかっていうとそれも違う。自分と似た境遇で、自分たちの種族のなかのとびっきり可愛い子と同じルックスをしてるって意味で好きだけど、それを好きって言っていいのかわからない。それにもし好きって言ったらどうなるの? ふたりで野に放たれるの?
でも答えは二択だ。好きか、そうじゃないか。あの子とともに逃げ出そうと夢想して、交尾しようとして、好きじゃないなんて言っていいわけがない。
「好きです」
それしか言えないじゃないか。
プルームがそっぽ向いたのが見えた。
プルームだってベリチェが好きだろうに、それとこれとどう違うというんだ。
だいたいなんでこんなことで悩んでいるんだ。気にせず地上に戻ってしまえばいいのに。さっきあいつはおかしいってひとりで納得したじゃないか。
泣き出しそうな僕をよそに、お婆ちゃんとプルーム、そしてお爺ちゃんも来て何か話をしている。おそらく僕とジュディを地上に返す算段をしているんだ。
プルームの態度を見てると嫌がらせだとしか思えない。「そんなにふたりで生きていきたいんだったらどうぞご自由に」、って。
会話が成立してから何度かジュディのことを訊ねたし、そのたびに嫌な顔をされた。扱いはあたかも、『犬への性欲に囚われた変態』。そりゃあ性欲だってゼロじゃない。でも仮に一〇〇%だったとして、だったらどうなの。プルームだって、ずっと僕の匂いを嗅いでる犬フェチじゃないか。
でも悩んでる場合じゃない。ここを追い出されたらすぐに飛ばないと狼が襲ってくる。とりあえずジュディを抱き上げて体重を確認する。
おばあちゃんが両手で顔を覆って涙ぐむ。「この子たちったら」みたいな。そんなんじゃないから。生き延びる方法を模索してるんだから。
そう重くないけど、四〇キロとして僕が五七キロ、キャノピー六キロ、ハーネス三キロで一〇六キロ。二〇キロオーバー。風次第かもしれないけど、三〇キロ飛ぶあいだ彼女にはしがみついていてもらわないといけない。ヘルメットもレスキューパラシュートもない。だいたい海の上で上昇気流になんてアタリがつけられないよ。無理だ。僕ひとりにしか地上へ帰る手段はない。
考えていると表に出るよう促される。
プルーム、やっぱり無理だ。
ここに残りたい。
聞こえてるよね、プルーム。ベリチェも聞いているんでしょう?
キノコハウスの前には乗ってきた馬車とは違う近代的な……いや、未来的な乗り物が停められている。僕とジュディはそこに乗せられる。プルームは?
プルームはここで見送るの?
せめてさよならを言わせて。
乗り物は動き出す。
振り返って見るとプルームがしゃがみこんだ。
泣いてるじゃないか。
プルーム!
乗り物はいままで入ったことのない森のなかに入っていく。丸太や小川を平然と越えていく。たぶんホバータイプの車だ。いや、それも違う。木を通り抜けた。なんだこれ。途中、軍の歩哨が立っている場所があるが、その横を平然と通り抜ける。その直後、国連軍か米軍かわからないけど、軍の駐屯地のような場所に出て、そこで扉が開く。周りには武装した兵士が何人かいるが、だれもこちらには気がついていない。迷彩で隠しているのか。しかも音まで消していることになるし、場合によってはレーダーも掻い潜ってる。
ジュディと僕がそこで降りると、ようやく姿が見えたのか、周りの兵士たちが一斉に反応した。
僕は両手を上げて、アイ・アム・ジャパニーズ・ジャーナリスト、ドント・シュート、プリーズ・ヘルプ・ミー、と、それらしいことを必死に叫んだ。
地面に伏せさせられ、英語で名前や所属、出身地などを矢継ぎ早に問いただされて、僕は質問に答えながら、シー・キャン・ノット・スピーク、バット・シー・イズ・ヒューマン、ウィー・アー・セイム・ヒューマン、文法なんかもうよくわからないけど、とにかく伝えるしかなかった。
僕の背後にいるはずのさっきの乗り物はもういない。
そういえば、パラグライダーをプルームの馬車に忘れてきた。
第十二章 キャンプ・フォーマルハウト
キャンプ近くに駐機する回転翼機の姿があった。
米軍のものだろうか。グアムからの距離はもう記憶にないけど、往復の航続距離を考えると空母から出たものだろう。六枚羽根、両肩に瘤のようなものがあって、丸い鼻先、無骨で古めかしい大型の輸送機。
僕とジュディは簡単な身体検査のあと、その輸送機の荷室に入れられた。黄色いプラスチック製のベルトで両手を固定され、ひとりの若い兵士が監視につく。ジュディはずっと僕が抱き寄せてなだめていないと駄目だった。監視の兵士の首筋には虫刺され跡が見られる。三週間前の僕がそうだったように中心に赤黒い斑点ができ、広範囲に腫れ上がっている。
輸送機の内部は何かの映画で見たものと同じだった。ひとの汗の匂いと、うっすらとストーブのような匂い。ジュディはすっかり怯えきって、声をかけても虚ろにあたりを見回すだけ。大丈夫だよジュディ、大丈夫だよ、と、何度か声を掛けていると、監視している兵士から注意を受ける。見かけた兵士はみなグリーンの迷彩服を着て、小銃を携えている。小銃の種類がわかれば記事にできるのにと思うのだけど、凝視しているとこれも注意を受けた。
この機体が撃墜されずに上陸できたということは、爆撃機を入れることも不可能ではない。だけど先日見かけた戦闘機は迎撃されていた。いまはまだ情報を収集している段階かもしれないし、でもあるいは逆にもっと多くの部隊も上がってきているのかもしれない。ピンポイントで僕がいるところにだけ上がってくるわけもないし、もっとたくさんいるんだろう、きっと。
キャンプには異様な緊迫感があった。つい先日まで僕は、ここに住むひとたちにもてなされ、旅をして、歌など歌っていたのに。いまは同じ地球人の間に入って、そこでただ項垂れるだけ。
しばらくして、迷彩ではないミリタリーグリーンの制服の男が入ってきた。手にはカルテらしきものを持ち、こちらと目が合うと首にかけた聴診器を示してみせる。監視していた兵は立ち上がり、敬礼する。あとふたりほどの兵が荷室の外に控えている。僕にはすぐに彼が軍医だということも、これから体調の確認をするのだということもわかったけど、ジュディは目をあわせないようにして怯えている。
軍医の男はジュディを一瞥して僕の方に向かい、「コンニチワ」と声をかけてくる。
思わず僕も、「こんにちは」と、返してみるものの、それに続く軍医の言葉はぜんぶ英語だった。
胸に下げられたカードを示し、自己紹介。名前はアーロン・シャレット、階級も書かれているけどわからない。カードには杖に蛇が巻き付いたどこかの医療関係のシンボルも見られる。
「僕は照井健です。東京から来ました」
通じないとは思うけど。
軍医は僕の目の下に指を添えて、小さなフラッシュライトを向けて左右に揺らす。右目から、左目。それから口を開けてみせて、それにならって口を開けるとまたそこを照らして覗き込む。顎を上げさせて頬骨に指を当てて、脈拍を診て、聴診器を当て、頷いてカルテに何かを書き込む。
そして小さなツールボックスを見せて何か聞いてくる。
彼は自分の腕を見せて、肘の内側を指して、注射器で血を吸い出すジェスチャーをして見せる。
「はい、大丈夫です。アイム・オーケー」
僕が頷いてみせると軍医はおもむろにツールボックスを開いて、注射器を取り出して見せる。僕が拘束された腕を差し出すと、腰のベルトからプラスチックのケースを取り出し、蓋を開けると僕の手に掛かっているものと同じ拘束具とともに、小さなカッターが入っていた。そのカッターで僕の手の拘束具を切り外し、鼻歌交じりに採血の準備を進め、鮮やかな手付きで僕の血液を採取。僕が自由になった手首をさすっていると、にっこりと微笑んで、次にジュディに目を移す。ジュディには明らかな狼狽が見られ、軍医が前に立つと金切り声を上げる。
「ジュディ! そのひとはだいじょうぶだから! 悪いひとじゃないから!」
と、言ってはみたものの、僕の声に反応してか、ジュディのパニックは余計にひどくなる。兵士は僕を押しのけるようにしてジュディの傍に寄り、軍医との間に入る。外に控えていた兵士もなかに踏み込んでくるが、軍医は兵士の手を引かせる。
「検診はいまでなくてもいい」
なんてことを言っているのだろうが、それでもパニックが収まらないジュディを見て、軍医は僕に目配せをする。
「ジュディ、ジュディ」
僕は静かに声をかけ、姿勢を低くして、とんとんと床を叩きながら体を傍に寄せる。どうすればジュディをなだめられるだろう。僕は自分の手首に唇を寄せて見せる。
甘いところだよ。舐めたいだろう?
あの日と同じように、彼女の手を取るとその手は震え、手首は拘束具で擦れて鬱血している。ゆっくりと自分の体に触れさせ、大丈夫だよ、嫌なことは起きないよ、と、抱き寄せると、彼女は僕の首筋を吸い始め、そのまま失禁する。
どうしようこれ。
どう見ても人間のリアクションではないの、軍医には悟られたはずだ。
森の匂い、土の匂いが塊のように吹き抜ける。ストーブの匂いはこの輸送機のエンジンの匂いかもしれない。それが汗の匂いと交じると、真冬の合宿所を思い起こさせる。それから、彼女の失禁以来、なんとも言えぬ異臭が漂っている。
ジュディの拘束が解かれることはなかった。だけど採血が後回しにされたのは良かったかもしれない。採血なんかされていたら、人間ではないのが確実にバレる。
問題はこの失禁。床は軽く清掃、消毒されたが、だれかが着替えさせるとなると臍がないことがバレるし、ジュディ自身が自分で服を着れるとは思えない。
兵士に目配せをしながら、僕は着ていたジャケットをジュディに羽織らせる。兵士はその様子を見て、「待て」と指示し、検診衣のような衣装を二着引っ張り出してくる。彼の英語は早口でほとんど聞き取れなかったが、本来なら自分が着替えさせなければいけないのだけど、無理そうだから頼む、と言っているようだった。
兵士は椅子に座り、目線を外す。
戸惑いながらも服を替えると、これから入院するひとのようになった。あるいは人間ドックに行くひと。動きやすいけど装着感がなく不安だ。脱いだものはひとまとめにしてパックに密閉し、ランドリーボックスへ。次はジュディ。
上着は拘束具を外してもらわないとどうしようもないけど、とりあえず、プルームがいつも僕を着替えさせてくれたときのことを思い出して、中腰になり、彼女の手を肩にかけさせて、ボトムを脱がせる。
彼女は僕の首筋を吸っているときは落ち着いている。脱がせたショートパンツには粘液質のものが付着していて、人間のものではない酸味のある異臭を発している。先程より漂っていた異臭はこれだった。これも分析されてしまったら人間ではないことがバレる。
僕はいつまで嘘を吐き続けるのだろう。
いずれは地上に下ろしてもらわなければいけない。僕は名前と住所、所属を名乗れば、家族なり、会社のひとなりが僕の身分を証明してくれて、最終的には自分の住む場所に戻ることができる。じゃあ、彼女は?
ジュディは絶世の美少女と言っていい。だけどいま、その下着を下ろしても何も思わなくなっている。その素肌だって、いまは見たいとは思わない。僕の手のなかにある異質なもの、ミミック的なもの、それは人間に擬態した昆虫のようにも思え、恐怖さえ抱かせる。
彼女とともに地上に降りるとなると、この意思の伝わらない生き物と生涯を共にしないといけない。もちろん、どこかの研究室にまかせて放り出してもいい。おそらくそれが、僕が地球へ帰るためのイニシエーションになる。それを受け入れるのか、僕は。
彼女の体液にどんな成分が含まれているかもわからない。いまはもう、うんざりして触れたくもないのに、それでも生活が元にもどればまたその肌に触れたいと思うし、交尾したいとも思うのかもしれない。だとしたらそれは恋なんかじゃなくて、呪いだよ。
兵士は無線で外部からの連絡を受けているようだった。
その兵士が来て、ジュディの拘束具も外してくれた。
僕は異臭のするジュディを抱き寄せ、首筋を舐めさせ、医療用のパンツに着替えさせた臀部を眺めた。
ほどなくして僕たちは輸送機から降ろされた。
拘束具ももうない。
テントに移され、そこには簡単な医療器具があり、ベッドがふたつ用意されている。
兵士から携帯食料を渡される。携帯食――レーションのパッケージの裏を示し、「ここに開け方と食べ方が書いてあるので自分で食べろ」と言っているようだった。部屋の一角のウォーターサーバーを指し示して、コップで水を飲むジェスチャーをして、「ふう、おいしかった、これで満足できるね」とサムズアップ。ちなみにこのひとにも数箇所の虫刺されがある。僕の虫刺されはおそらくプルームたちが治療してくれたんだと思う。あれ以来刺されなくなったのだけど、このひとたちの虫刺されがどうなるのかはわからない。最悪このひとたちはみんな死ぬんじゃないかという気さえしてくる。
そういえば、トイレの場所を聞くのを忘れていたけど、トイレにジュディを連れてはいけないし、このくらい自由にさせてもらえるんだったら、ジュディを連れたまま外で済ませるのが安全かもしれない。
僕が携帯食を開けると、ジュディも興味を持ってそれを見ている。途中まで食べて、ジュディに渡すと、ジュディもそれを食べる。ジュディはあたりの様子を伺っていたが、僕がベッドに横になるとその傍らにうずくまる。
人間じゃないんだ、ジュディは。わかっているのだけど、僕の腕のなかでウトウトとしている姿を見ていると愛おしさが募ってくる。その感情はもう人間に対するものじゃない。プルームが僕に感じていたものに近いんじゃないかな。
「大丈夫だよ」
と、腕を回し、どちらが先に落ちたかもわからないまま眠りに落ちていく。
それから二時間と経っていないと思う。
僕が目を覚ますと、傍らで眠っているジュディは採血されていた。
しまった、とは思うがその手を払うわけにもいかない。目を覚ましたら暴れるかもしれない。ジュディは熟睡していて、それも少し不安になる。もしかしたら、レーションに睡眠薬が入っていたのかもしれない。だけど未開封の睡眠薬入りのレーションなんてあるんだろうか。
採血が終わって、ジュディの頭の下から腕を引き抜いてベッドから体を起こす。
そこにまた、別の兵士が現れる。兵士は僕を別の棟へと案内する。
穏やかな表情の士官がひとり、僕を招き入れ、何か語りかける。
「こんにちは、照井健さん。こちらは当キャンプ・フォーマルハウトの司令官、ユージン・ウイリアムス大佐です」
無線機から声がする。
遠隔で日本語の通訳を探してきたということだろうか。僕が保護されてまだ数時間だというのに、動きが早い。部屋にはあとふたり兵士が立っていて、それぞれ大佐が階級と名前とを紹介、敬礼、大佐は僕に右手を差し出し、固く握手、椅子へ座るよう促す。
「ミスター・テルイ」
「照井さん」
大佐の言葉は無線機の向こうの通訳が随時言い換えてくれる。まずは大佐の世間話から始まった。
「日本には知り合いが住んでいます。長崎という場所ですが知っていますか? そこはガリバー旅行記にも登場しました」
同時通訳は完全な直訳。ガリバーが長崎に行ったというのは冗談なのか勘違いなのかわからなかったけど、とりあえず、長崎出身の知り合いはいるけど僕は行ったことがありません。ガリバーは長崎も訪ねたんですか? と、聞いてみるが、
「私は伝聞で聞きました。彼は晩年にそこへ行きました」
と、やはり冗談なのか勘違いなのかわからない返事が返ってくる。
「あなたのチームには優秀な推理作家がいますか?」
……との質問に少し戸惑うけども、これも大佐なりの冗談らしい。
実は僕が浮遊大陸に上がろうとしていることはずっとマークされていたらしく、当日も行動を追いかけてはいたものの、軍が掴んでいた予定日より一日計画が早まり、しかも僕を含めて囮が四チーム飛び立ち、全てには手が回らなかった、ということだった。
通訳が言った『あなたを含めて』の言葉を、うっかり飲み込んでしまったけど、その意味は胃液のように上ってきた。それに、囮って。
「僕は、囮だったんですか?」
「ええ、本命のチームはウイングスーツ装備の米国新聞社が手配した精鋭部隊で、万全な機材を用意していましたが、すべて捕縛しました」
ああ……なるほど。囮が侵入したって、そういう意味だったんだ。道理で計画が杜撰なわけだ。葉っぱ一枚で八〇〇万って。ジャーナリストとして期待されてるからと思えばこそ頑張ってこれたのに、捨て駒だったんだ。プルームから、軍が僕のことを囮と呼んでると聞いて、うかつにも誇らしくすら思ってしまっていたのに。そういう意味だったんだ。
「もう十分です。帰りたいです」
それしか出てくる言葉がなかった。
大佐は、わかった、後ほど輸送機で下へ送る、と言ってくれたが、その前に少し話を聞かせて欲しいと切り出してきた。
果たしてどこまで話して良いものかとは思ったけど、うかつに隠し立てたら後で何を言っても聞いてはもらえない。それにもう、僕が単独で三週間前にこちらへ来たことがわかっている以上、その間こちらのひとたちと接触がなかったとは言えないし、ジュディが人間ではないことだって、いずれは言わなければならない。
「この三週間、どこで過ごしていたか、思い出せる限りで良いので話してください」
無線機の声が告げると、大佐はじっと僕の目を見つめてきた。
僕はもう何もかも嫌になって、一部を除いてすべてを話した。
除いた一部は、まずはジュディのこと。彼女はおそらく、僕と同様に地上から来たひとで、他の家に保護されていたということにした。これはジュディに会ったときに感じた僕の印象そのまま。
それともうひとつは、プルームと交尾してしまったこと。
このことは僕のプライベートなことだから、言う必要はないと思った。
それと、プルームたちの屋敷の場所。地図を見せられて、小さな湖のほとりに該当する箇所は容易く特定できたが、はっきりとはわからないと誤魔化した。
他のことはすべて話した。
特に力を入れたのはハイアノールの技術力。
彼らの文化水準は彼らの言葉で第四水準というレベルにあって、第二水準の地球の軍事力ではまるで歯が立たないこと、無限ともいえるエネルギーを、瞬時に、どこからでも取り出せて、空間移動も自在だし、医療技術もずば抜けてること。
戦争なんかしたら人類は終了する。
ミリタリー先輩が言ったとおりだ。
大佐はしばらく考えて、口を開く。
「彼らと交渉するとしたら、その交渉人となる気はありますか」
もちろん。そうなるべきだとは思う。だけどいまは気持ちが沈みすぎてる。
浮遊大陸の出現で地球は大きな傷を負った。しかもそれは継続している。天候の変動はむしろこれからだろう。作物も不作になり、影響は長期に及ぶ。だけど、プルームたちだったらその危機から地球を救うことができる……
とまで考えて、途端に不安になる。
プルームたちは下級文明にまったく興味を示さないし、人間も犬猫も同じ、滅びても気にしないみたいなことも言っていた。もちろんそのことは大佐には言えない。
「彼らは好戦的な種族ではありません。話はできると思います」
とだけ伝える。
戦争の不安なんかいつだって杞憂。杞憂を超えてしまえば止まらない。僕が地球とハイアノールの戦争が迫っているといえば、それは杞憂でしかなく、同時にそれが引き金を引く。
ねえ、プルーム。戦争になるとしたらどうするの? 一瞬にして人類を滅ぼすだけの力はあるし、それを咎める法もきっとないんだよね。いまは積極的に滅ぼさなきゃいけない理由が無いだけで。
「ミスター・テルイ、君の協力に感謝する」
一通りの話を終え、その言葉を聞いて、ほっと力が抜ける。
「ガマゴウリに姉が住んでいるそうですね」
大佐の話はまた世間話に戻る。
「彼女には二歳になる甥がいます。彼は元気ですか」
と、そこまで聞いて、世間話でもないのだと気がついた。
「彼は自殺したあなたの恋人が飼っていた鳥とよく遊びます。鳥の名を言えるようになったそうです。名前はなんですか?」
得体のしれない恐れが僕の指を震わせる。
「プルームです」
声の震えを必死で抑えた。甥の名前を聞かれたのかもしれない。いや、これはただの恫喝で、質問に意味なんかない。
「あなたが予定通りに、その日のうちか、翌日に帰還していたら、私の上官の首が飛んでいました。軍のなかにあなたの帰還を快く思うものは多くありません」
そうか。そうだったんだ。八〇〇万は取材に出す八〇〇万でなく、このひとの上官、あるいは米国大統領を失脚させるための八〇〇万だったんだ。それすらちゃんともらえる確約はない。利用されただけなんだ、僕は。しかもそのなかの捨て駒のひとつ。いきなりここに来て消化しなきゃいけない情報が多すぎる。
「後ほどお互いの身の安全のため、お互いが発表できる内容に関して契約を結ぶことになります。そこには保証人として、あなたの家族にもサインをもらいます」
大佐の事情聴取は一時間ほどで終了した。
大佐本人のインタビューは今回だけで、次回からは、先程紹介してもらった兵士が当たることも告げられる。その際は事前に日本語翻訳されたアジェンダが用意されて、通訳も三人体制になる、両親と話をする機会も近々設ける、と。
「通訳の退社時間が迫っているので、インタビューを終了します」
大佐の冗談を通訳は直訳して伝え、大佐が部屋を出ると、そこにいたふたりの兵士の緊張が解けるのがわかった。
別の兵士が部屋の入口に立ち、僕の退室を待っている。
そして部屋に戻ると、ジュディの姿はなかった。
ウォーターサーバーのコップが転がっているのを見て、ジュディが暴れたんだとすぐに察した。
「ジュディ!」
呼んでみるが反応はない。
不審に思った兵士がすぐにフォローに入るが、何を言っているのかわからない。
「さっきの通訳をもう一度出してくれ!」
僕が兵士を押しのけて、大佐の部屋に戻ろうとすると、俄にあわただしくなる。
失敗だったかもしれない。
すぐにそう思い当たるが、じゃあどうすればいいんだ。
「ジュディ!」
ここにいただろう、少女がひとり!
ベッドを指し示す。
「ホエア・シー・イズ!」
言っている側から腕を取られ、ベッドに押し付けられる。
首筋にチクリと痛みが走り、意識が遠のいていく。
*
ぴ ぴ ぴ ちゅいぴぴ ちゅいぴ
手のなかで居眠りしていたのは雛の頃だけで、少し大きくなった頃からはすっかり飼い主離れしたって言いながら、動画を撮って、コメントをつけて。椅子の背に止まって紐をかじろうとするからとブラインドを開けていると、窓からずっと外の景色を眺めていた。
近くの小学校のスピーカーが朧月夜を流すと、彼女はプルームを指に停まらせてそれを口ずさむ。
いまはなぜか、あの頃のプルームの言葉が聞き取れる気がする。
お腹が空いたとか、退屈したとか、それだけじゃなくて、もっと鳥にしかわからない複雑でデリケートな概念。空中での空間認識に関わる大きな問題が、僕と彼女の未来に関わってくるんだって警告を発しているような。
ある日、学校から帰ってくると、プルームが怪我をしたって彼女は泣いてて、理由はわからない、ブランコが落ちているので籠との隙間に挟まって暴れたのかもしれないって、プルームはだらりと下がった翼を嘴で繕っていた。
こんなことになるんだったら、ブランコなんか入れてあげなければよかった。
でも、ブランコが原因だとはまだ限らないよ。
ぴ ぴ ぴ ぴ ぴ
ちゅいぴー ちゅいぴー
遠い空に憧れていたんだ。
ブランコを入れてあげなくても、その叶わぬ憧れはいつか彼女の翼を手折っていた。
目を覚ますともう夜。僕の手首には拘束具があった。
黄色くて太いナイロンの紐のような専用の道具。
最近は手錠じゃなくて、こういうのを使うんだなって、まじまじと眺めて、でもこれならウォーターサーバーも使えるし、レーションも食べられるし、おしっこもできる。生活に不自由はないかもしれない。
ジュディの姿は見えなかった。
暴れて監禁されてしまったのかもしれない。
でももし、逃げ出していたとしたら、彼女はたぶんこの森では生きてはいけない。
幸せにするって、お婆ちゃんと約束したのに。
プルームをあんなに悲しませてまで、ジュディとふたりで飛び出して来たのに。
水を飲んで、トイレを済ませようと外に出ると、見張りの兵士がいてなかに戻されそうになるが、身振り手振りでトイレに行きたいと説明して抜け出す。監視は緩い。拘束はされているけど、逃げ出したところで森のなかだし、メリットはない。
トイレのなかにいると、回転翼機の爆音が近づいてくるのがわかる。外へ出てみると、ちょうど昼間の輸送機が着陸して来るところだった。いつの間に出ていったのだろう。それに夜中に戻ってくるんだ。
ふと思ったんだ、プルーム。いまはまだジュディがどこかで生きているかもしれない、でも、明日もそうだとは限らない、って。
拘束具を取らないと何もできないけど、それでも部屋に戻るよりはと回転翼機を眺めていたのだけど、機体のすぐ近くにこれから積まれるであろうコンテナが並んでいて、僕はとっさに、そのなかのひとつにジュディがいると思った。
「ジュディ!」
呼んでみても六枚羽根のローターの音ですべて消えるし、仮にジュディが返事したとしてもわからない。それでも、
「ジュディ!」
呼びかけていると、僕の監視役だった兵士が気がつく。
このままだとまた薬を打たれてしまう。でも、できることはやっておかないと。
指笛を吹く。
二度、三度と、ジュディの名を呼びながら。
兵士ふたりが僕を抑える。
体を左右に揺すっても、そのガッチリとした腕はほどけない。
コンテナのひとつが揺れているように見える。なかから金切り声が聞こえる気がする。
次の瞬間、輸送機のエンジン音が消え、ローターが停止、そこにいた兵士たちの作業の手が止まる。まるで時間が止まったかのように。
いったい何が起きたのか。コンテナを凝視していると、その手前の空間が切り取られるようにして開く。おそらくここへ届けられるときに乗ってきた透明の車両だ。見ているとコンテナもいつのまにか透明になって、なかにいるジュディの姿が見える。ジュディは両手両足を縛られてぐったりとしている。透明車両のなかにいるのはお爺ちゃんとお婆ちゃん。ふたりはジュディを助けるとすぐに扉を閉めて、車両はその痕跡も残さずに掻き消えた。
一連の動きが収まると、また兵士はあわただしく動き出す。みな混乱している。上官に連絡を取るもの、コンテナを確認するもの、その場の痕跡を調べ始めるもの。
僕はまた、肩のあたりに注射を打たれたらしく、意識が遠のいていく。
ごめんなさい、お婆ちゃん。
ジュディをあんな目に合わせて。
翌日、ベッド上で全身拘束された状態で目を覚ます。
僕が何をしたというわけでもないのに理不尽だとは思ったけど、僕が何らかの方法で彼らに連絡をとったとでも思ったのだろうか。まさかあの指笛が合図だとでも? 冗談でしょう。連絡を取れるんだったら最初からそうしてる。
そして、ふと隣を見るとベリチェがそこにいる。
どうして?
戸惑っていると、ベリチェは話し始める。
「ジュディはマデリーとヴェルダとで救出した。怪我もしてたけど、治療は済ませた」
良かった。そうか、お爺ちゃんとお婆ちゃん、マデリーとヴェルダっていうんだ。
「ジュディはずっと怯えてるって。食事も取ろうとしない」
うん。それはごめん。僕のせいだと思う。
「ジュディはワンコだけど、仮にあなたたちがワンコと私たちの区別がなく、私たちへの攻撃の意思を示すためにそうしたと上層が判断したら、私たちは相応の対応をすることになる。その警告をしに来たの」
「戦争になるってこと?」
「そうはならない。あなたたちのなかの軍組織を排除するだけ。手段はまだ決まっていないけど、平和裏なものだと思っていい」
平和裏に消し去る……?
本当にそれができるんだったら、それも良いかもしれない。軍隊に入るからには相応の覚悟はしているだろうし、軍を持つ以上、勝っても負けても文句は言えないよね。
でも、と、軍医さんの顔を思い出したりしながら、
「軍には良いひともいるし……」
「いるし、何?」
そうか。異文明のひとたちにはすべて説明しないと通じないんだな。
「軍には良いひともいるので、そのひとたちには危害を加えたくない」
そう言うとベリチェは首を捻る。
「排除するのは、悪いひとだからではないし、良い悪いという言葉は、ひとに対しては使わないと思うんだけど、違うの?」
そうだった。ベリチェもプルームと同じで、僕とは価値観が違うんだ。
「いずれにしても、良いひとであろうと、悪いひとであろうと、苦痛なく一瞬で生命は摘み取られる。それは危害ではないし、人生という体験が終了する以上の意味は持たないよ」
いや、人間ってのはその、人生という体験が終了することを恐れるんだよ。死ぬのは嫌なんだよ。
「君たちだって、死ぬのが嫌だから不老不死を獲得したんじゃないの?」
「死と不死は反対の概念ではないよ。死を嫌おうが嫌うまいが、技術的に不死が可能になるだけだよ」
死は不死の反対じゃない?
「たとえば、家は劣化して、朽ちて、住めなくなる。それが死。だけどこの家にひとが住んで、管理して、修繕し続ければ、ずっと住み続けられる。これが不死。動機は『快適に住みたい』であって、不死はその結果でしか無い」
だからその、結果として死ぬのが嫌だという話をしてるんだけど。
「結果をコントロールしようとするのは良くないよ。あなたは死を想像できないから不安なだけで、実際には死んでしまえば経験の主体はなくなる。『生きたい』という思いも消える。どこにも問題はない」
いや、そのどこに問題がないのかがわからない。
死にたくないと言ったら死にたくないんだよ、だれも。
「死と入眠って、個人の体験としては同じものでしょう? 死だけを恐れる理由はどこにあるの?」
死と入眠が同じ?
「そこまで命にこだわらないんだったら、僕たちに復讐する理由って何なんですか?」
少し強い口調になったかもしれない。
それでもベリチェは静かに答える。
「復讐じゃない。ただ私たちはこの宇宙の秩序が好き。たとえ私たちが消えても、その秩序を壊したくないだけ」
それは僕だって秩序は嫌いじゃない。でも、秩序のほうが命より大事だってのは間違ってるんじゃないかな。
「命じゃないよ。命って考えるから個の問題になるんだよ。存在だよ。存在はそれ自体が秩序だし、個であり、全体なんだよ」
ベリチェとの話はずっと平行線。それにこんな論争をしたところではじまらない。被りを降って、ため息を吐いて、
「プルームは僕のこと、何か言ってました?」
「フレアは何も言わない。またしばらく不安定な時期が続くんじゃないかな」
「そうですか」
ぴ ぴ ぴ ちゅいぴぴ ちゅいぴ
胸の中にアキクサインコだった頃のプルームの声が聞こえてくる。
「僕も不安です。彼女が極端な選択をしてしまうんじゃないかって」
ベリチェは何も言わない。
「あなたはたぶん、地球の言葉でいうとプルームの恋人だと思うんです。だからプルームのことはだれよりも気にかけてるだろうし、僕が割って入るのをよく思ってないかもしれないけど、僕はワンコでいいんです。ワンコとしてでも、あのひとの側にいて、人生って悪いものじゃないんだって感じさせてあげたいんです」
「そう」
その表情を見る限り、僕の言葉は何も届いていない。
「でもあなた、一〇〇年も生きずに死ぬよね?」
それを言われるのは辛い。
「そのあともずっと私たちは生きるの。生きるために必要なものは永遠に供給される。そのなかのたった一〇〇年よ? あなたはプルームを愛してるかもしれないけど、彼女のほんの一瞬の喜びのために人生を捧げても平気なの?」
正直、わからない。
大人になったら、結婚して、子供を儲けて、家族を築くんじゃないかって思ってたし、孫ができてお爺ちゃんにもなるだろうし、そういう人生が待ってると思ってたんだ。
「たった一度きりの人生、思いっきり楽しみなさい」
って、子供の頃によく聞かされて、だったら僕は、だれよりも良い会社に入って、だれよりも可愛いお嫁さんをもらって、だれよりも幸せな家族を築くんだって、高校、大学と経て、自分はそれほど自慢できる成績でもないし、就職先も限られてるんだって気づいてからも、それでも僕の人生は一度きりなんだ、大切に生きて、幸せにならなくっちゃと思ってきたけど、僕は……
「僕はそれをプルームに捧げたい」
悔しいけど、プルームはあなたの恋人です。
生物部日誌のようにして僕を弄って遊んでるあなたたちの間に入れるなんて気は微塵もないです。
それでもプルームは、僕がいると楽しいんでしょう?
だったら僕はプルームのほんの一部でいい。
永遠の人生のなかの一瞬でもいい。
プルームの記憶の一片として生きて、そのなかで死んでいきたい。
「だったらひとつ約束して」
約束?
「嫌なことはちゃんと断って」
でも、断ると気を悪くされそうで。
「されそうで? 何?」
プルームの気分を害したら生きていけない。
「さっき言ってたことと逆だよ。だったら地上に戻ったほうがいい」
いや、違うんだよ。僕はプルームのことがよくわかってないから、どう付き合って良いかわからなくて。たとえば、プルームは僕とジュディのことどう思ってるの? とか。あれは嫉妬じゃないの? とか。
「嫉妬じゃないよ。彼女はただ、自分の愚かさに目を瞑りたいだけ」
自分の愚かさ?
「そう。だから、彼女が傷ついていたとしても、あなたのせいじゃない」
僕は話がよくつかめなくて、言葉を失う。
「難しいかな、この話」
目が覚めると全身を抑えていた拘束具はなく、ただの金縛りだったんだと気がつく。
腕の拘束具もなく、ただ鬱血した赤い筋だけが残っている。
少し空腹を感じ、部屋に戻ればレーションがあることを思い出す。そういえばウォーターサーバーも。あのタンクは外せるかもしれない。あとはバックパックさえあれば。
思えば中学の頃からだ。
ずっと性欲に引きずられて、時にそれを正当化するために己の信念をも曲げてきた。思春期なんてバカの塊だ。そんな時期に人格が形成されるんだから、人間なんてみんなバカだ。
ベリチェが言ってたこと、自分の愚かさに気がついて、それで傷ついてるみたいなこと、わからなくはないんだ。僕だってそうだから。自分の愚かさほど自分を傷つけることはない。でも自分じゃないだれかが同じように、自分の愚かさで傷ついているとしたら、僕はそれにどうやって気づけるの。どうやって救ったらいいの。
おそらく僕の冒険は、このキャンプに戻った時点で終わっていたんだと思う。
結末はベストセラーかもしれないし、銃殺かもしれない。そのどちらであっても、もういいかなって、そんな気持ちはあった。
だけどその前に、僕はその小さな疑問の答えを見つけないといけない。
だれかが傷ついてることに、僕はどうすれば気付くことができるか。
地球の運命に比べたら、取るに足りない、些細な答えだけど。
第十三章 下降気流
コムギのデータを見ていて、一部私の体内のデータが含まれていることに気がついた。でも、いままでに見たこともない組成。ハイアノールの免疫システムから考えると、コムギのRNAが私を侵襲する可能性はない。由来は不明。しかもおそらく、体内で自己複製している。
念の為ベリチェのデータを取ってみても同様。新しい増殖性のRNAはざっと三〇種類。うち二種類は変異速度が早く、シミュレーションの結果、何も手を施さなければ十七日後にエンベロープを獲得、体外に放出されることがわかった。すなわち、私たちの体内で未知のウイルスが生成されている。
「マデリーとヴェルダが、家族関係を解消したいんですって。私たちのここでの生活も終わりかもしれないわね」
母、ツィディが言う。
「やっぱり私のせい?」
「そうじゃないと思う。地上から歩兵が上がってきているでしょう? あのご夫婦は防衛システムの管理人をなさっているし、もともとドルイドのような暮らしにも興味がなかったみたい。潮時なんじゃないかしら」
それからすぐ、母は首都にスタジオを借りて、機材の大半をそちらへ移した。もうこちらで寝泊まりすることもなく、時折サンルームで曲のイメージを確かめるだけ。短いバケーションの最後を味わうかのように、いままでにしてこなかった買い物、散策などを楽しんでいる。
いや、楽しんでいるのはバケーションの最後ではなく、私たちと家族として過ごした三〇〇年の最後の瞬間なのかもしれない。珍しく私を散歩に誘ったりして、ここを離れたらもう、私たちは他人になる。ベリチェだけは友達でいてくれるだろうけど、私は他のすべてを失う。
周縁部に地球人の侵入を許したことで、大陸全体で索敵範囲を拡大、それによって次からの侵入は防がれることになった。ミサイル攻撃も同様、二度と着弾を許すことはないだろうし、航空機の侵入も昨夜のジュディを連れ去ろうとした機体が最後となる。
これによって、地上から上がってきている部隊は補給が断たれ孤立する。動物愛護の観点からすれば、彼らを保護し、地上へと戻すことが望ましいが、一応彼らも文化は持っている。接触するのであれば国内での合意が必要になるが、その合意は、彼らの文化様式が秘密にされてきたため進まない。
星間移動する際のリサーチなんてものは自動化されていて、そのレポートも一部の研究者しか目を通さない。それに、大陸移動直後の時間のズレに上層は気がついたんだと思う。おかげでいつまで経っても地球人の情報は降りてこない。そんな理由で地球人の外見がワンコであることを知るひとは少ないし、知れたら知れたで、まだだれにも飼われていないワンコを手懐けたいと思う者も少なくはない。食べ物を与え、依存させて、愛するという欲求のはけ口として、また愛されたいという飢えを癒やすために。ちょうど、私がコムギを躾けたように。
数日もすると周縁部に上陸していた部隊は闇雲に進軍を開始する。補給もなく、退路も断たれ、生き延びるには私たちを頼るか、制圧するしか無い。彼らからしたら幸いなことに、綱手町通りは彼らのキャンプと同一の防衛グリッドの内側にある。そのグリッドをまたがなければ、彼らがシステムに攻撃されることはない。
そしてここに住む私たちはみな、ドルイド、つまり自然派のひとたちが数世代に渡って築いた町に住んではいるが、第四水準の科学力を持ったハイアノールだ。スタイラス一本あれば彼らの部隊を殲滅できる。
上陸している地上軍は、三箇所のキャンプに別れ、総数八〇程度。軽車両と小火器があり、それは戦争ができるほどの装備ではないものの、ドルイドから引き継いだ私たちの生活を脅かし、破壊するだけの威力は持っている。
この町を手放したくない。ここに住むひとたちはみなそう思っている。私たちは新しいものはいくらでも作り出せるけど、古いものは作り出せない。ほんの僅かでも壊れたら、それは戻らないんだ。それで屋敷ごと別の場所に、あるいは別の惑星へと逃れるひとが現れ始める。そうなるともうお終い。文化というのは『群』なんだ。その群のなかで役割をもった家があって、道を通じて他の家へとつながり、その機能、生活様式が町の名、通りの名になっていく。それが私たちがなくしたもの、求めているものなんだ。
第一波。
白い旗を掲げ、両手を頭上に組んだふたり組が屋敷の近くに現れる。いつかエルナート大尉が訪れたときの衣装に似た緑色の迷彩。武装はせず、服と同色のヘルメットには旧式のカメラが装着されている。旗とポーズはおそらく恭順の意思を表しているのだろう。私の姿を見て少し怯える。その体には多くの虫刺症があり、ひとりは全身に発疹が出ている。
何かしら文書のようなものを差し出してくる。
「これはなんですか?」
私が唯一使える地球の言語、日本語で訊ねると、兵士の顔に戸惑いの色が浮かぶ。だけど受け取れば何かを期待させてしまう。私はそれを拒絶し、
「ケンという青年は地上へ戻りましたか?」
と、訊ねると、発疹の出ていた兵士がその場に倒れる。バイタルをモニターすると、もう彼の命も長くないとわかる。もちろん彼の命だって、救おうと思えば救える。コムギを拾ってきたときのように第一水準に見せかけた技術にこだわる必要もないし、血清の種類も、細胞培養方法もすべてわかっている。
だけど救う理由がない。
青年のひとりは途方に暮れ、来た道を戻ったが、彼もそう長くはない。
予想通り、倒れた兵士は夕刻までにその場で息を引き取り、亡骸はそこに放置された。
ドルイドの時代なら、小屋に住んでいたバグベアがそれを処分しに行かされたのかもしれない。私は上層へ確認を取る。地球人の行き倒れの死体を地上に戻しても良いか、と。答えは可。すぐに下に停泊している船へ亡骸を空間転送した。頭部は残っているし、彼らの技術次第ではまだ蘇生させられる。もしそれが無理でも、きっと葬ってもらえるし、家族にも連絡を取ってもらえる。
第二波は軽車両を伴った八人ほどの集団。みな虫に刺されたせいか湿疹が出ている。私が自室にいると勝手口の扉を破壊し、居間へと侵入、食料の物色を始める。階下にいたベリチェたちはすぐにシェルタールームから首都の自宅へと戻る。
悲しみばかり募ってくる。
手紙を受け取って、話し合っていればこうはならなかったんだろうか。彼らが部屋を物色している間、私は彼らを地上に転送できないかと問い合わせるが、答えは不可。
生きている生物にはそれぞれ意志がある。まずはそれを尊重しなければいけない。その上で、地球人であるという確証が必要になる。
言っていることはわかるけど、それは彼らを見殺しにすることだよ。
「どうするつもり? フレア」
首都でベリチェが呼んでいる。
「兵士たちはいま何をしてる?」
「三人がリビングでくつろいで、他は部屋の物色中。ひとりがあなたの部屋のすぐ近くまで来てる」
ベリチェが遠隔でモニターしてる映像をもらって、私も確認する。
「危ないからもうこっちに来たら?」
「でも、話をしてみたい」
「そいつらに日本語は通じないよ。それに、そいつらが持っている小銃、システムは武器としてちゃんと認識するよ。あなたに向かって構えた途端、中性粒子砲で撃ち抜かれる」
と、聞いている矢先、扉が開き、反射的に銃を構えた兵士に擬態で隠されていた粒子砲が炸裂する。
「ひゅー」
と、モニターの向こうのベリチェの声。
「あ、ちなみに、手斧も武器として認識させておいた」
階下が騒がしくなると同時に、屋敷の各所で中性粒子砲の雷のような炸裂音が響く。
計八発の砲撃音を確認。
やっぱりもうここは潮時なのかもしれない。
この件以来、母と弟子の三人は終日を首都のホテルとスタジオで過ごすようになった。
自宅に転がった首のない八つの亡骸を、海上に停泊している船の甲板へと送る。
一階はパニックになった兵士が怯えて乱射したのか、ガラスが粉々に割れている。
玄関の把手に触れると、この家に住んだ者たちの顔がありありと浮かぶ。この扉を開いて、笑顔で部屋に入っても、もうそこには瓦礫の山しか残っていない。
階段の手摺、壁紙の縁、テーブルの傷、ひとつひとつに手を添えて、思い出を集める。覚えておこう、いろんなこと。階段の床板のきしみも、豊かなカーテンの刺繍も、その糸の解れも。
そして第三波、部屋の片付けにも疲れて外に出てみると、湖の縁を真っ黒に汚れた服を着て足を引きずって歩く青年の姿があった。
その姿を見て、涙がこぼれてきた。
コムギだ。
コムギ、生きていたんだ。
今日ばかりは私からコムギに飛び込んだ。
「よく、かえってこれた、ね」
チョーカーなしでも簡単な言葉は発音できるようになっていた。
だけどまだぎこちない。
そんな私の言葉をコムギは笑いながら聞いてくれる。
そのあとチョーカーを付けて、どうして地上へ降りなかったのか事情を聞いた。
地球の事情がしっかりと飲み込めてないので、混乱しながら、何度も質問して、要は軍部と対立して自由にならない、ジュディを守ろうとしたことで立場が悪くなった、ということなのかなと思ったけど、彼は、
「それに、何よりもフレアの傍にいたかったから」
と言ってくれて、胸が締め付けられるかと思った。しかも名前、プルームじゃなくて、フレアって。彼なりにいろいろ考えたんだと思う。
「私、あなたのことをワンコとして扱ってたのよ?」と言うと、
「それでも、濃密な時間を過ごせたから」と。
コムギは屋敷のなかを見て、私と同じようにショックを受ける。私がしたように、壁に手をおいて、柱を撫で、火の消えた暖炉に目を落とす。まるでその向こうにいるひとの様子をつぶさに感じるように。その様子を見ていると、第二水準にとどまるひとのようには思えなくもあった。
私の部屋はあの時と同じ、データルームからは首都にいる父や母のところへもすぐに行けるよ。
「まあ、もうすぐ解消されるけどね」
私たちの言う家族は、地球のひとたちの家族とは違う。
私たちにとって家族というのは失った郷愁なんだ。この屋敷だって私たちが不老不死と引き換えに失ったもの、蓄積された家族の歴史を刻んだ史跡。
もうずっと昔、私たちは第三水準文明、すなわち波動からエネルギーを得る文明へと変わった。電波や光や音や波、地震や風もエネルギーに変換できるようになり、実質その無限のエネルギーを用いて科学技術を発展させて、細胞レベルでの不老不死を得た。
逆にいえば、私たちはその頃にもう成長をやめた。脳の構造なんて、ずっと変わらない。永遠の生命を得て、家族との思い出を忘れたあとにも、そこにはぽっかりと空いた穴がある。それを埋め合わせるのが、私たちの人生なんだと思う。それでときどき、ドルイドのようなナチュラリストが現れて、みずからの不老不死を捨てて、昔ながらの暮らしを初めて……だけどそれも長く続くうちに、また不死に憧れる。八〇万年前の自分たちを、私たちは永遠に繰り返している。
「家族を演るときはだいたいは娘役を演るの。ホルモン調整で年齢はどうにでもなるから、好きな世代を選べる。次は祖父母のようなお爺ちゃんお婆ちゃんをやりたいかな」
何気なく言った言葉に、コムギがかぶせてくる。
「じゃあ、僕がジュディのかわりだね」
でも私もう、あなたのことを純粋にワンコとして見ることができない。
そんなことを言っても、いままで酷いことをしてきたし、信用して貰えないと思うけど、
「すでにコムギは私の一部なの」と言うと、コムギはすぐに、
「僕にとっても、フレアは僕の一部だよ」と、返してくる。
でも、違うの。
たとえ話ではなく、私たちの脳の半分は他人との共有領域で、そこではもうあなたの意識が働いているし、あなたが話し始める前にあなたの言葉は半分くらいはわかるの。あなたのジュディへの想いも最初はよくわからなかったけど、いまはわかるの。
「そうなんだ……」
これはあなたたちではわからないと思うけど、私たちがよく言う『上層』も私たちのなか、共有域にあって、ほんのいくつかの言葉の交換だけでそこは共有される。だれかが私たちを管理しているわけじゃない。それは私たちの機能として、集合意識として備わってるの。
何を聞いても真新しいようだったけど、
「ハイアノールが第四水準まで上り詰めた理由がわかった気がした」
と聞いて、彼のなかの思想体系もいま書き換えられているんだろうと思った。
遠くで小銃の音が聞こえる。直後、中性粒子砲の炸裂音。
「まただれか死んだ」
コムギの体は擦り傷に塗れ、泥に汚れていた。
虫よけのシールドがあったとはいえ、ここまでたどり着くのはたいへんだったろうと思う。背黒狼や灰色熊もいるし、地球人の兵士からも身を隠さないといけない。そんななかを私のところまで戻ってきたかと思うと、改めて涙がこぼれてきた。
ごめんね、私、泣き虫で。
コムギはそんな私の手を取って、背をかがませて、首に手を回して涙を唇に掬った。
*
コムギと馬で森へでかけて、昨日、小銃の音が聞こえた場所を探すと、思ったとおり中性粒子砲で頭を吹き飛ばされた地球人の亡骸があった。
遠くから見て、コムギに「大丈夫?」と確認を取ると、コムギは「背中を貸してください」と、顔を押し当てる。
「無人機にやられたのだと思う」
「無人機って、ドローンみたいな?」
亡骸に近づくともうかなり動物に荒らされていて骨が顕になっている。そう報告すると、コムギはおずおずと背中から顔をはずして亡骸に目をやる。
無残な姿ではあるけど、それでも家族の元へ送るために上層に確認、その亡骸を大陸眼下の海に待機している仲間たちの元へと空間転送した。
「えっ?」
「どうしたの?」
「海兵隊の首無し死体を下にいる空母に……?」
「そう。これでもう二八人目」
「ヤバいよ、それ……」
コムギが背中に頭を押し付ける。
どういうこと?
「挑発だと受け取られる」
えっ?
「でもそれはおかしい。彼らが勝手に侵入して来て、勝手に死んで、私は彼らを弔うために手を貸しているに過ぎないのに、どうして挑発になるの?」
「いや、はっきりとそうだとは言い切れないけど、でもきっとそう」
「でも、もし彼らが挑発だと捉えたとしても、防衛システムの索敵範囲も広げたし、これ以上地球からの侵入を許すことはないよ」
「それは彼らがどのくらい追い詰められているかだよ」
そうか……。
「場所を変えましょう。ゆっくり話したい」
コムギは語ってくれた。
地上では多くの国の平野部が水没していて、経済的な混乱がある。自分が地上を後にしてもう一月近くになるけど、その間何かが解決したとは思えない。もう各国で暴動が起きていると思って間違いない。
そうなると為政者も追い詰められる。大陸に攻撃をかけて何かが変わるわけではなくても、攻撃を仕掛け、優位を示すことでしか国民を抑えることはできない。
大陸に上陸しているのはおそらく海兵隊で、ヘルメットに装着されたカメラからの映像はリアルタイムで作戦本部まで、おそらく下で待機している空母まで送られている。屋敷を訪ねてきた手紙を渡そうとした兵士にもそれは装着されていて、フレア、私の映像は米国軍部は把握しているし、もしかしたら世界中に報道された可能性もある。
そこに連日、惨殺された死体が空母に投げ込まれたら大ニュースになる。為政者も一斉攻撃の機運を高めれば国内の混乱を抑え込むことができる。世論さえ許せば、米国は核を使う。
コムギは怯えながら語ってくれたけど、私にはその核と呼ぶ兵器でこの大陸にダメージを与えられるようには思えなかった。爆発したところで、せいぜい数十ペタジュール、指向性もない。コムギは弾道で打ち出してくるから真上から降ってくるというけども、それならそれで防ぎようがある。水平で打ち出して防衛システムの範囲外で炸裂させ、周縁部へのダメージを狙うとしても、私がその情報を知ってしまった以上はその情報は自動的に上層へと浸透する。ほどなく核のダメージそのものを無力化するようにシステムが組み替えられるだけ。
「ごめんね、コムギ。私はこれを続けたい」
翌日、底なし沼へ行き、沈んでいる遺体二体を確認、肉も頭部も残った比較的良い状態で地上へと返すことができた。
その翌日が三体、またその次の日が五体。頭部は残っていないけど、記憶や人格にこだわらなければ、頭部含め肉体は再生できる。
明けて、コムギとジュディを預けたキャンプ・フォーマルハウトへ遠征すると、そこには灰色熊に襲われた痕跡があった。
灰色熊の習性から考えて、深夜に襲われたのだろう。そこかしこに交戦のあとがある。おそらくコムギがここを発った直後、この襲撃と補給線の喪失が引き金となって、キャンプを放棄せざるを得なくなったのだと思う。亡骸は肉食動物と昆虫とできれいに肉を剥ぎ取られ白骨化している。その一部は一列に並べられているので、死者を出しながらも最後まで看取ったひともいたのだろう。この頃になるとコムギも死体を見慣れたのか、私の背中に顔を埋めることもなくなった。
古めかしい通信装置もあり、コムギが言った通り、兵士たちの撮った映像が母艦へと中継されているのも事実らしい。だったらここで何が起きているかはすべて見ているはずで、こちらの意図も伝わるはず。それで何も伝わらない相手なら、それだけの存在でしか無い。
この日見つけた遺体は十を超える。
私はそれを丁寧に、下で待つ軍艦へと送った。
あとふたつあるキャンプのうちのひとつは背黒狼の群れに襲撃されて、同様に滅び、もうひとつはひとが数人残っていたが、交戦の意志はなく保護を求めてきた。かといって、私の意志で彼らを保護するわけにはいかない。もしコムギが彼らの保護を望むのであれば、それを口実にはできるけど、コムギももう私の事情は飲み込んでいるようで、特に保護したいとは言い出さなかった。
そんなことをしながら十日ばかり過ぎただろうか。
コムギが言った通り、成層圏外より弾道ミサイルが降ってきたが、そのままワープホールを開いて地球名でゲミンガと呼ばれる星へと送った。ゲミンガは無人の、多くの文明がゴミ箱として利用している星で、予定では四万年内外のうちに超新星爆発させることになっている。
その翌々日、ベリチェから「ラジオを聞いて!」との連絡。
おそらく地上のラジオのことだと思うのだけど、受信する装置がない。
半導体機構にはそんなに興味もなかったし、ラジオと聞いて思い当たるものもなく、仕方なく大尉が乗っていた軍の車両を調達しようと軍のネットワークにアクセスしてみると、この前の弾道ミサイル予想が評価されたのか権限の拡張がアナウンスされた。車両の調達にはクレジットが必要かと思っていたのだけど、コストなしで入手。使い方がよくわからないでいると、コムギがあれこれと教えてくれた。
エンジンの掛け方や、ラジオのチューニング。地球のものとは勝手は違うらしいが、原理は単純で、装置を見れば操作も想像はつくのだとか。
「これでどこに行くの?」と聞くので、「ラジオを聞くの」と言うと、呆れていた。
「あとで何か見に行こうか」
「それじゃあ、第三水準文明遺跡を見に行きたい」
――照井くん、聞こえていますか。高山です。
『タカヤマ』というのはコムギに呼びかけているひとの名前のようだ。
ラジオの音声も自動翻訳で聞き取ることが出来たし、意味もわかった。
政府のひとか、あるいは軍のひとかと思ってコムギに確認すると、彼のレジャー仲間で、よく相談していたひとの名前だという。この放送では、タカヤマというひとの他、彼の姉、仕事の先輩、両親など、何人かのメッセージを録音したものが繰り返し流されていた。
その伝える所によると、地上ではもう二億人以上が死んでしまった、世界中で紛争が始まり、経済活動と物流の多くが停止、上下水道や電気等のインフラも停止、それによって病院も機能停止し、国によっては疫病の蔓延が深刻な問題になりつつあるとのこと。
――今後の地球の命運がどうなるのか、非常に不安に思っています。その猜疑心から、世界中で様々な事件が起きています。だけど、ぜったいに解決できるはずです。何か必ず解決の道筋があるはずです。照井くん。いまのあなたは人類の希望です。私たちは地球の代表と、そちらの大陸の代表とで話し合いを持ちたいと思っています。どうか連絡をください。連絡方法は、キャンプ・フォーマルハウト……わかりますか? そこに通信機があり、いまは無人ですが、日本語のマニュアルもプリントしてあります。確認して連絡ください。待っています。
一通りの放送を聞いて、コムギは言った。
「英語の通訳音声が入ってる」
どういうこと?
「僕向けというよりは、世間に向けて、希望は残ってるんだって伝えたいんだと思う」
ああ、なるほど。
あるいはそれで、衆人環視に晒してるんじゃないかともいうけど、地上のその概念は私にはよくわからなかった。
「無視してると家族がひどい目に合わされるかもしれない」
そうなの?
「うん。特に日本人はそういうのがひどくて」
翌日、キャンプ・フォーマルハウトへ。
コムギが言ってた通り、白い箱のような機材から打ち出されたマニュアルがあって、コムギはそれを手にして、少し悩んでいるようだった。
「何を話せばいいのかわからない」
コムギが、地球のひとたちを破滅から救いたいと思っているのは聞くまでもなかった。だけど、どうすることが破滅から救うことになるのかがわからず、躊躇しているようだった。でも、破滅を避けることには何の意味もない。ずっと昔、私たちが通った過ちを、彼らもまた通ろうとしている。
「コムギ、聞いて。人類の破滅は必然。それを避けることにたいした意味はないよ」
いずれにしてもあなたたちの遺伝子は損傷していて、あと数世代で劣勢因子が顕在化して、早ければあと四〇〇年で滅びる。そして一億年もすれば、新しい種が次の文明を築く。地球の未来に希望を託したいとしたら、彼らに委ねて。
答えは聞かなくても伝わってきた。
滅びたくはないし、滅びたくないことに理由もない。ただ、無になることの不安。それを種に投影してそう感じてるだけ。
「人類が滅びるのは、あなたの人生とは関係ない。気に病むことじゃない。あなたが死んだあとで、地球の文明を人類が支えようが、次の支配種が支えようが、それは同じことでしょう?」
コムギの混乱を解そうと、私なりに説明したつもりだった。でもコムギは、こう問いかけてきた。
「あなたたちは、人類と共存しようとは思いませんか?」
それはもちろん、そのつもり。
「人類の歴史の最後の四〇〇年、あなたたちとともにあり、あなたたちの残す文化を記録、保護したいと思ってる」
「僕たちを滅亡から救う気はないんだ」
「救うというのは?」
「滅亡しないように、あなたたちの科学力で助けてくれるとか」
そう感じるのはわかる。でも、
「たとえば十万年後もあなたたちが地球の支配種であることを保証してほしいということなら、それはできない。数万年ごとに気候も地形も変動するのだから、その環境に適合できない種は滅びて、新しい種にこの星を譲るのがあるべき姿だと思うし、私たちはそこには介入しない」
いずれにしても、百万年後、一億年後にはあなたたちはこの星にはいない。
「十万年後の未来の話なんかしてないよ」
「一万年でも同じだし、百年でも同じ。なんなら明日の話でも同じ。
ねえ、聞いて、コムギ。私たちは滅亡できるあなたたちに憧れているの。私たちは永遠の命を得て、すべてをコントロールする技術を手に入れた。どんなに環境が変わっても、自分たちに合わせて環境を作り変えて生き永らえる事ができるけど、でもそこには何も生み出せない。私たちはもう、あなたたちのいう『進化』の外にいて、これ以上変わることはない。だけどあなたたちなら……」
「だったら勝手に滅べよ」
コムギは口に出さなかったけど、そう言ったのがわかった。
なるほど。
「コムギ、いま、『だったら勝手に滅べよ』って思ったみたいだけど、それは目的と結果とを取り違えていると思う。滅びるか、生き延びるかは結果であって、目的ではないの。あなたたちは生き延びるという目的を持っているけど、生命の目的は常にその瞬間であって、未来じゃない。未来というものがあるとしても、それはこの瞬間の結果でしかなくて、目的にはできないの」
そう。この差なんだ。文明があるか無いかは。
結果は指標にはなっても、それ自体は目的とはならないし、ましてや動機になど。
私は未開人を相手にしているんだ。
「ごめんね、コムギ」
コムギは震えている。
「やっぱりあなたは、地上にいたほうが幸せになれる」
パラグライダーがあったら、ひとりで帰れるんだよね?
それだったら上層に問い合わせる必要もないし、いますぐにだって……
そう思っていたら、コムギが抱きついてきた。
「地上には降りない」
コムギはボロボロと泣き始める。
「僕はもう、裏切り者だから」
わからない。そうなの? 地球を裏切ったことになるの?
「世界中に救世主のように放送されて、地上に降りて、『何も出来ません』なんて言ったら、その場で殺される」
そうなんだ……。
「僕を見捨てないで。もう勝手に滅びろとか考えないから。僕をペットでいさせて」
「違う、コムギ。考えてもいい。種が違うんだから。気を悪くしたわけじゃない。あなたがどうしたいかわかれば、私はできる限りのことをする。だけど私にできるのは、いま、この瞬間のことだけ。未来に対する保証は一切できない。これは宇宙のどの文明を見てもそう」
かつて私たちも『生き永らえる』という選択をしてしまった。そこで何もかも止まった。最も輝かしい時代で時間を止めたはずだった。
だけど、現実はどう?
細胞が劣化せず、器官の修復機能があったところで、脳の記憶容量は変わらない。百年もすれば記憶は入れ替わるし、ましてや千年前、一万年前、自分がだれだったかなんて覚えてもいない。データを辿ろうにも複数の惑星の文化が入り乱れて、一括したデータなんてどこにもない。それにたとえば私がアルミラ・ディートって名前のエースパイロットだった事実だって、だれかの伝記を読むのとどこが違うというの。私たちが手に入れたものは何もない。ただ、死を失っただけ。
コムギ、自由に考えて。未来を作ろうなんて思わないで。戦争してもいいし、環境なんか破壊してもいい、自然なんかあらゆる種がエゴをぶつけあった結果でしかない。それをコントロールしようとも、現状をいつまでも保全しようとも考えないで。
そう伝えるとコムギは、
「僕をこんな風にしたことの責任を取ってほしい」
僕を? こんな風に?
「フレアがいないと生きていけない。何か言われても、否定なんかできないし。ついていくしか無いし。言ってることの意味は一割すらわかんないのに、そうだねって言うしかないし」
それは、私のせい?
「風邪っぽーい」
ライトパネルが開いて、ベリチェの声が入る。コムギのことは置いといて、
「どうしたの? 熱?」
同様の症状は他のひとにも見られるらしく、
「地球発の伝染病みたい。コムギが原因かもしれないから、あなたも気をつけて」
と言われ、私はふと、コムギのベリリウム中毒を放置していたことを思い出す。
「愛しのコムギちゃんが今日はセンチメンタルなの。ベリチェからも励ましてあげて」
コムギの映像を送り、チョーカーを付けて、コムギに訊ねる。
「コムギ、ベリリウム中毒を中和したいんだけど、どうする?」
コムギは涙を拭いながら戸惑う。
「どうするって、どういう方法があるの?」
「ひとつは、体内の毒素を抜いて、明日からは私の汗を舐めないようにする方法」
「えーっ」
そんなに嫌か。『僕をこんな風にした』ってのはこのことか。
「それと、もうひとつは、私たちハイアノールのベリリウム排出系の遺伝子を侵襲させて耐性をつける。ワンコもバグベアもこの遺伝子を私たちから獲得してる」
「そんなことできるの?」
「うん。これは遺伝子修復RNAを得た生物の特徴で……」
――待てよ?
ふと思い当たるところがあって、ライトパネルからバイタルモニターを取り出して設置、私のなかに生成されつつあるウイルスとコムギの遺伝子とを比較した。
これは……。
「どうしたの?」
私のなかで人類の遺伝子修復用のRNAがコードされてる。
「ベリチェ、すぐ来て! 風邪、すぐ治すから!」
まだ可能性でしか無いけど、何者かが私たちの体内で人類の遺伝子修復用のRNAをコードしている。だとしたら、それをやっているのは地球に存在する第五水準文明。だとしたら、治療してもこの症状は消えない。だとしたら――
現在コードされているRNAは三〇を超え、やがてこれらはすべてエンベロープを獲得し、ウイルスとなって拡散し、人類を侵襲、その遺伝子を書き換える。そのウイルスが何によって媒介されるかはわからないが、そこまですでに計画されている可能性は高い。
すぐにRNA解析を開始する。一部のRNAは私たちの免疫システムの核でもあるファブリキウス嚢の機能を低下させるよう働いている。私たちの身体の機能を把握し、まるで全体がシステムで私たちの体を乗っ取ろうとしている。大学のIDでネットワーク端末を稼働し遺伝子変異を予測、対抗しうる人工リンパ球をモデリングする。
ベリチェがワープホールを開いてこちらへ来るが、とりあえずは対処療法しかできない。対抗できるリンパ球が出来たところで、それもきっとすぐに無効化される。おそらくこの症状は、私たちが地球にいる限りは消えない。
でも、凄い。凄いことが身体のなかで起きている。
「どうしたの、フレア。楽しそうじゃない」
楽しそう? そうか、私、楽しいんだ。
「やられたよ、ベリチェ。やっぱりコムギは囮だったんだ」
「どういうこと?」
「地球人の遺伝子の劣化を修正するパッチが、私たちのなかで組まれてる。そのために私たちは呼び寄せられたの。地球にいる、第五水準文明に」
「マジで……?」
「地球の第五水準の文明にとっての地球人って、私たちにとってのワンコなんだよ。可愛いワンコを救うために、私たちを利用してるんだよ」
本当にいたんだ。
本当にいたんだ、第五水準文明人が!
翌日、予備役兵全員に招集がかかる。そこには父、タルエド・カレルも含まれている。
敵は、第五水準文明を想定。
作戦は未定。
私の端末利用申請が最終的な決定の引き金になった。
いままで語られることのなかった『第五水準』という言葉が、ここではじめて明確にされ、大陸全土に緊急事態がアナウンスされる。
対第五水準として設計が進められていた虚数空間向けの次元砲、高グルーオン場によるシールドがマテリアライズされ、地球近辺のラグランジュポイントに置かれ、火星軌道外に次元断層が築かれる。
これらの武器が第五水準の文明に届くのかどうかすら実際にはわからない。十数万年前、フェンベルが攻めてきた時と同じ。愚かにも私たちが攻める側にまわった。向こうはおそらく時間操作までできる技術を持っている。私たちがフェンベルの戦闘機を中性子星にワープアウトさせたように、向こうはこちらがまったく理解できない攻撃を仕掛けてくる可能性が高い。接触した途端に、別の時間に放り出されることだってありうる。
同時に、地上軍の無人機数機が周縁部に侵入、祖父の操作するプルノー型戦闘によって撃墜され、その動きは俄に慌ただしくなる。
「でも、フレア・カレルはこうでなくっちゃね」
と、唐突にベリチェ。
私もなんとなく、こんな時なのにずっと胸がときめいてて。ベリチェが言いたいことはわかるような気がした。
じゃあ、行こうか、新しい冒険の旅へ。
いくつかの大粒の雨が不定期に肩を叩く。遠雷の響く淀んだ空に、灰色の雲が流れる。ときに背中を押し、ときに歩を阻む風に、身を委ね、そして逆らう。ベリチェとふたり、それにコムギ、調達した軍の車両で駆けつけると、祖父の乗るボーガル水亀が姿を現す。その背中にキノコを群生させた亀は、ゆっくりと私たちの傍に降りる。
「突破されたんですか?」
降りてきた祖父に訪ねる。
「いや、相手はこっちの防衛能力をさぐっとるから、防衛網に穴を開けてみたの」
「穴?」
「あのタイプなら同時に三〇〇〇機までは防げるけど、四〇〇〇だと難しい。おそらく、地球の戦力ぜんぶまとめて来られたら突破される。だからまあ、防衛能力を低めに見せておいて分散させる」
なるほど。
「上の方は対第五水準文明の戦闘態勢を敷いてるみたいだけど」
「ああ、あれは撤退戦だと思うよ。
もうこの星は捨てて、別の星に行くんじゃないかな」
そうか。短かったな。せっかく第五水準文明に触れる機会だったのに。
そんな寂しさに吹き晒されていたら、マデリーさんからお茶のお誘い。
「ベリチェさんも、もちろんコムギちゃんも一緒に」
切り株ハウスにはヴェルダさんと、ジュディがいて、ジュディは少し怯えがちな様子になったらしいけど、コムギの姿を見るとうれしそうに寄り添って来た。コムギもジュディを抱き寄せて、その頭をふんわりと胸に受け止め、胸に乗せた手を包むように握っていた。
「それにしても、第五水準ではな」と、祖父。
「三〇〇年、ずっと待っていたんだよ。アルミラがもう一度空を飛ぶ日を」
そうだったんだ。それで私が家族を探してる時に乗ってきたんだ。
「でも私、戦闘機の操作法は覚えてないから」
「ああ、それでいい。それでいいんだよ。ただ、区切りをつけたかったんだ」
ジュディはコムギに寄り添ったまま眠りに落ちて、コムギはそれをゆっくりとソファに移し、それから私の膝の上に座る。
「寝かしつけご苦労さま」
チョーカーを通して語りかけると、
「嫌われてないみたいでホッとした」
と笑った。
コムギにしても、ジュディがいると安堵するものがあるみたい。コムギが私のことをどんなに慕ってくれても、異種生命体の間にずっといるのはストレスになるよね。
コムギを背中から抱く私を、マデリーさんは優しい目で見てる。
そういえば「おじいちゃん」って呼ばなかったな、って、いまさら。
「フレア。あなたとはまたいつか、家族になる日が来るといいね」
えっ? それっていまじゃ駄目なんですか?
「三〇〇年、いやもっとだ。ずっとフェンベルとの戦争から離れられなくてね。ずっとこうやって暮らして来たんだ。でもそろそろ、別の暮らしを始めてもいいかなと思って」
そう言うとマデリーさんは、ヴェルダさんを見て、ヴェルダさんは柔らかく微笑む。
「次は何万年後になるかしらね」
「そうだな、その時はきっと、何もかも忘れているんだろうな」
祖父の予想した通り、その日の夕方には大陸の移動が決定され、アナウンスされる。一旦は元いたダル星に戻り、そこから再度別の星を探すらしい。決行は九日後。ダル星は地球とは逆に、時間が三〇〇年進んでいるらしい。
問題は、第五水準文明が私たちをそうやすやすと逃してくれるかどうか。もし本当に人類の遺伝子を修復するためのトラップだとしたら、簡単には抜け出せない。どんな手で私たちを引き止めるかもわからない。でも、私たちの体内からウイルスが飛散し始める前に地球を出ることは決定。その先は予測不可能だし、予測可能ないまのうちに手を打つしか無い。抵抗されても、振り切らないと。
その日は日暮れ近くまで切り株ハウスで話した。
「地球に残るって言い出さないかとハラハラした」
と、ベリチェ。
「そこまで愚かじゃないよ。地球に第五水準文明があるってわかったんだから、その気になればいつでも調査に来れる」
「コムギは連れて行くの?」
そう問われて、私は戸惑う。
「わからない」
「深刻だなあ、フレアー。いつもの冗談が出てこないなあ」
えっ? どういう意味?
「第五水準文明を持ってるのはコムギでしょう? 当然連れて行くんじゃないの?」
「ちょ、待って、まさか……」
「……と、そうやって素直に考えてるフレアのほうがフレアらしいよ」
……って、駄目だよベリチェ、そういうのには私、反応しちゃうから。
「ねえ、フレア。次に家族演るときは、私、弟やってもいい?」
「弟?」
ええっと、
「弟?」
というか、いまの関係ってなんだっけ?
「恋人! 私はそのつもりだった!」
初めてだと思う。ベリチェからその言葉を聞いたのは。いつもの冗談かもしれないけど、突然のことに私は少し戸惑う。
「じゃあ次は夫婦じゃない? マデリーさんヴェルダさんみたいに、コムギもいるし」
「私がその子に妬くから駄目」
そう言ってベリチェはくすくすと笑う。
そして戸惑っていると、謎の関節技をかけられる。
翌日、軍の車でドライブ。十数万年前に私が落としたというフェンベルの宇宙船を見に。ベリチェは「やることがあるから」と首都へ戻って、コムギとふたり。
カーラジオからは、地球の言葉でメッセージが流れ続け、コムギはずっと耳を欹てている。
第十四章 ロング・インタビュー
タンポポー。聞いてるかー。
こっちはまあ、たいへんなことにはなってるけど、別におまえのせいでもないんで、まあ、気にしなくてもいいんだけどさあ、一応伝えとこうと思って。
あれは知ってるだろう? 浮遊大陸が少し沈んでるの。
もう三〇メートルくらい下がってるらしくて、そのぶんこっちも水位が上がっちゃってんだわ。二十三区はまあ水浸しだね。地盤とかどうなってんのかわかんねえけど、けっこう地震起きてて、津波警報鳴りっぱなしよ。
俺もこないだまで監禁されてたし、わかんねえことばっかなんだけど、なんかもう、そういう場合じゃねえんだろうな。ラジオで流すから呼びかけてくれっつって、いまもっといい感じの一戸建ての牢屋に移されてるよ。場所はわかんねえけど、米軍住宅っぽいとこ。お前の姉ちゃんとかもみんなこのへんだと思うよ。血がつながってるってだけで、まあいい迷惑だよな。
ビデオも見たよ。海兵隊の。ほんともう、何やってんだよお前、異星人と馬に乗ったりして。話が通じるんだったら、海兵隊助けてやりゃ良かったのによう。親御さんも姉夫婦も針の筵だぞ? 事情はあるとは思うけどさあ、こっちはあの映像しかないわけよ。あとキャンプなんとかのインタビュー。
俺もそうだけど、親御さんも、お前のこと悪いやつだとは思ってないのよ。信じたいのよ、なんか事情があるって。その異星人の姉ちゃんが何考えてるかとか、みんな知りてえんだよ。なんも判断材料がないの、こっちは。
話くらいつないでくれてもいいだろうよ。人類見捨てたわけじゃないんだろう?
もう駄目なんだよ、人類は。人類の力だけじゃ。
なんかもうな。
なんの情報もねえんだよ、そっちの大陸に関して。
なんもないんだよ、本当に。
娘とも二週間会ってねえ。
会わせてもらえねえ。
わけわかんねえよ。
っつーかさー、ジャーナリストー! 照井健ー!
お前にできることがあるだろう?
それをやってくれよ。
仕事しろよ、仕事ー。うちの社員なんだぞ、まだー。
そしたらまあ、あれだ。また、焼き肉おごってやっからさ。
それじゃあ、連絡待ってるからな。
連絡方法は、キャンプ・フォーマルハウトに通信機があり、いまは無人ですが、日本語のマニュアルもプリントしてあります。確認して連絡ください。――だそうです。
以上、田中でした。
そう締めたあと、田中先輩が泣き崩れた気がした。
続いて、父、母、姉、姉の回には甥の声も入っていて、高山さん、大学時代の恩師、それから会ったこともない都知事、総理大臣。連絡をとったところで、僕は彼女らの価値観をどう説明したらいいか。意味不明なほどの最先端の科学については語れるかもしれないけど、それをどう使うつもりかまで説明しないと、逆に怯えさせるだけ。彼女らに侵略の意図はないけど、それも僕らが草原に家を建てる時にモグラやバッタの家族を侵略する意図がないのと同じ話で、宇宙に出ていない種なんて、彼女らにとっては犬と一緒なんだ。犬と。
田中先輩、父さん、母さん、姉ちゃん。みんなにいまのことをどう伝えればいいのか。いっそ僕のようにペットになりますか? 衣食住も保証されて、ツガイで飼ってもらえたら繁殖もできる。
思い悩んでる間にラジオの声は一周して、また田中先輩に戻ってきて、車はずっと、凸凹道の街道を走っている。
「わん。わおーおー。おーん」
「どうしたの? コムギ」
わからない。犬の気持ちになってみたかった。
結局僕はケンとは呼んでもらえなくて、ずっとコムギのままだし。
「ケンって呼んで欲しい」
そう言うと彼女は微笑んで、
「いいよ、ケン」
ちょっとだけガッツポーズ。
ラジオの声を聞いて気が沈んでいたけど、僕にはフレアがいる。
内陸へと車を走らせると、ラジオの音は不安定になってくる。同時に、道も悪くなる。時折車体が大きく跳ね上げられるが、フレアは器用にハンドルを切って立て直す。トラックの大きなハンドルを時に内掛けに握り、クラッチの使い方なんか知らないはずなのに、ちゃんとギアを変えながら。
「このあたりはホバー用の街道だから、車輪には厳しいね」
『厳しい』っていうのは、この道に比べたらもっと穏やかな状況を指すのだと思う。僕は足でダッシュボードを押さえ、右手をドアに突っ張り、左手でシートベルトを握り締めている。
「ねえ、ケン。ワープしてもいい?」
フレアは聞いてくるけど、前見て、前。ワープに関しては、むしろそっちで。
「それじゃあ、前方にポータルを開きまーす」
そう言うとフレアはどんどんスピードを上げる。僕はまるでロデオのように揺られる。前方に空間の歪みのようなものが見えるけど、崩壊するんじゃないかと思うくらい車体は安定しない。このスピードであそこに飛び込めるのか? そう思う矢先、車体は空間の歪に飲み込まれ、次の瞬間には巨大な遺構が目の前に出現、急ブレーキ、車体を横にしたまま滑らせて停止させる。
なにこの運転……。
「どう? スッキリした?」
「しねえよ」
フレアは笑う。
別にさっきのは、スッキリしたかった場面じゃないんだよ、フレア。悲しみに暮れる時間だったんだよ。わからないかな、そういうの。
「それよりも」
と、フレアは目の前の巨大な遺構を指差す。
「フェンベルの戦艦。二〇〇隻あったなかの一隻。十何万年か前、私が撃墜したらしい」
らしい?
「覚えてないんだよ、そんなに昔のことは」
フレアが戦艦と呼んだ遺跡は、複雑に連結しあった古代都市のようでもあった。あるいは巨大な工場のプラントを乱雑に横倒ししたような。それに、十万年以上経っているようにも思えなかった。
「これ、生きてるんだよ」
生きてる? というと?
「自己修復機能があって……外殻があるでしょう? このあたりは全部吹き飛ばされていたみたいなんだけど、かなり復旧してる」
それじゃあ、ひともなかにいるってこと?
「うん。推定だけど、四〇万人がコールドスリープしてる。修理はオートで、終わったら、また新しい星を目指して飛んでいくんじゃないかな。外殻がもうかなり完成してるから、あと一万年もかからないと思う」
その一万年、乗員はコールドスリープを続けてるってこと?
「そうなると思う。見に行く?」
見に行くって、見れるの?
「フェンベルは第三水準文明だから、ワープ技術も無いし、ワープシールドももちろん無い。ついこの前までは管理地になっていたんでなかには入れなかったけど、いまは申請だけで乗り込めるよ」
まるでサンゴ礁でも見に行くかのような手軽さ。だれでも出入りできるような場所でコールドスリープするのって、どんな気分なんだろう。ワープホールというものを開いて、戦艦のなかに入ると、そこは巨大な空洞。新宿や東京駅ににこういう感じのビルがあった。
「もともとは一〇〇万人近い乗員がいたんだけど、戦闘で七割のエリアを失って、居住区もかなりの打撃を受けたみたい。大陸がプルノー星にあったときに、十八光年離れた星から襲撃して来たんだけど、最初は私たちを滅ぼして、星を奪うつもりだったらしい。いまはそれが無理だと悟って、修復して、また旅立つ準備をしてる」
修復って?
「地下茎を伸ばして資源を収集してる。おかげでこのあたりの地形は中身スカスカだけど。あと、この戦艦の向こうに山が見えたの覚えてる? あれがこの船の排泄物。要らない資材を捨ててるんだけど、それだけで山が出来た。居住区も見る?」
見れるの?
というか、全員コールドスリープしてるの?
交代で起きてたりはしないの?
「交代では起きないけど、繁殖期みたいなものがあって――たぶん、居住区の増設に合わせてだと思うんだけど、一斉に住人が起きて、性交して、繁殖して、また眠りについて、というサイクルはあるみたい」
何そのサイクル。
「居住区も四つ増えたのかな? そのうちのひとつは完全に宇宙船として独立した機構を備えてるから、母船とは別の目的地を目指すんだと思う」
確かにそう聞くと、いつかフレアが言ってた宇宙船が生物だっていうのも頷ける。
「まあ、そういう意味では、私たちの大陸も生物なんだ。定義上は」
居住区までにいくつかのエリアを越えて、ロックされたドアがいくつかあったけど、左手の端末を使ってあっさりと開けていた。広くて狭い艦内に、僕たちの足音が響く。ドアを開ける音と、時折、笑い声と。
案内された居住区は、水族館のようだった。僕らの背丈と変わらないくらいの人型の生き物が、複数の水槽に浮いているのがわかる。それは僕ら哺乳類に近い。なかでも猫に一番近い。検診衣のような薄い布を纏っていて、全身にうっすらと毛が生えている。右足にはナンバーらしきものを記したタグがつけられている。水槽のなかは液体というよりも、ゼラチンのように見えた。
「なかはマイナス一二六度の超高圧アモルファス氷。肉体の熱循環を完全に吸収するので、ほぼ完全に代謝が抑えられる。原子配列に生じるエラーは検出されて、覚醒時に補正されているみたい。あとは、記憶の一部に欠損が生じるので、こちらのブロック――」
と、フレアは少し離れたところの筒状の水槽を指差す。
「ここで照合されて、直接書き込まれてる」
ああ、なるほど。
「でも、それでいいのかな」
「だよね。そうやって記憶を書き換えればいいんだったら、人生を体験する必要もないんじゃないかな」
「うん、思い出って、半分くらい消えかけたときに、思い出になるんだと思う」
プルームの手を握ると、彼女も肩を寄せてくる。まるで水族館デート。夜はどこかに夜景を見に行って、そのまま朝まで語り合いたい気分。
「プリンセスも見に行く?」
「プリンセス?」
フレアに手を引かれて、薄暗い通路を抜ける。ぱたぱたと足音を壁に響かせて、天上の低い通路では、彼女は背を屈めながら僕を導いてくれる。重いハッチをふたりで開けて、円筒形の大きな水槽が一つだけある部屋に出る。
確かに他とは違う。他の住人の水槽は小さくて、簡易的な機械がついていただけだった。でもここは円筒形で、大きく、つながれている機械も洗練されている。それに衣装も他の住人のものよりも長く、艶やかで、腕には宝石が連なったリストバンドがあり、足につけられているタグもない。確かにプリンセスかもしれない。
「これがプリンセス……」
オレンジ色のライトに照らされて、二歩、三歩。僕らの足音が終わる。水槽に近づいて見上げていると、フレアは僕を抱きかかえてくれた。アモルファス氷の作る光の煌めきは、時間を掛けてゆっくりと流れる。水槽は蛍光灯のような静かなノイズを放ち、その表面は少しフレアの呼気に曇る。
久しぶりにこの胸に抱かれた気がする。フレアの声が僕の胸をそのまま震わせて、まるでその声は僕のなかから響いてくる。
「あのね、コムギ」
フレアは水槽を見たまま話し出す。
「私たち、もう帰るの」
帰る? 私たち?
フレアは続けようとした言葉を詰まらせて、僕を床に下ろして、あらためて向き直る。いつにない切ない目。
「地球での生活はあと八日。そのあとはもう、ダル星に帰るの。あなたは、どうする?」
もちろん、ついて行くよ、フレア。
喉まで出かかった言葉を、僕もまた詰まらせた。
抱きかかえられたまま聞いていたら、僕はその言葉を飲み込んだりしなかった。
フレアもそれがわかって、僕を下ろしたんだ。
もう終わるんだ、フレアたちの夏休みが。
八月の終わり、お昼を少し回った蝉しぐれのなか、麦わら帽子を傾けて、いつものように、アイスクリームを買って、米屋のベンチに腰掛けて、
「明日、東京へ帰るの」
そんな風に、タイミングを見計らって切り出したフレア。
「知ってたよ、フレア。そんな気はしてた」
「そうなんだ」
後ろ髪を引くまいと、去勢を張って、
「僕もそろそろ仕事に戻らないといけないし。いつまでもペットではいれないよ」
彼女は戸惑いながら、小さな笑顔を作って、ほっとため息をついて、ほどこうとしていた荷物をまた胸に戻して、
「良かった。私、コムギに泣かれたらどうしようかと思って」
そう言いながらフレアの顔は、笑顔を貼り付けたまま崩れていく。
「僕が泣くわけないじゃん。気にするなよ」
そうやって涙を誤魔化しているうちに、気がつくとフレアの笑顔は涙で決壊する。
あなたの心の声なんか、ぜんぶ聞こえてるから。って。
そう訴えるように、涙を零す。
僕だってそうだよ、フレアの心の声はぜんぶ聞こえてるよ。
君の涙はぜんぶ、僕の涙だよ。
「バカだなあ、フレアは」
涙塗れのフレアのハグは、息をつまらせて、しゃくりあげた、おそらく最後の、ふたりのハグ。
*
「こちらはキャンプ・フォーマルハウト、照井健です。聞こえますか?
キャンプ・フォーマルハウト、照井健です。聞こえてますか?」
「はい、聞こえます。すぐに司令官と変わりますので少々お待ち下さい」
「ええっと、日本語で話せるひとのほうがいいんだけど、いや、あんまり聞かれたことに答える気もないんで、勝手に喋りますねー。
まずこちらの状況を伝えると、こちらには地上の兵器は核兵器含め、あらゆる兵器が一切通用しませんので、攻撃は中止してください。こちらから積極的に攻撃をすることはないと思いますが、応戦はせざるを得ませんので、そうなると被害が出てしまいます。
攻撃はしないでください。
これが一点目でーす。
次に、地球で起きている災害に関しては、こちらのひとたち、ハイアノールっていうんですけど、ハイアノールは関知しないので、自力で乗り切ってください。
これが二点目、災害の復旧には手を貸せませーん。
三点目が、今後についてですが、この大陸は一週間後に地球を離れます。その後はおそらく地球に干渉することはないだろうということです。なので、あと一週間耐え忍んでもらえれば、そのあとはゆっくりと元の生活に戻っていくと思いまーす。
なお、この大陸の下敷きになったハワイ諸島など、いくつかの地域に関しては復旧できませーん。
以上が三点目、あと一週間で大陸ごと彼らはいなくなりまーす。
それと最後に、彼女らは地球人と交渉する気はないそうでーす。僕はこちらで犬として飼われてしまったおかげで色んなことを耳にしましたが、飽くまでもハプニングであって、本来なら彼女らにとってはタブーなんだそうでーす。
これが四点目ですね、交渉はしません、と。
あ、そうだ、最後に、海兵隊の亡骸を空母に転送しましたが、こちらの意図としては、弔ってくださいという意味であって挑発ではありません。状態の良い亡骸はそちらで蘇生してください、頭がない遺体は記憶までは再生できませんが、培養して家族と再会させてください、だそうでーす。これは嫌味ではなく、本気で思ってるっぽいでーす。
以上、通信を終わりまーす」
通信機の向こうから通信の継続を求める声が聞こえたけど、無視した。正直この内容で冷静に地球人と話ができるなんて思えない。
ハイアノールが去るとはいえ、謝罪もなし、復旧にも手を貸さないだと、相当印象は悪くなるだろうし、その矛先は僕に向く。だけど、僕の姉や高山さんなんか、ほぼ無関係なのに拘束されてるんだし、僕だけ無傷というわけにはいかない。
最後の一週間は、フレアとベリチェと僕とで、湖畔の屋敷で過ごした。夜はキャンプのときのように、三人で眠る。
再度大陸を移動させるという混乱で、ベリチェたちの新曲の録音もまた中断しているらしい。そのベリチェはといえば、微熱を出して、ずっと羽根が開いたままになっていて、どうしたのか聞いたら「男の子になるの」と答えてくれた。
僕はフレアと寝るときだけ彼女の羽根が開くところを見ているので、ベリチェのその姿を見るのが少し気恥ずかしかった。あのクールでそっけなかったベリチェが男の子になるのを楽しみにしている。
ラジオを聞いたら、僕が地上へと送った言葉に対して何かしらレスポンスがあるんだろうと思ったけど、聞きたくなかった。聞くのが怖いし、それにどうせ先輩の言うセリフはわかってる。フレアもそのことは少し気にしてくれるけど、いいんだもう、そのことは。
「ねえ、フレア。最後にインタビューさせて欲しい。よかったらベリチェも一緒に」
そう聞くとフレアは少し首を傾げて、
「いいよ。いまから?」
と、笑顔を返してくれた。
いや、聞いたことを忘れないように、地上へ帰る直前がいいかな。
それまでに何を聞くか考えておかないと。
翌日、地上からの攻撃は相変わらず。攻撃しても無駄だって伝えてあるのに、散発的に無人機が上がってくるらしく、そのたびにお爺ちゃんの壽ファイターが迎撃に出ていた。
「あれ、かなり出力抑えてるんだよ」
と、フレア。
「最高出力だと実際にはどのくらい?」
「粒子砲一発で地上に三〇キロくらいの穴が開く」
「三〇キロ!」
「それを別々のターゲットに同時に十二発。リロードは〇・七秒。弾数無限」
それでも約四〇〇発毎に排熱処理が必要で、フェンベルの母艦の装甲を破るのには苦労をしたと、伝聞か実体験かもわからない語り口で教えてくれた。
そしてふと上空を見ると、赤道沿いなのかな、格子状の巨大な構造物があるように見える。
「フレア、ねえ、あれなあに?」
「対第五水準文明用の防衛システム。ぐるっと地球を一周してる」
対第五水準文明用?
「フレアたちって、だれと戦ってるんだっけ?」
それまであまり把握してなかったんだけど、地球に第五水準の文明があって、旅立ちの邪魔をしてくる可能性があるから防衛用に築いたって説明してくれた。
「本当に地球を一周してるの?」
「そう。磁界シールドで脱出路を断たれた場合、逆位相の磁界を発生させて打ち消すの。それと、こちらの戦闘機を飛ばす時に磁場で妨害されないようにも」
それって、地球は無傷で済むの?
「わからないけど、できるだけ環境は壊さないようにすると思う。四箇所のラグランジュポイントにも要塞を築いてあって、各砲門七・七ゼタジュールの陽子砲が六〇門かな? 向こうが物理的な実体を見せない限りはたぶん大丈夫」
地球にはハイアノールが第五水準文明と敵対してるなんて知らせてないから、上空のこれは自分たちに向けられた脅威だと感じてるかもしれない。仮にこれを「七・七ゼタジュールの陽子砲六〇門で第五水準文明と戦うそうでーす」と地上に伝えたところで。
いずれにしてもあと一週間でフレアたちはいなくなるし、その前に僕はパラグライダーでピンゲラップ島を目指すだけ。その後地上でどんな目にあうかとかはもう考えない。というか、一週間後、地球はあるんだろうか。
ラジオをつけたら先輩、どんなことを言ってるんだろう。
母さんボロ泣きしてるだろうし、姉ちゃん怒ってるだろうな。
翌日、フレアも少し熱があると言い出す。
詳しくは言ってくれないけど、地球に来たせいでハイアノール全体が体調不良に陥っているらしい。もしかしたら、これが彼女らが撤退を決めた理由なのかな。
「でも、私たちは強いから」
と、自分で薬を処方して、綱手町通りへと出かける。
「覚えておきたいの、いろんなもの」
でも大陸ごと元の星に帰るんだよね?
と聞くと、
「その前に戦争で消し飛ぶかもしれないでしょう」と。
僕も彼女について歩くと、フレアはやっぱり少し辛そうだった。
「大丈夫。この星を離れたらファブリキウス嚢の機能が再生して体調は戻るから。そうしたらこの体調不良だって、地球に来たいい思い出になる」
僕はただ、無理はしないでねって、そのくらいのことしかいえなかった。
インタビューでは何を聞こう。
侵略の意図があるかどうかなんて、いまさら聞くことでもないし、科学技術のこと、生命について、あるいは彼女が知っている宇宙のことなどなど。
どうやって光の速度を超えるんだろう。
僕たちはいつ、彼女らと同じ文明にたどりつけるんだろう。
ぼんやりとそんなことを訊ねてみると、フレアは、地球人の思考は非論理的で、地球の言葉でいうと全員がロマンチストだという。彼女たちとは根本的に考え方が違うらしい。
僕は文明レベルが上がって、宇宙時代になると、みんな戦争なんかしなくなるんだと思ってたのに、そう言うとフレアは、それがロマンチストたる所以、と。
曰く――宇宙には様々な種がいる。地球人のように同種族の間で戦争することはないけど、宇宙に出たら明確な捕食関係がある。なかには惑星規模の大きさを持つ機械生命体もいて、そういうのは他の惑星の宇宙船を単なる捕食対象として見ている。宇宙には小魚もいれば、巨大な肉食の魚もいる。それぞれに身を守る手段を持ち、全力で生き延びなければ生きていけない。そこに人間同士の戦争を投影して、宇宙人だからそれを超越してるだなんて信じるのは、論理的な思考を放棄しているだけ。人間の戦争のことは、人間の間で解決すべきだ――と。
「宇宙は、おおよそ6兆年前に生まれたんだよ」
フレアはそう言うと少し咳き込んだ。
「いいよ、いまじゃなくても。無理しないで」
フレアには僕の気遣いもぜんぶわかってる。
それを口には出さず、微笑みだけ返して、フレアは続けた。
――宇宙が生まれた頃は、いまとは物性が違っていたから、物質は存在しなかった。幽子と呼ばれる元素の状態でエネルギーの塊があって、それがネットワークして生命らしきものを生み出した。それが宇宙が生まれて三〇億年後。原始状態の宇宙のスープのなかに生まれた。
宇宙のスープ?
そうだよ。まだ星が生まれる前に生命が生まれた。
星が生まれる前に? いったいどこで?
だから、宇宙のスープのなかで。
その生き物は、今の生物で言えばエビに近い。
エビのスープだ。
彼らは二軸の主神経系を持って、脳にあたる神経節は持たなかった。時間を遡行できたって言われてる。いや、宇宙が生まれた頃は時間の概念そのものが違っていたから、それがどういうことか私たちには想像できないんだけどね。
彼らが生活の範囲を広げ、次元を越えて宇宙のあちこちへ移動することで宇宙は広がり、いまの次元構造を獲得したの。
いまの次元構造というのは……?
僕が知っている宇宙は、半径一三八億光年の虚空に浮かぶ空間。そのことだと思って聞いていたら違っていた。
直径二二〇〇億光年の三次元球面。私たちが住んでいる宇宙は四次元構造をもった宇宙超球の表面。
でも、僕たちに見えているのは一三八億光年の彼方までで、その先はビッグバンの痕跡が見えるだけだって聞いたんだけど……。
それは宇宙の地平線でしょう?
あなたたちが言っているのは、『海の向こうは滝になって流れ落ちてる』と言ってるのと一緒だよ。ただ、あなたたちの見ている次元数からしたら、ビッグバン宇宙論というのも間違いではないと思う。でも本当は違う。
そうか……そう言われてもすぐには理解できないけど……。
私たちが、惑星の表面に住んでいるように、私たちが宇宙だと思っているのは、本当の宇宙の表面にすぎないの。その構造そのものを作り出したのが第一世代の生命。
そのひとたちが第一世代ということは、僕たちは第何世代なの?
私たちは第四世代。
じゃあ、第二第三世代は?
第二世代は、第一世代が物質を生成し、恒星が生まれたあとで生まれた。
こちらも物質ではなく、エネルギーグリッド上に生じた意識体。複数の神経節が連結した神経構造を持っていて、形状はタコに近い。
二世代目はタコか……。
恒星内部のエネルギー流と区別はつかなくて、いまももしかしたら太陽のなかに住んでるかもしれない。
太陽って……でも、温度が……。
意識体だから温度は関係ない。でも、昔とは宇宙全体の組成が変わってるから、今はいないって説のほうが濃厚。
そうなんだ。
彼らは、宇宙超球のなかに住む第一世代の文化と交流があって、空間からエネルギーを取り出すことが出来た。無限に。
ちょっとまって、無限に?
彼らは空間を生み出した。空間はいくらでも広げることができる。その空間を多重化させて、密閉し、内部で真空崩壊を引き起こすことでエネルギーに変換した。エネルギーは軽元素に変換し、物質が生まれた。物質は相互作用して、重い物質を生み出し、重い元素は自重で宇宙超級内部に落下していくという物質のライフサイクルが生まれた。
僕はもう会話にはついていけてなかった。脳内にはただ、太陽にすむ巨大なタコ型のモンスターが空間と物質とを生み出している姿だった。
だけどその最初の宇宙は、真空崩壊のコントロールミスで消滅する。いまの宇宙は蓄積された宇宙超球の表面に再生された第二期の宇宙。そこでやっと物質の生命体が生まれる。
フレアの話によると、その第二期の宇宙で初めて生まれた文明は昆虫、集合意識を持った群体で、これが第三世代文明。その生命はやがて古のタコの叡智を得て、空間を操作できるようになり、やがて宇宙の環境を破壊し、その環境に適応できず滅んでいった。脊椎動物が主流になったのはそのあと。いまは世代交代の過渡期だと、フレアは言った。
「私たちもはるか昔は、生命はどうして生まれたんだろうって考えたんだよ。だけど宇宙のあちこちで、さまざまな生き物に会ってたどり着いた答えは、宇宙が生命を生み出したんじゃない、生命が宇宙を作り出しているということだった。そこには特定の種の意志が働いたわけじゃない。宇宙はただ、生命の捕食行動の結果によって広がっていっただけ。
「じゃあ、第五水準の文明は? 彼らはどこにいるの?」
身を乗り出して訊いてみると、「わからない」と、返ってきた。
「私たちが空間と無関係に移動できるように、彼らは時間からも開放されている」
ということは、つまり、
「そいつらは時間移動できるってこと?」
「そうだけど、たぶんあなたのイメージは正しくない。
たとえば漫画ってあるでしょう? あなたの世界に」
ほう。何を読んだんだろう、とか思ってしまうけども、ああ、はい。続けてください。
「漫画は二次元だけど、ある日その主人公が、漫画の外側には三次元の世界がある、と気がついて、三次元に出る能力を得たとする。でも彼が何をするかといえば、ページを抜け出して、他のページ、あるいはせいぜい他の漫画に移動するくらい。それ以上のことを彼らは想像できない。それは三次元の本質を何も言い表していない。私たちが『時間移動』というのも同じことで、時間の本質を私たちは知らない」
なるほど、と思いながら聞いていると、
「時間って何だと思う?」
と、向こうから質問が飛んできた。
不意に来た哲学の時間。あまりにも単純で逆に難しい質問だったけど、心のなかの田中先輩がアドバイスをくれた。
――漫画が二次元で、三次元に出たらページを移動できるわけだろう?
だったら時間ってのは――
「ページ数ですか?」
「ある意味、正解」
正解しましたよ、田中先輩。僕は何を当てたんでしょう?
「漫画の登場人物にとって、ページ数は意味のない数字。だけど彼らにとって、『奥行』はページ数でしか捉えられない。それと同じで、私たちが『時間』として捉えてるものは、全く何の意味も持たない数字。
私たちは大脳でものごとを考えるでしょう? 物事を記憶して、現在起きていることを過去の記憶と照合して、こうすればいいんだなって判断する。その経験が時間って概念を生み出す。ところが、第四水準文明の大半の種には大脳が無い」
大脳がない?
「主に二軸神経系が多い。地球でいうとエビとか昆虫。彼らは大脳がないから、時間を認識できないの。でも、虚数方向への空間移動を実用化したのは彼ら。彼らは時間を、移動している物の方を固定して、そこに現れる場のエネルギー分布として捉えるの。その変化量を行列微分をベースとした関数に当てはめたものが、私たちでいう『時間』。私たちにも検算はできるけど、数字の意味は理解できない。でも彼らはそれによって虚数距離と虚数速度を発見して、これらの積でマイナスの時間を得ることができるようになった」
ここまで難解になると、途中に寿限無を挟みたくなる。
「たとえば音楽を聴くとしても、彼らには数秒前の音を記憶しておくような機構はないから、その瞬間の音圧がわかるだけで、音楽は聞こえないはずなの。私たちの感覚でいえば。でも、私たち同様に音楽を理解している。あるいは、そう見える」
なるほど。エビや昆虫が特定分野で優れてるんだなというのはわかった。
「僕はてっきり、脊椎動物が一番賢いものだとばかり」
そう言うと、
「大脳の処理速度は遅すぎてアテに出来ないよ」と、にべもない。
「大脳での情報の処理には、1秒から3秒程度の時間がかかっている。大脳しか持たない種が認知している現在ってのは、3秒前に予測した3秒後の未来。だから、さまざまな予断が入る。それを随時修正すると同時に、3秒後を予想する。そうして、現在の情報を記録すると同時に、未来という概念を作り出す。でもそれは本当の現在でも、本当の未来でもない。大脳で思考している限り、時間なんてものはわからないんだよ。本当は」
そして日は進んで大陸移動の前日、もしかしたらこのひとたちの勝手な戦争で地球が崩壊するかもしれないという日を翌日に控え、ベリチェの開いてた羽が閉じて、「男の子になった!」と朝からはしゃいでいる。
「交尾ってどうやるの?」と、あけすけに聞いてきて、思わず「フレアと交尾してみるの?」と聞き返してしまった。
「エロいこと考えると、生殖器が勃起するから、それを総排泄腔に挿入するんだよ」
と説明してもエロいことが何を指すのかよくわからないらしく、
「ジュディ見たらいいんじゃない?」
「拐ってくる?」
と、ぶっそうな話をしている。
「それより、インタビューで聞くこと決まった?」
と、フレアが聞くので、うん、小さく頷いて、部屋を見渡して、インタビューの場所を探していると、
「じゃあ、外がいいな」
フレアがそう言って、インタビューは外で行うことになった。
馬小屋の裏手、自然文化園のあたり。馬小屋と屋敷の間から井の頭公園の池が見える。
曇天。少し風の音が強い。
椅子を三つ並べる。テレビの対談番組のように。
ビデオや録音を回すインタビューでもないので、気軽に行こうと思う。
――それでは、フレア・カレルと、ベリチェ……ええっと、
「ベリチェ・リセ・マイユ」
――ベリチェ・リセ・マイユへのインタビューを始めたいと思います。
僕がそう言うと、ベリチェとフレアは「リセ」「リセ」と、小声で繰り返して笑い合う。
――おふたりともよろしくお願いします。
「よろしくお願いします」
「よろしくー」
――まず二人の関係を聞きたいんだけど、『恋人』でいいんですか?
「うん、恋人でいい。地球の言葉で言うとそう」
「急なことで戸惑ってるけど、うん。そう」
――フレアはカレル家の長女ですよね。そしてその、お母さんのお弟子さんが、ベリチェ。
「そう」
――それで最初に、まずはこれから聞かないといけないと思うんですけど、あなたたちハイアノールって、不老不死なんですよね?
「そう。遺伝子修復機能と、器官修復機能と両方あるから、まず死なない」
「人類ももうすぐだよ、そうなるの」
――本当ですか! 楽しみです! ハイアノールはいつ頃そうなったんですか?
「地球年に換算すると誤差があるかもしれないけど、概ね八〇万年前」
――古い話ですね。ふたりが知り合ったのはいつ頃?
「ベリチェが母に弟子入りした時だから、二五〇年前?」
「うん、そのくらい」
――出会ってからは、ずっと仲良し?
「まあ、そうだね」
「フレアが馬鹿なことばっかり始めるから、私が手伝うの」
――地球人の感覚でいうと家族って血のつながりなんですよ。ハイアノールはそうじゃなくて、それを模したものですよね?
「模したもの? 模したものだと家族じゃないの?」
――あ、いや、なんというか、じゃあ、だれかと家族になるのはどうして?
「そうするのが落ち着くから?」
「大昔に不老不死になったんだよ、私たち。でもその時の記憶はなくて、その時の家族ももう覚えていない。でも、身体の構造も脳の構造も当時のままだから、それが落ち着くんだと思う」
――記憶がないというのは?
「不老不死といっても、脳の記憶容量が増えたりはしないでしょう? だからだいたいのことは百年もすれば忘れてしまう」
「身近なことだともう少し覚えてるけど、でも他のことは、例えば隣の部屋にだれが住んでたなんてのは二十年もしたら忘れる」
――わかります。一週間前に食べたおやつとか忘れますしね。
「おやつは忘れない」
「それは価値観の違い」
――ははは。それは置いといて、ベリチェにも家族はいるんですよね?
「いるよ。他の惑星だけど。私ひとり飛び出して、ツィディに弟子入りしたの」
――里帰りなどは?
「たまに」
――実はその、僕にも家族がいまして、地球に。まあ、そこそこ仲良かったと思うんです。でも僕の学生時代の彼女が、家族とうまく行ってなくて。だからあんまり、「家族愛は全宇宙共通ですねえ」みたいなことは言いたくないんです。
「わかる」
「うちの親もひどいし」
――でも、ひどいって言いながら家族になるのはどうして? 地球では、血がつながってるからしょうがない……っていうのがあるけど、そんな事情が無いんだったら、家族になんかならなきゃいいのにって思うんです。
「逃げ場所かな。世界で唯一、契約の無い場所」
「ああ、わかる。ルールでしか成り立たない社会のなかで、家族だけは『家族になろう』ってだけで一緒にいられる」
――ああ、なるほど。友達や恋人もそうですよね。
「でも、友達までは等価交換の関係だと思う。家族は与えるだけ」
「そうそう。友達ってわがまま言うと薄っすらと解消されていくけど、家族って嫌っても憎んでも残ってしまう」
――逃げ出したくはならないの?
「そこが考え方の違いかな。たとえば、私がだれの娘でもない、ただハイアノールという属性しか持たないひとになったら、私という『個』はいらないと思うんだよね。短所も長所もあるけど、カレル家の長女だから、私は私でいられる」
――なるほど。家族に縛られた地球人には無い感覚ですね。ちょっと関連するんですけど、もうひとつ疑問なのは、『性』ですよね。
「もしかして、動物がするやつ?」
――地上では、家族の問題で『性』って大きいんですよ。でもハイアノールにはそれがないでしょう? 性の問題のない家族って、イージーモードだなって気がするんです。
「あ、それ、逆に聞きたい」
「交尾によって家族にいざこざが起きるの?」
――起きますねえ。うちの場合は親が姉に厳しくて。
「姉は何と交尾したの?」
――いや、交尾したというか、帰りが少し遅いと怒鳴られたり、どこに遊びに行くにしても逐一場所を聞かれて。わかるんですけどね、そういうのも。でもそれ見てた当時僕まだ小学生でしょう? 泣いてる姉が可愛そうで。
「良くあるよ。似たようなことは。社会と家庭と、二つの価値観を行き来してるわけでしょう? そこに齟齬も生まれるし、齟齬が有るから、ああ問題ってここなんだな、ってわかるんじゃないのかな。だから家族が大切なんじゃない?」
――問題がわかる、ってことは、次にやるのは問題を解決するってことでしょう? 社会には法律があるから、それに沿って問題は解決できる。でも、家族って法律じゃないじゃないですか。家族の間でどっちが良い悪いって、どう判断すべきだと思います?
「良い悪いって、ひとには当てはめる言葉じゃないよ。その感覚は理解できない」
――そこからですか。
「良い家族、悪い家族、あるいはコムギの場合だったら、良い姉、悪い姉、っている?」
――うーん。いるというか、想定は出来ると思う。
「それはたぶん、先入観を通して見るんだと思う。社会を投影しているんだよ。ひとに対しては良い悪いって見方はしないよ。私たちの常識では。良い姉も悪い姉もいない。愛すべき姉がいるだけ」
――それはつまり、家族は正しくて、そこに投影してる社会が間違ってるってこと?
「そう」
――つまり、社会の方を家族に合わせるべき、と。
「そうじゃないよ。家族に合わせたら社会にもルールがなくなるじゃない。家族のなかにある『ルールじゃない何か』を、社会のなかの『ルール』に変換するんだよ」
――でもやっぱり、変わるのは社会ってことでしょう? 家族を変える必要は?
「家族を変える必要って何?」
――父親が頭が固くて、それで家族がつらい思いをしてるときなんか。
「話すしかないよね。それ以上のことはできないよ」
「社会はひとが作るものだからルールでも何でも好きなように作れるよ。でも家族は身近にいるとはいえ他人。変えようが無い」
――なるほど。ハイアノールはそうなんですね。でも僕ら地球人からすると、社会は法律や常識だから変えられない、家族なら変えられる、なんですよ。
「端的に言うとありえないよね」
「どんなに問題があっても、私たちは他のひとを変えようがないし、変えちゃいけない」
――でも家庭が変わらないとなると、家庭はどんどん保守化していくと思いませんか? たとえば地球でいうと、エコロジーやフェミニズムなどで社会は変わるのに、家庭は変えられない?
「最終的には、社会が変わることで、それを内面化して、ひとが変わって行く。社会ってのはサンドボックスで、最後に残るのは家族なんだと思う。法律も何もない、それでも秩序立っている家族が残る」
「うん。必要なら変わるよ。変えるんじゃない。さっきから『変える』って言ってるの、コムギだけだよ?」
――あれ? そうでした?
「コムギはたぶん、生物の意識が自発的なものだと思ってるからすれ違うんだと思う。生物の意識なんかぜんぶ反射の集合だよ。環境が変われば自然に変わる」
――自然に変わるってのは、じゃあ、自発的には何をやっても変わらない?
「変わるよ。常に変わる。息をするだけでも変わる。でも、変わるのは結果。生活と規則を切り離すから『変える』って発想になる。コムギはいつも結果のことしか言わない。ひとはいまのことだけ責任を持てばいいの。未来のことなんてどうでもいい」
――地球では逆ですね。僕たちは未来に責任を持つことが求められてるんです。
「未来って何億年後?」
――いや、何億年とかでなく、来年だったり、十年後だったり。
「いまの環境を維持して達成できる未来なんて、未来じゃないよ。それは『いま』とは違うの? 未来はどこにもないし、だれも責任を持てないし、独占もできない。違うの?」
「気持ちはわかるけど、落ち着いてベリチェ」
――あ、大丈夫です。続けましょう。ええっと、つまり『変える』ではなく『変わる』ってことですよね。
「変わるっていうか、呼吸に近いかな。変わるなんてことも考えないよ」
――それって具体的に、どういうことなんでしょうね。
「何もしなくていい。私はただ、音楽をやるだけ」
――おお、かっこいい。
「直接言葉にして言うのが得意なひとはいるけど、私はそうじゃないしさ。音楽にメッセージなんか込めてないし、メッセージなんか受け取らなくっていいんだけど、自分自身はそこに込めてるから、自分自身を受け取って欲しい」
――なるほど、音楽で例えられると、なんとなくわかる気がします。
……とは言ったものの、本当に理解できているかどうか自信はなかった。彼女たちの思想は、僕とはまったく違っていた。メモは取っているけど、それが何を意味してるのか、ここを離れたらもう思い出せないかもしれない。自分なりに噛み砕くことは出来ても、そうしたとき、彼女たちの言葉は死んでしまう。
少し言葉を接ぐのを忘れていると、ベリチェは静かに言葉を紡いだ。
「……ずっと好きだった。フレアのこと」
「急に何?」
――ええっと、ちょっと僕も戸惑ってますけど、どうぞ続けてください。
「あんまりないと思うんだ、ハイアノールがだれかを好きになるなんて。だって、なんだかんだ言ってもみんな八〇万歳だよ。どんなに若くても数千歳で、雛なんて孵してるカップルいたらニュースになるくらいなんだよ。だれも好きにならなくて生きていけるし、趣味だけでじゅうぶん楽しい」
――でも、好きになった、と。
「フレアは覚えてないかもしれないけど、ある日急にね、
『この星で最初に光が射したのってどこだと思う?』って聞いてきたの。
『わからない、教えて』って聞き返したら、
『光の気持ちになって考えるんだよ』って、フレアは目を閉じて、
『何を照らしたい?』って。
それだけでなんか胸が一杯になって、私、何も答えられなかった」
――ああ……いい話ですね。逆にフレアはベリチェのどんなところに?
「私は……ええっと、待って。そういうインタビューだと思ってなかったから。どうしよう。急過ぎてすぐには……」
――じゃあ、後回しにして……
「じゃあ次、コムギの番」
「僕?」
「もしかして、交尾したの私が初めて?」
「いや、そこはあまりストレートには……」
「私たちも地球人の人生観を知る権利があると思うの」
「そうそう」
「えっ? いや、あの。僕はその……引かないで聞いてくれるなら」
「なんでもどうぞー」
「私たち、八〇万年生きてるんだよ?」
「ちょっとあの、地球の話なので、固有名詞とかわかりにくくなるとは思うけど……」
「何でも言って。言うことが肝心」
「私たち、固有名詞とか気にしないタイプ」
「じゃあ、失礼して……
学生時代、あの、大学に通ってた頃、つきあってる子がいたんです」
「ああ、言ってたね」
――僕の家族はおおらかというか、これは僕が息子だからで、姉に対してはちょっと違うんだけど、でも僕のことは放任主義というか、馬鹿というか。実家は豊橋……豊橋っつってもわかんないかな。でもまあ、そこにちょっとした商業ビル持ってて、家賃収入あって、東京近郊の一流でもない大学入ってからもバイトしないで仕送りしてもらって、その金でパラグライダー買うくらいには道楽できるバカ息子だったんです。
それで、一年のときに、鳥好きの子と知り合ってね、好みのタイプだったし、鳥なんか飼ったことなかったのに、「小鳥、可愛いよね」とか言って仲良くなって、彼女は実家から通ってたんだけど、横浜の鶴見区から埼玉の草加まで、通学かなり遠かったんですよ。それで僕の部屋、スカイツリーのあたりにあったんですけど、夜遅くなったらよく泊めてたんです。
でも彼女、親父さんはどっかの議員さんだとかで、妙に厳しくて、家族とあんまりうまく行ってないっていうか、過保護なとこもあったと思うんだけど、男女交際には凄い厳しかったの。家に帰るのを怯えてることもあって、僕も帰したくなかったんだけど、毎晩泊めるわけにもいかないでしょう? 僕もあんまり彼女の家庭にまで踏み込みたくはないし、距離感がなんか、中途半端っていうか。
鳥を飼いたいのに飼わせてもらえないって言うから、僕の部屋で飼ってもいいよ、って亀戸のペットショップで買ったんです。アキクサインコ。その子の名前がプルーム。彼女がつけたんです。
それで彼女、草加の学校は第一希望じゃなかったとかで、四谷の別の大学受け直して、そっちに通い始めて、それで僕の部屋にも来なくなって。実質半年くらいじゃないかな、彼女って言えるような間柄だったのは。彼女からの最後の連絡は手紙で、『携帯、チェックされてるから、メッセ送らないでください』だよ? 親が携帯チェックする? ていうか、あの親、俺のことそんなに嫌い?
四谷の学校に行ってからはよくわからない。彼氏ができたんじゃないかって思う。こっちから連絡もできないし、向こうからの連絡待つしかなかったんだけど、なんもなくて。
最後どうなったと思う?
四年の夏頃、僕の部屋で自殺したんですよ。
鍵は郵便受けに入れてたから、それで部屋に入って。
理由なんかわからないし、向こうの親は俺を殺人者扱いだし、実家のビルにも嫌がらせくるし、僕が何をしたのって思うんだけど、逆に何も出来なかったのが悔しくて。どこかで助けられるタイミングがあったはずなのに、気づけたはずなのに、って。
それでなぜか、「こいつが殺した」とか言って向こうの親に訴えられて、その裁判はもちろん勝ったけど、それでむしゃくしゃして、朝霧のコースで飛んでたら着陸の時、木にぶつかって両脚骨折。その時の傷まだ残ってて、髪の毛一房だけ黄色いでしょう? ここ、白髪しか生えてこなくて。色入れてみたんだけど、おかげで先輩からずっとタンポポ呼ばわりですよ。
小学生の頃とかは好きな子はいたけど、ちゃんと恋らしい恋って、その半年だけなんです。その半年間だって後悔ばっかりしか残ってないんだけど。
――僕がそのあと、言葉を失っていると、
「プルームはどうなったの?」
と、ベリチェが訊ねる。
入院してる間、姉が世話してて、そのまま情が移ったとかで飼い続けてる。姉なりにたぶん、僕が思い出さないようにって気を使ってるんだと思う。
「それから会ってないの? プルームとは」
二回くらいかな。
甥が生まれてからは、ずっとカゴのなかかもしれない。
ブラインドを開けると、ずっと外を眺めてる子だった。
夕方、近くの小学校から音楽が流れてきて、彼女はプルームを指に乗せて、よく口ずさんでた。
なのはーな ばたけーにー いーりーひ うすれー
みわたーす やまのーはー かーすーみ ふかしー
四谷の学校に移った後もさあ、プルームの姿が彼女とかぶって、いまもどっかでカゴのなかにいて、自由になりたがってんだろうなあって、ずっと思ってた。
いまもそうだよ。いまも僕の胸のなかで彼女は歌ってるんですよ、人差し指にプルームを止まらせて。ずっとあの窓辺で、夕焼けを見ながら。
この四年、後悔しかないよ。
どうして何も出来なかったんだ、どうして気づかなかったんだって。
……ごめん、これ以上無理。
ここで終わりでいい?――
フレアはおもむろに立ち上がり、桃色の羽根を広げて僕を背中から抱きとめてくれて、僕はその羽根のなか、四年ぶりに、しゃくりあげて泣いた。
その夜、僕はひとりで眠った。
フレアは僕をベッドに誘ってくれたけど、
「ごめん、今日はちょっと、彼女のこと思い出しちゃったし、ひとりで眠りたいんだ」
そう言ったけど、彼女はもう僕の心なんて見透かしているんだ。
その日、フレアはベリチェとふたりでベッドに入って、翌日、フレアが教えてくれたんだけど、結局エロいことってのがどうしても頭に浮かばなくて、交尾はしなかったんだって。
でもずっと羽根を開いて、抱き合ってて、よくわからないけどそれでいいって言ってて、なんか、僕ももう吹っ切れたっていうか。
第十五章 蝕の終わり
大陸移動の朝。
少し雲が多いだけで、普段とはそんなには変わらない空。
日が昇るとともに赤道上空を一周するホイールが回り始めて、対第五水準文明防衛用の予備システムが起動する。シスーク型と呼ばれる外宇宙機を使うために、地球の磁場を安定させる必要があった。ホイールは可聴域ぎりぎりの低い唸りをあげて、うっすらとオレンジの光を散らして回転した。
「シスーク型って、恒星炉をふたつ搭載した奴でしょう?」
「うん。恒星系内で運用するの、はじめてじゃないかな」
いわゆる外宇宙用。シスーク型は縮退させた空間に大型の核融合炉を持ち、機体は生体型でありながら、放射性元素を安定させるために内部は二〇〇〇気圧三〇〇〇度に保たれている。多重化された空間移動機構を持ち、虚数空間連結で複数機体で冷却装置を共有、驚異的な排熱能力を持ち、恒星に匹敵するエネルギーを生成、利用できる。排熱は水素原子に変換してどこかに捨てていて、最近そこに星が出来かけてるとニュースになった。
自在関節の脚部に無数の砲門を備えていて、これが虚数軸にも張り出しているので、量子化のフェイズ次第で脚の本数が変わる。これによって亜光速のビームと、光速の冪乗速のビームとを撃ち分けることができる。
地球磁場の安定化を待って、本星から派遣された艦隊が衛星軌道外に次々とワープアウトする。
「本当に第五水準の文明って、私たちを引き止めに来るかなあ」
「わかんない」
いずれにしても勝てる勝負ではない。だけど、このファーストコンタクトで両者の立場が決まる。何もせずに引き下がれば、私たちは被捕食者になって、その関係は未来永劫続く。
「宇宙は残酷だね」
「うん」
コムギがパラグライダーの準備をしている横で、私とベリチェは御者台に座って空なんか見ている。今日、太陽が正中する頃には大陸移動が始まって、移動そのものは一時間もかからずに終わる。
「ここはのどかだー」
「うん」
丘の方でコムギが手を振る。
準備できたんだ。
ベリチェとふたり、コムギのもとへ向かうと、コムギの方からも少し駆け寄る。
「なんか雨雲が近づいてるみたいだから、ちょっと予定を早めるかもしれない」
空を見ると確かに少し雲行きが怪しい。
「大丈夫? 飛べそう?」
「海の上は飛んだことないけど、降りるだけだし、なんとかなると思う」
そう言いながら、コムギの胸には不安ばかりが詰まっていた。何かトラブルがあったら私が祖父のプルノー型を借りて地上に下ろしてあげてもいい。一生で一度くらいは、そういうルール破りもありだと思う。操縦はなんとかするよ。コムギのためだし。
上空には複数のシスーク型の戦闘機が、まるで軟体生物のように触手をうねらせながら飛び交う。
それを見て、「あれは?」と、コムギが問う。
「第五水準のひとたちが攻撃してきた時用の防衛部隊」
コムギは顔をしかめて、「大丈夫かなあ。僕、狙われないかなあ」と漏らす。
「大丈夫。だって、可愛いもん。コムギは」
そんな話をしていると、祖父のプルノー型が姿を表し、馬車近くに着陸する。
甲羅の一部が開き、降りてくる祖父に、「どうしたの?」と、ベリチェ。
「ここは危ないかもしれん」
どういうこと?
プルノー型のボーガル水亀の擬態が消え、双胴の機体の反対のハッチから祖母とジュディも降りてくる。祖父はそのまま説明を続ける。
「地上軍が遠方の基地から順番に航空機を上げ始めた。この近くには各国の空母も集まっているし、そこからも上げてくるだろう。おそらく、飽和攻撃になる」
「突破されそう?」
「三〇〇〇まではなんとかなるんだが、向こうも囮用のダミーを混ぜてくるだろうな。こないだもでかいガンシップがダミーをばら撒いていったし、こっちのシステムをかなり分析している」
もしかして、戦争が始まる?
「そうだな。戦争というほどのものにはならんだろうが、いずれにしてもあと三〇分もすれば第一波が到達する。天候もこの通りだ。そろそろ出たほうがいいかもしれん。そうコムギに伝えてくれ」
私はすぐにチョーカーを喉に当てる。
「コムギ、いますぐ飛べる?」
「飛べるけど、急がなきゃ駄目?」
「あと三〇分で地上軍の攻撃第一波が到達するって」
「わかった」
「離陸を確認したら、私たちもすぐにシェルターに入る」
「うん。そちらもお元気で」
続けて彼が、「ジュディ」と呼ぶと、祖母に抱かれていたジュディがコムギに駆け寄る。
「キャンプはごめんな、怖がらせちゃって。でももう大丈夫。これからはずっと爺ちゃん婆ちゃんと一緒だ。元気で暮らすんだぞ」
そう言うとコムギは祖母に一礼し、両手を握る。
ベリチェは少し離れたところで、歌を歌っている。
クロマの七番から四番、十一番へ。
もしかしたら別れが悲しいのかもしれない。さっきからずっと歌ってる。
私はライトパネルを開いて、母を呼び出す。もう時間もないけど、これが最後だから。
「お母さん。コムギが帰るの。最後に挨拶を」
そう言って、コムギを呼び寄せる。
「コムギちゃん、本当に帰っちゃうのね」
一言目はチョーカーなしで喋ったのでコムギには伝わらなかった。
私が自分の喉のチョーカーを示すと、母もようやく気がついてチョーカーをつける。
そして改めて、
「コムギちゃん……」
だけど言葉はそこで途切れる。暫しの無言の間のあと。
「ベリチェは何を歌ってるの?」
ベリチェ?
そういえばベリチェはずっと歌を歌っているけど、と思ってふと見ると、ずいぶん興奮しているのか、腕のあたりの羽根が開いているのが見て取れる。
「どうしたの、ベリチェ!」
「風がねえ、歌を歌ってるの!」
風が?
耳を澄ましてみるけど、私にはよくわからない。
「歌って?」
ベリチェは風の音に合わせて、その少し下に声を合わせる。
風の音が変わると、今度はその少し上に声を合わせる。
次に二声で、次に三声で。
信じられなかった。
本当に歌になっていた。
「風だけじゃないよ。雷もだよ。それにあれ」
ベリチェは上空のホイールを指す。そこから伝わるごく低い周波数をも音楽の一部を構成している。私も、自分の羽根が開いていくのがわかった。
その時、背後にワープホールが開き始め、その音すらこの風のなかでは音楽になる。
風の音にベリチェが声を重ねてメロディを奏でていると、そこにワープホールから現れたツィディ・カレルも歌声を合わせる。
ツィディ・カレルとベリチェ・リセ・マイユの六声の旋律に、大気が震えだす。
「何が起きてるの?」
戸惑うコムギに、私はただ微笑みを返すことしかできない。
「地球が歌を歌ってる!」
次の瞬間、空にオーロラが現れ、その光の帯を幾重にも波打たせる。
祖父母も目の前に起きている現象に目を奪われ、ワープホールからはアデルとニックも姿を現す。母がアデルとニックに指で何かを示すと、ふたりもそこに声を重ね、複雑なポリフォニーを描き出す。
風は楽器に変わった。複雑な音階、複雑なリズム。目まぐるしいクロマ展開にベリチェも母も心を奪われたように歌を合わせる。
「タルエドも来たようだな」
祖父がそう指差す先にはシスーク型の戦闘機が見え、その恒星炉の唸りも音楽の一部となる。そんななか、シスーク型の触手が不自然に揺れ、信号光を放つ。
それを見た祖父。
「第一波、加速したらしい。接触は予定よりも十三分早まる」
「コムギ! 早く準備を!」
「フレアももう撤退の準備をしたほうがいい。こっちの予定も早まるかもしれん」
わかってる。でも、撤退なんて考えられない。
やがて雲のなかに、ふたつめ、みっつめの太陽の姿が見える。
幻日のように光のアーチで結ばれながら、更にその数を増やし、それぞれの太陽の前を月が横切る。太陽はそれぞれに音を響かせて、月影に欠けながらゆっくりと波長を変える。まるですべての時代の日蝕をここに集めたように、厚い雲を透かして無数の太陽が黄道に並ぶ。
太陽が奏でる音はクワイアへと変わり、金色の音と光が雨のように降り注ぎ、足元から放射状に延びた私たちの影が回る。
もはやこの音が現実なのか幻想なのかすらわからない。
罠だ。
第五水準の文明が、私たちをつなぎ止めるために見せている幻影だ。
そう思いながらも震えが止まらない。
「上層に動きがあった!
大陸移動の時間を早めるそうだ!
すぐにシェルターへ!」
祖父の声が聞こえるが、胸の底までは届かない。
ベリチェは歌いながらシャツを脱ぎ捨てて振り返り、私に駆けて来て、そのまま抱き着いて草の上に転がる。
「昨日起きなかった奇跡が、今日起きたんだよ」
すぐにはその意味がわからなかった。
ベリチェは私の手を取って、その指を奇跡に触れさせる。
「罠なんかじゃないよ。ずっと探してたんだよ。ようやく見つけたんだよ」
わかった、ベリチェ。
「妖精を探しに行こうか」
「うん!」
ベリチェは私の手を引いて起こして、立ち上がるとすぐに私のシャツを脱がす。
私がベリチェのベルトを外すと、彼も私のスカートのボタンを外す。
靴を脱いで、下着を脱いで、私たちの羽根はすべて開いて、上気し、息を弾ませて、駆け出すとその羽根が風になびく。
私たちって、こんなにも長い羽根を持っていたんだ。
コムギはパラグライダーのラインを背負って、助走の準備に入っている。
「行こう、コムギ」
コムギは少し微笑んで頷く。
母の歌が響いている。アデルと、ニックと、すべての月と太陽とが、歓喜の歌を歌う。地球上のすべての音楽をここに集めたような複雑で重厚な音楽のなか、針の穴を通すようにたったひとつの旋律を見つけ、母は歌う。
空には数百の幻日が、数百の時計となって、時を示すように欠け行き、ベリチェは胸の底から湧き出す喜びを吐き出すように叫び声をあげる。私も、海に向かって、囚えられていた何かを解き放つように声を上げる。
コムギが駆け出すと、放射状のラインが風を切り分け、丘に広げたパラグライダーが空に広がる。風がコムギの肩に掛かる。
コムギに合わせて私とベリチェも丘を掛け下り、コムギの足の最後の一歩が大地を蹴ると、私たちの手も翼になる。
次の瞬間、私たちは風のなかにいる。
「フレア!」
羽ばたいて空を舞うベリチェが見える。
八〇万年の記憶の彼方にあった、本当の私たち。
「フレア! フレア!」
興奮気味に私の名を呼ぶベリチェ。
「どこに行く、ベリチェ?」
「ずっと! どこまでも!」
幻日の向こう、遠く前方から迫りくる地球の戦闘機が見えて、一抹の不安、だけどそれをかき消すように長い触手を持った黒い戦闘機が私たちを背後から追い越していく。
お父さんのシスーク型。四〇〇門一斉砲撃。触手という触手の節という節から光が放たれる。その光が全方位に展開した地上の兵器を一掃すると、炸裂するオレンジ色の火球の群れは地平線の向こうまで覆い尽くす。
その爆風と、熱、オレンジ色に染まる海を、私とベリチェは飛び続ける。
上空にはコムギの姿も見えて、爆風に煽られて揺れる。
私とベリチェとでキャノピーを支えて、黄道に並んだ無数の太陽から、コムギが帰るべき太陽を探した。
「あったよ。あれじゃないかな」
ベリチェが指差す。
うん。
ひとつ頷いて、ふたりでコムギの背中を押した。
ねえコムギ、この力を届けて。
「元気でね、コムギ!」
「また会おうね!」
私は風になりたかった。
なにかの形ではなく、私が作り出した、ほんの小さな一欠片になりたかった。
永遠じゃなくていい。
その瞬間だけでいい。
私たちはずっと、その瞬間にとどまりたかった。
第十六章 光射すところ
スマホを見ながら居眠りしていたらしい。
僕はオレンジ色に染め上がる夕焼けの国にいて、そこはまるで神々の間だった。目には見えないけど、無数の神々、そして天使たちが僕を見守っていた。無数の夕陽に囲まれ、そこでは夕焼けにまつわるいろんな音楽が奏でられていて、それが太陽を通して外の世界に滲み出していた。
そのひとつが僕のアパートのすぐ近くの小学校のスピーカーで、僕は風に押されて夕陽に飛び込んで、スピーカーへとくぐり抜けた。
僕は、太陽を通って、音楽になったんだ。
寝起きの瞬間って、そこがどこなのか、いまがいつだったのかわからなくなること多いけど、窓に流れる景色に焦点を合わせて、ぼんやりと自分の感覚を取り戻す。
手元のスマホに、新婚旅行中の姉から日蝕の映像が送られてきている。
そうだった。姉夫婦はこの日蝕に合わせてミクロネシアに行ったんだ。
背中を丸めて、駅からの道をとぼとぼと歩く。アパートに着いて、背中に背負った夕焼けを忍び込ませるように、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
うちにいると思った彼女から返ってくる声もなくて、帽子、マフラー、手袋とを脱いで、ダッフルのコートを肩から下ろして、ハンガーに掛け終える頃にやっと、部屋の奥からか細い声で、
「おかえり」
「どうしたの?」
電気をつけて部屋に入ると、彼女はラタンの椅子に腰掛けて泣いていた。
「プルームが死んじゃったの」
死んだ?
どうして?
その手にはプルームの亡骸が横たえられた、小さな箱がある。
「わかんない。昨日まで元気だったのに」
ヒーターは入ってたよね?
そう聞くと黙って頷いて、こんなときどう声をかければいいんだろう。
まだ陽もあるし、そんな時間じゃないけど、
「ご飯は食べた?」
そう聞くと、何も言わず首を振る。
「じゃあ、何か買ってくるから。
今日はプルームと一緒にいて、明日お墓を作ってあげよう」
そう言って、静かに泣いている彼女を背中から抱きしめた。
その夜はプルームの思い出話。短い人生だったけど、きっと楽しかったよね、私たちのとこに来たこと後悔してないよね、きっとどこかでまた生まれ変わるよねって話をして、
「僕のなかではまだプルームは生きているよ」
と、そんなことを口にしていた。
次の日、公園の隅にふたりでプルームのお墓を作って、
「これからどうするの?」
と聞くと、
「来月から四谷だから、もう泊まる口実もできないかも」
うん。
ごめんね、お父さん厳しかったんだよね、そういえば。
手をつないで、駅までの道をゆっくりと歩きながら、ふたりとも言葉をなくして、あと五分、こうやって歩いて、さよならって言ったら、たぶんそれで終わる。彼女はもう、僕のアパートを訪ねては来ない。
でも、「それで終わる」って、何が終わるんだろう。
本当は何も終わらないんじゃないかな。
何かが続いていくのを知っていながら、終わるふりをしてるだけなんじゃないかな。
「あのさあ」
「うん」
「お父さんに会ってもいい?」
「えっ? 私の?」
「うん。厳しいひとだったら会って話をしておこうと思って」
「いや、無理だよ。なんて言って紹介するの? 彼氏ですとか言ったら、ええっ? いや、だって。親にって、そんな」
「ねえ、聞いて。
親とうまく行ってないんだよね。
それで、僕が悪者になるのはいいんだけど、君が傷つくの見るの、もう嫌なんだ」
「でも、だからって会ってどうするの?」
「交際してます、ってそれだけ伝えたい」
「無理。そんなことされたら私、四谷にも通えなくなる」
「『卒業してから交際させてください。それまで僕は指一本触れません』」
彼女は鼻で笑った。
「本気だって。
僕は、君のお父さんがどう考えてるか知らないし、会っても何も解決できないかもしれないけど、でもさあ、事実として君が傷ついてるのはわかるし、それに対して何もしないなんてのはもう、ありえないんだよ。
僕じゃあ何も解決できないだろうけどさあ、それは君も同じでしょう?
違うのは、君にとってはそれが逃げ出したくても逃げ出せない、家族の絆としてあって、僕は逃げ出そうと思えば逃げられるっていうか、近づかなかったら最初から怪我さえしない問題だってことなんだよ。でも僕も、逃げ出したくないんだよ、君が抱えた問題から」
彼女はひとつため息をついて、
「本気で言ってる?」
「君のお父さんに会って、『ほーらこうすると解決しましたー』ってやりたいんじゃないんだよ。そうじゃなくて。なんつーか、なんかこう、君のお父さんが抱えてる問題ってあると思うんだよ。娘にどうあって欲しいとか、世間体がどうとか、あるいは心配で手放せないとか、事情はわからないけど、いまそれを知ってるのは君だけで、この先もずっと君だけで悩んでいくことになるわけでしょう?
それをほら。
君が何か思い悩んだ時に、相談できるひとのひとりになりたい」
「それ、プロポーズじゃん。重いよ」
「違う。もし君がただのクラスメイトだったとしても、同じ事を言う。君のことは改めてまた好きになると思う。でも、いまの僕の言葉はそうじゃない」
「信じられない。ゼミの子からいろいろ聞いてるよ、君のことは」
「いろいろあるよ、そりゃ。僕なんかどうせクソ野郎なんだから」
「あと、私、傷ついてなんかいないから」
「うん。君がそう言うんだったら、それでいい。傷ついてないんだと思う。
僕のことを思い出すのは、この先万が一、君が傷ついたときでいい。
僕はもう、何て言うかな。君が四谷の学校に行くって聞いた時に、捨てられるんだって思ったんだよ。言葉にしたくなかったし、今日初めて言うけど。
それで今日駅で別れたら、もう二度と会えないかもしれないとも思ってるけど、別にもうそれでかまわないんだよ。
でもただ、これだけは聞いて。これだけが真実だから。
君が家族という絆から逃れられないように、僕はこの先、全人類、すべてのひととの絆からも絶対に逃れたりはしないし、僕にはもうそんな逃げ隠れする場所なんかいらない」
いつの間に僕はそんなことを考えたんだろう。
そう思いながらも、僕の口から言葉が止まらない。
「僕はおそらく、大学を出たらジャーナリストになると思う。
唐突にシリアとかスーダンとかに行って、これが世界だーみたいなことを言い出すかもしれない。場合によってはそこで命を落とすかもしれないし、もし万が一君と将来を築くようなことになっていたとしても、君に迷惑を掛けるかもしれないし、家族にも迷惑をかけるかもしれない。
もちろん僕が報道したからといってそれがすべてじゃないし、劇的に何かが解決するわけでもない。戦争なんてだれが良いとか悪いとかじゃないし、自分が正しいと思うことをしたからって解決するわけじゃない。
だけど、傷ついているひとがいたら、まずは寄り添うのが本当だと思うんだ。
取材も報道もぜんぶ口実だよ。ジャーナリストになろうが、僕にはそんなものは二の次なんだよ。世界平和なんかもどうでもいい。
ただ、戦争で傷ついているひとのことを、ニュースで見て、その時の自分の気持を殺すとしたら、そんな僕なんか生きてなくったっていい。
ジャーナリストってのは、生き様じゃないんだよ。感じるかどうかなんだよ」
どうして急にジャーナリストを語りだしてしまったのか、自分でもわからなかった。
彼女も少し戸惑いながら、いくつか静かに頷いて、飲み込んで、
「ジャーナリストになりたかったんだ……」
「ああ、うん、いまそう思った」
「いま?」
「自分でもびっくりっていうか」
彼女は呆れて、少しだけ微笑む。
「健くんがジャーナリストってさぁ」
「なあに? おかしい?」
「おかしくないけど。なんか、違和感あるよね」
「うん。なーんか、違和感ある」
また少しだけ無言の時間を、三歩、四歩ほど、ゆっくりと歩いた。
「あのね、ひとつだけ言っておくね」
「ひとつだけ?」
彼女は足を止める。
「私、泣き虫だよ。ひとりだとずっと泣いてる」
うん。なんとなく知ってた。
「私のこと見てると、もっと辛くなるよ?」
うん。いまもう君が涙こらえてるのわかるし、僕も泣きそう。
「いいよ。
ふたりだと、その『辛い』をなんとかしようって思うじゃん。
その最初の一歩をさ、ふたりだと踏み出せるじゃん。
絶望が一〇〇個あってもさ、ふたりだとその一個を希望に変えられるじゃん」
人間は『考える檻』だよ。
考えて、考えて、考え抜いて、その檻に囚われる。だけど、僕と君は、お互いにその鍵を持っていると思うんだ。考えて、考えて、考え抜くのも人間だけどさ、そこから自由になれるのも人間なんじゃないのかな。
気がつくともう、駅前まで来ていた。
彼女の答えはわからなかったけど、答えをわかる必要もないし、これはただの僕のわがままなんだ。ただ、逃げたくないっていう、それだけの。
バッグから定期を出して握りしめて、彼女は何か言葉を探している。
彼女がぎりぎり取り繕って、貼り付けていた笑顔が、ゆっくりと崩れていく。
「三〇秒だけ、肩を貸して」
彼女はそう言うと、僕の肩に顔をうずめた。
僕はその、しゃくりあげる小さな肩を抱き留める。
君の涙はぜんぶ、僕の涙だよ。
駅前の広場の隅で、ストリートミュージシャンがギターを鳴らし始めた。
オレンジ色の髪のヴォーカルが、積層した空の底から、声を羽ばたかせる。
あとがき
この作品は、僕が小説らしい小説を書いた二作目の作品になります。一作目も浮遊大陸が出てくるお話だったのですが、そちらは最初の作品ということもあって、設定ばかりに力が入って、ひたすらその説明と、その間に入るチャットストーリーみたいなものになってしまいました。その反省からこの二作目を書き始めたのですが、やっぱりどうしても設定を書こうとしてしまいます。
とはいえ、そもそもなぜ小説を書こうと思ったかと言えば、自分の宇宙観をまとめたかったからなので、設定をひたすら語ってしまうというのはある意味正解なのです。だからひたすらそっちに突っ走るというのもアリはアリなのですが、僕がSFとして宇宙を語るには大きな障壁がありました。それは、僕が宇宙人が時空を超えて地球に来るなどありえないと思っている点です。
というかそもそも相対性理論を信じながら、同時に宇宙人が光の速さを超えて地球に来ることを信じるなんて、不可能だと思うんです。「空間を曲げるんだよ」と言うひとはいますが、それが可能であれば漫画の登場人物が原稿用紙を折り曲げて他のコマに移動してますよ。たとえばルフィが、悟空が、銀時が、ページを曲げて、別のコマに行って仲間を救うような展開を書いたら、読者に大笑いされると思うんですよ。漫画だったら。それがSFだと受け入れられるってのは、ちょっと理解できないです。
ただ、本音を言えば、本当は相対性理論なんてものも信じたくないんです。もっと言うと、ビッグバン宇宙論なんてものも信じたくない。宇宙の年齢がたった一三〇億年だなんて、夢がないじゃないですか。なんとなくもっと大きなサイクルで動いてくれてたほうがロマンがある気がしませんか?
それで、ビッグバンが起きていないとしたら、赤方偏移の原因はなんなんだ、とか、恒星中で生まれる重い元素はどこに消えてしまってるんだ、とか、いろんな余計な設定を考えざるを得なくなるんですが、それらを劇的に解決するのが『虚数空間』で、それがぎゅっと詰まっているのがこの作品で描いた世界なのです。
「虚数と書けばなんでも許されると思うなよ」
と言われたら、謝るしかありません。
最初の稿では彼女らの細胞構造、ゴルジ体が存在せず、それを代替する別の細胞小器官があること、放射性元素をエネルギー源として二酸化炭素を還元する器官が備わっていること、高速で鱗と羽毛を変換させる細胞膜構造、気嚢から進化した副肺と発声機構、非再帰性であるバグベアの言語など、うひゃうひゃ言いながら書いたのですが、あとで冷静になって消しました。時計もそうですね。どこの星で採取してきた時計がどんな時計で、ゼンマイの巻き方がどうだ、と、えんえん書いていましたがすべて消しました。
他方、困ったのは浮遊大陸の大きさでした。いやあ、大陸って浮きませんね。
大陸と言うからにはやっぱり数千キロは欲しいじゃないですか。作中の設定だと五八〇〇キロあるんですが、そうなると厚さ数キロというわけにはいかない。せめて数十キロの厚さがないと大陸とは言えない、ただの薄皮になる。しかし、厚さ数十キロを浮かせるとなると、上の方は成層圏に達する。気圧は数ヘクトパスカルになるし、ひとが住めないどころか、ほぼ宇宙。風も温度も想像できないし、どう書けばいいのかわからない。というわけで、浮遊を諦め、お話の舞台は高度千から千五〇〇メートルあたりに持ってきました。
構成に関してもさんざん回り道はしましたが、でもそうやって試行錯誤する課程で、形にするために必要なモノがわかった気がします。改稿重ねるうちに文体もずいぶんと変わったし、必要な経験だったのかな、と。おかげでかなりツギハギっぽい感じになってしまいました。
そうやってなんだかんだで一年半はいじっていましたが、書き上げてみて改めて思いますが、いやあ大変でした。苦心惨憺でした。いえ、実際に書き上がったものはまだまだ拙いのですが、これでも良くはなっているのです。小説ってこんなに難しいものなのか、よくこんなものを毎年ぽんぽん書いてるひとがいるものだなと、改めて本職の小説家の偉大さを思い知りました。
ちなみに、キャラクター名は『フロル』と『ベリチェリ』にしようかと思ったのですが、元ネタがバレそうなので、フレアとベリチェになりました。まさかこのふたりの名前を足して、元ネタを思い浮かべるひともそうはおるまい、と思います。
と、そんなわけで、最後になりましたが、このたびは本作を手にとっていただき、誠にありがとうございました。これからももっともっと良いものが書けるよう、精進したいと思います。